第6話 恋文 『Blood In, Blood Out 〜幕末エクソダス〜』
それから数日かけて、私とお嬢様は、改めて現状を整理しました。
お嬢様が転生した、秋葉野原は、新撰組隊士。
十番隊まで組織されていたと伝えられる新撰組の、幻の百番隊(という設定)。
百番隊の主な役割は、諜報活動と粛正。つまり、隊内のスパイ行為をして、怪しい隊士がいたら斬り捨てることで、隊内の規律を守る特殊な部隊です。
日本では、こういった諜報活動をするスパイのことを、忍者と呼んでいます。かつては、志能便(しのび)、伺見(うかみ)、間者(かんじゃ)・乱破(らっぱ)、そして隠密(おんみつ)といわれたりしていたそうです。
今は忍者というと忍術を使ったり両手を広げて走ったり、ド派手なイメージがつきまといますし、スパイというと世界観に合いませんので、ここでは、間者と表現していきます。
そして、秋葉野原は、間者でした。
しかも、新撰組の間者でありながら、新撰組に潜入している長州藩の間者でもありました。いわゆる二重スパイです。
長州藩への連絡方法は、茶店です。
茶店の腰掛けに情報を書いた紙を忍ばせておくと、茶店の誰かがそれを受け取り、連絡される。お茶を飲みに行くと見せかけて、情報のやりとりをしているのです。
「本来の物語上は、茶店の協力者と、新撰組の協力者は、お互いの素性を知らないの。だけど、私は当然、全クリしたから知ってる。誰が協力者か」
それが、茶店の娘、しなの様でした。
しなの様も同じく、長州藩出身の方で、間者としての意識はなく、あくまでも、故郷の役に立ちたいという善意で、情報の連絡係をやっている設定だそうです。
「とはいっても、分かってるんだけどね。本人は。自分がスパイだって。如何にも、『私何にもわかんなーい』みたいなセリフが多いから、プレイしている方は、『分かってんだろこのクソアマ!』」
「お嬢様。お言葉がはしたない」
「……『分かってるんでございましょ、このお排泄物娘!』と思ってイライラしながらプレイしてる人が多いと思う。セリフ上ではカマトトぶってるんだけど!」
このゲームでは、主人公であるヒロインのしなのは、新撰組の隊士たちと交流を深めていき、情報を引き出しつつ、その過程で恋をしていくそうです。
つまり、攻略対象は全新撰組隊士。
ところが、秋葉野原は、二重スパイであり、しなのが攻略対象を籠絡するために協力する存在なので、攻略対象から外すために、わざわざ男装の女性という設定になっているようです。
「この設定のおかげで、秋葉野原は顔も特徴がなく、まともに映されないモブキャラになってるけど、逆に一部界隈で人気になって、同人系ではけっこうな男装の麗人で描かれることも多かった、特異なキャラになってたけど、まさかそれが私なんて……」
ところがどっこい、秋葉様は、しっかり、しなの殿に惚れていました。
しなの殿もまた、秋葉様に惹かれていました。
秋葉様は、あくまでも任務での付き合いであると言い聞かせ、自身が女性であることそのものも、隠しているのです。
「このゲーム、ヒロインが長州の間者だから、攻略対象と仲良くなったら、新撰組と長州藩の両方を裏切って逃げて、追っ手からの追撃をかわして逃げ切って初めてハッピーエンド、なんだよね。しかも、途中で自分の身分がバレたらそこでおしまい」
「人生ハードモードですな」
といったところで、またいつものように、展開について、お嬢様は気づきました。
「やばい」
「どうしました?」
「このゲーム、二重スパイだった秋葉は、どのルートを選んでも、必ず死んじゃうんだよね」
「まさか、また?」
つまり、お嬢様は、また処刑される運命だと言うことです。
「何でこんなことになってるの? どういうこと?」
しかも、お嬢様が持っていた、しなのへの恋文は、ゲーム攻略の重要アイテムであり、攻略難易度最高峰の代々木恋一郎に渡してしまった結果、攻略ルートのフラグが成立、お嬢様が処刑されるまでのルートはほぼ確立され、やはり、処刑されることになるのだそうです。
「お嬢様」
「こうしちゃいられない。何度も何度も死にたくない。なんとか、二人を止めないと」
と、二人で連れ立って屯所を出て行こうとしたところに、一人の男がやってきました。
「おい、三鷹。勘定方の貴様が、何故こんなところにいる?」
やってきたのは、新撰組幻の百番隊の組長、小岩新でした。
近藤勇に並ぶ、影の局長とも言われる人で、副長の土方歳三ですら、意見を言うのに緊張することもあったと伝えられる、剣の腕も、隊内での序列も、トップクラスの実力者です。
