3―“それ”を思った日

いつものように情事を過ごした夜のことだった。


「はい」


「何それ?」


あかりが俺に差し出したのは、メモの切れ端だった。


俺は仕方なく受け取ると、中を見た。


どこかの店の名前とそれらしき地図だった。


「何だ、ここ?」


地図を指差して聞いた俺に、

「行ってくれたら教えてあげる」

と、あかりは笑いながら答えた。



『今日のお昼休み、大丈夫そう?』


有村からそんなメールがきたのは、翌朝のことだった。


大丈夫だと返事すると、彼女は待ちあわせ場所に会社から少し離れた喫茶店を指定してきたのだった。


昼休み、俺は待ちあわせ場所の喫茶店へ足を向かわせた。


有村はもうすでにきていて、俺を待っていた。


彼女の向かい側の椅子に腰を下ろしてウエイトレスにサンドイッチとコーヒーを頼んだ後、

「どうかしましたか?」

と、俺は有村に尋ねた。


そう尋ねたとたん、有村は言いにくそうに目を伏せた。


その唇が動いたかと思ったら、

「――堕ろそうと思ってるの…」

と、言った。


一瞬、俺は何を言われたのかわからなかった。


「だからね…夫の子供を堕ろして、修司と一緒になろうって」


何も言わない俺に、有村が説明した。


説明されても、俺は答えることができなかった。


俺が望んでいたことが、今叶おうとしている。


有村が夫と別れて、俺と一緒になること――それは俺が1番熱望していた未来のはずなのに、俺は素直に喜ぶことができなかった。


――何でだ…?


「修司?」


何も言わない俺に、有村が名前を呼んだ。


――シュージ


当たり前だけど、有村とあかりは違う。


「修司が戸惑ってるのは、わかってるわ。


いきなり子供を堕ろすなんて、まじめなあなたからして見たら考えられないことですもの」


真面目――人は俺のことを、そうやって簡単に表現してきた。


真面目、優等生、常識人――今まで生きてきた人生の中で言われた言葉だが、俺自身はそんな風に自分を思ったことはない。


「お待たせしました」


ウエイトレスがサンドイッチとコーヒーをテーブルのうえに置いた。


「私、修司の答えが出るまで待ってるから。


お昼休みもうそろそろで終わりだから早く食べた方がいいわよ」


有村は席を立つと、その場を離れた。


彼女の姿が見えなくなると、

「――俺は…」


小さな声で呟いた。


本当は、何を望んでいたのだろうか?


彼女と一緒になること――それが俺の望みだったはずだ。


けれど…その望みが叶いそうになっているのに、俺は素直に喜べなかった。


どうしてなのか、よくわからない。


「――俺は…」


俺は、一体何をしたいのだろう。


昼休みの終わりがどんどんと近づいてくる。


それにあわせるように、コーヒーが冷めて行くのがわかった。



会社が終わると、俺はあかりからもらったメモに書いてある店へと足を向かわせた。


「――えっ?」


店の前についた俺は驚いた。


「――ここ…」


彼女に失恋した時にやってきたバーだった。


あかりを拾ったあのバーだ。


不思議に思いながら、俺は店のドアを開けた。


「いらっしゃい」


カウンターから若い男が俺に向かって声をかけてきた。


この男、誰かに似てるな。


たぶん芸能人かなんかだろうけど、俺は思い出すことができなかった。


俺はテーブル席の椅子に腰を下ろした。


ウエイターがやってきて、メニューを見せてきた。


俺は見せられたメニューを見ると、

「マティーニ」

と、注文した。


「はい」


ウエイターがカウンターへと消えて行った。


「シュージ」


ウエイターと入れ違いに、聞き覚えのある声が現れた。


ああ、この呼び方だ。


何だか知らないが、俺はホッとした気持ちになった。


「きてくれたのね」


あかりが俺の隣に腰を下ろした。


「こいと言ったのはお前だろ。


わざわざメモを渡さなくても、素直にきて欲しいと言えばいいのに」


そう言った俺に、

「でも店の場所わかるの?」

と、あかりが聞き返してきた。


ごもっともな意見に、俺は口を閉じた。


口を閉じた俺に、

「今日はゆっくりしてね」


席を立ったあかりはどこかへと消えて行った。


「お待たせしました、ごゆっくりどうぞ」


マティーニがテーブルのうえに置かれた。


俺はあおるように一気に飲んだ。


「――違う…」


何でなのかは知らないけれど、飲みたいものが違っていたような気がした。


もっと強いものが飲みたい。


記憶が飛んでしまうくらいに、強いものを飲みたい。


俺はウエイターを呼ぶと、ウイスキーを頼んだ。


こんな気持ちは、彼女に失恋した時以来だったと思う。


失恋したショックで、自分が不甲斐なくて、その気持ちに腹が立った。


テーブルに置かれたウイスキーも、俺はあおるように一気に飲んだ。


それでもまだ足りなくて、もう1杯頼んだ。


――俺は、何杯飲んだのだろうか?