しかしそれ以上に特筆すべきは、低音ボイスが脳内に響くタイプの、落ち着いたミドル年齢のイケメンで、京都の町人たちからの嫌われ者、新撰組の中でも、異例の人気を誇る武士だということです。
そしてその分、隊内では、気難しく、冗談の通じないタイプです。
「これは、小岩様。少々、秋葉様とお茶などを」
これは嘘ではないはずです。
「茶を飲む暇があるなら、剣の腕を磨け。人を斬れぬ隊士は、新撰組には必要ない」
「私って、剣術は使えない設定のキャラなんですか?」
こっそり、お嬢様に確認いたしました。
「勘定方の三鷹ってキャラクターは、そもそもゲームには名前くらいしか登場してない。あんた自身はどうなの?」
「からっきしですね」
では、仕方がありません。小岩様にはたてつかないようにいたします。
命あっての物種です。
「肝に銘じ、鍛錬に励みたいと思います」
「いい心がけだが、秋葉と二人でこそこそしているのは、よくないな。離れろ」
「は」
大人しく、少しだけお嬢様と距離を取りました。
「出動ですか?」
「先日の辻斬りの手がかりが見つかった。お前は私と打ち合わせだ」
と、小岩様はお嬢様に言い、私に対しては、
「貴様は自分の職に戻れ」
と命じました。
致し方なく、私は、屯所の別の部屋へと移動しました。
二人きりになって、小岩様は、よりお嬢様に近いところで、より低い声を出して、話しかけたそうです。
「秋葉くん。貴様は、あの三鷹とどういう関係だ?」
打ち合わせは? といぶかしみながら、死にたくないので、お嬢様は応えました。
「どういう、といわれましても」
「秋葉くん。私には、わかっている。君のことが」
「……私の何が、でしょうか」
もしや、男装のこと? それとも、長州の間者のこと?
「迷惑しているのだろう? あのような不埒な男に言い寄られて」
全然違いました。
「いや、そんなわけでは」
否定したところで、しかし、追求は止みません。
「私の前では素直になるがいい、秋葉くん。いや、野原」
やばい雰囲気を、さすがのお嬢様も感じ始めました。
お嬢様が、男装をしている女性であると気づいているのでしょう。
「あの、小岩隊長?」
「新と呼べ」
こんな展開知らないよ! と内心でツッコミながら、
「いやあの、辻斬りの手がかりは……」
なんとか、話を正常に戻そうとします。
「我ら新撰組の隊士は、武士と名乗りながらも、武士の家系ではないものが多い。だが、武家には、男子と男子の路ならぬ交わりというのもあったという」
ん?
「え〜っと、それとこれとが、一体どういう関係なのかと……」
「野原。貴様のその男の色気が、私を惑わせるのがいけないのだ」
まさかの、男装にはまったく気づいておりませんでした。
「いや、男の色気なんてないし、惑わせてるつもりは……?」
「おっと手が滑ったあ!」
こっそり様子を見ていた私は、素振りしている振りをして木剣をぶん投げました。
さすがに当たると当たるで問題なので、何とか避けられる辺りに。
小岩様は、見事木剣を避けて、お嬢様から離れてくれました。
危ない。
「三鷹。貴様何のつもりだ?」
殺されそうです。
「はっ! 言われたとおりに剣術の鍛錬をしておりましたが、木剣がすっぽ抜けてしまいました!」
小岩様が、じりじりと寄ってきて、私の目の前まで来て、
「わざとか?」
返答を間違えたら、斬られます。
「いいえ。滅相もございません!」
じろじろと私を睨みつけてから、
「まあいい。興が削がれた」
私はその瞬間、体中の汗腺から、汗がびっしょり吹き出しました。
「秋葉。貴様は、茶店に行け。辻斬りは、茶店に寄った可能性が高いらしい。調べて報告しろ」
そういうと、小岩様は、その場を去りました。
お嬢様と私、二人とも、緊張が抜けて、座り込みました。
「大丈夫でしたか、お嬢様」
「大丈夫。別になんともないから」
といいながら、二人とも、憔悴しきっておりました。
とはいえ。
「お嬢様は、もう少し危機感というものを持った方がよろしゅうございます」
自分が可愛い女性だという自覚が足りなさすぎます、とは申しませんでしたが。
「うー」
「なんですか?」
何事か、唸っております。
「だってさ、ひどくない!? 言うに事欠いて、男の色気とか言ってたんだよ? 誰が男だよ、私が男に見えるっての? 女だよ、バーカ!」
「サムライの格好でそう言われても、説得力が乏しいです、お嬢様。とはいえ、あの雰囲気だと、あの方、隊内の隊士のほとんどに手を出してますね」
間違いないです。
「そうなの?」
「手慣れてました」
「なるほど。攻略難易度が高そうに見えて、割と攻略しやすかったのは、アレか。男女問わず手を出しまくってたからか。イメージ崩れるな」