いつの間にか、店内にジャズが流れていた。


それにあわせるように、歌声が聞こえる。


その歌声に視線を向けると、ステージのうえにあかりがいた。


いつか見た黒のドレス姿で、あかりは歌を歌っていた。


キレイな歌声が店内を包み込んでいる。


酔いがようやく回ったのだろう。


俺は夢うつつな気分で、あかりの歌声を聞いていた。


歌詞は英語だった。


でもどこかで聞いたことがあるメロディーに、俺はそっと身を任せるように目を閉じた。


「――…ージ…ュージ…シュージ!」


俺の名前を呼ぶ声にハッとなって目を開けると、あかりが目の前にいた。


「もう閉店なんだけど」


そう言ったあかりに、

「――閉店…?」


俺は店内を見回した。


この場にいる客は俺1人だけだった。


「ああ…すまない、すぐ帰るよ」


椅子から腰をあげようとした俺に、あかりの両手が伸びてきて俺の頬を包んだ。


「何かあった?」


あかりがその端正な顔を近づけてきた。


「――えっ…?」


あかりの瞳に、マヌケな顔の俺が映った。


珍しいな、あかりの瞳は濃い茶色なんだ。


まるでコーヒーみたいな瞳の色だな。


彼女に見つめられながら、俺はそんな訳がわからないことを思った。


「何杯も眠るくらいに強いお酒を飲んで、本当は何かあったんでしょ?」


コーヒー色の瞳が俺を見透かすように見つめてきた。


「シュージ」


その瞳にウソをつくことはできない。


わかっているけど黙っているのは俺のわがままだ。


彼女に見透かされることが悔しいと言う俺の男としてのプライドからだった。


沈黙が長い。


先に破ったのは、

「お金?」


あかりの方からだった。


「――はっ…?」


そう聞き返した俺に、

「お金が必要なの?」

と、あかりは言った。


そう言ったあかりに、俺は訳がわからなかった。


「いくら必要なの?


100万あればいいの?」


そう言ったあかりに、

「ひゃ、100万…!?」


俺は絶句した。


こいつ、何でもないって感じで言ったよな?


と言うか、100万って…何でそんな金額が当たり前のように出てくるんだよ。


まさか…こいつ、どっかの大きなところのお嬢様じゃないよな?


このバーの経営者があかりだとすると、相当な金持ちのお嬢様なのかも知れない。


何も答えない俺に、あかりはやれやれと言うように息を吐いた。


「わかった、用意するわ。


今すぐ必要なの?」


そう言ったあかりに、

「――いや、今すぐって程でもないけど…」


俺は戸惑った。


「そう、でも必要みたいだから明日にでも用意するわ」


何でもないと言うように言ったあかりに、俺は呆然とするしかなかった。


――あかり…お前は一体、何者なんだ?


ある日突然のように俺の前に現れて、ずっと前からそこにいたと言うように俺の世話を焼いている。


そして、当然のように100万と言う大金を用意するとまで言い出してきた。


まるで何でもないように、あかりは俺の世話を焼いている。


まるで当たり前と言うように、俺のために大金の用意までする。


初めて、俺はあかりのことを知りたいと思った。


ある日突然のように俺の前に現れたお前のことを、俺は知りたいと思った。


今さら過ぎるだろうか?


彼女に出会って何日目かで、彼女のことを知りたいなんて思うのは出遅れているだろうか?


でも…あかりを知りたいって思った。


「――シュージ?」


俺の名前を呼んだあかりに、

「――あ、ああ…もう帰るよ…」


俺は椅子から腰をあげた。


閉店間際まで眠っていたおかげだろうか?


それとも、あかりに驚いたからなのだろうか?


俺の足は飲み過ぎていたわりにはしっかりとしていた。

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