「ヒロインにとっては、彼も攻略対象なんですね」
何でもありなのか、乙女ゲーム。
「あーあ、もうむかついたから、どうしようかな」
お嬢様にとって、こういうときに必要なものは決まっています。
「茶店で甘いものでも食べましょう」
「それだ」
何一つ解決はしてしませんでしたが、二人で茶店まで出かけました。
そこには、茶店の娘、しなのと、新人隊士の代々木恋一郎がいました。
お嬢様は、見つからないように、隠れました。
「何故隠れるんです?」
「だって」
ぶすっとむくれました。
わかっています。
お嬢様は、男装の自分に好意を寄せてくれていたしなの殿のことを、憎からず思っていました。ところが、恋一郎という男が現れた途端に、あっさりと乗り換えられた気分になったのです。
もちろん、それまで、まともに向き合ってこなかったのは自分自身なのに、そのことを棚に上げた、ただのわがままです。
「あっ。別れそう」
しなの殿と恋一郎は、何やら言い争っているようにも見えました。
そして、しなの殿がぷいと顔を背けて店の中に入り、しばらく呆然と立ち尽くしていた恋一郎が、茶店を離れ、去って行きました。
その機に、お嬢様は隠れていた茂みを出て、茶店に向かいました。
「しなの殿! しなの殿!」
店の奥に引っ込んだしなのが、もう一度外に出てきました。
「秋葉様! どうなさったんです、血相を変えて」
「いや、えっと、お茶もらえる?」
「はい。お茶とみたらし団子、二人前ですね」
ちゃんと私の分も勘定されておりました。
「よろしくお願いします」
「いや、そんなことより、今のは……?」
しなのが、ドキリとして振り向きました。
「今の?」
「代々木恋一郎と、何を話していたの?」
聞かれて、しなのは、ちょっと驚きながら、何気ない風を装っておりました。
「やだ。見てたんですか? 恥ずかしい。でも、気にしないでください」
「気になります。彼が何か、しなの殿を傷つけるようなことを言ったのだとしたら、謝ります」
「どうして、秋葉様が謝るんですか?」
まったくです。
「いや、それは、なんでかわかんないけど」
お嬢様もお嬢様で、しどろもどろになっています。
その姿を見て、しなのは、とても優しい笑顔になりました。
「秋葉様は、お優しいんですね。あーあ、私、秋葉様のことを好きでいればよかった」
その言葉には、お嬢様がドキリとさせられました。
「しなの殿。突然何を」
しなのは、お嬢様の着物の袖を軽く握って、
「けっこう本気だったんですよ?」
上目遣いで見てきました。しかし。
「過去形ですな」
それには、お嬢様も気づいていました。
「……私のことは、もう好きじゃないと?」
「……憎からずは思っております」
そう言いながら、しなのは、袖を握っていた手を、そっと放しました。
「しなの殿」
思わず、すがるような声が出てしまいました。
「もう、心が言うこと聞かないんです」
しなのの言葉は、それ以上、何もできないことを伝えていました。
「私のこと、ほんのひとときでも、好きだったんですね?」
「忘れてください。私はもう、恋はいたしませぬ」
その日の夜、お嬢様は、代々木恋一郎と二人、夜の見廻りに出ることになりました。
お嬢様から、代々木を同伴者に指名したのです。
「何ですか、話って?」
恋一郎は、入隊からしばらく経って、業務にも多少慣れてきているところでした。
「単刀直入に訊く。しなの殿とはどうなった?」
「どうとは? もう関係ないでしょう?」
恋一郎の返答は、返答になっていませんでした。
「関係ないことなんかない! 話せ」
追求するお嬢様に、恋一郎は、ため息をついて、答えました。
「彼女、面倒くさかったんです」
「どういうことだ」
恋一郎は、事の次第を説明しました。
「秋葉さんの恋文のせいです。彼女、アレをとても気に入ったみたいで、毎日毎晩、何度も読み返しているそうです。それで、実際に会ってみると、恋文に書かれていたのと同じような文言を言って欲しいと言ってくるんです。でも、実際に書いたのは私じゃあない。そもそも、読み書きも出来ない、文才も学もない私には、彼女の期待に応えることが出来ない。だから、言ってやったんです」
「……なんて?」
聞きたくないと思いながら、聞かなければならないと思って、お嬢様は聞きました。
「『そんなに手紙が好きなら、一生、その紙切れを眺めて生きてろ』、と」
最悪。
「最低」
「でも、私にだって、言いたいことの一つや二つはあります。彼女の言い分だけを聞いているわけにもいきません」
お嬢様は、恋一郎が、それでも自分が正しいと言ってくることに、怒りしか感じませんでした。
「なんで?」
「男として、武士としての面目が立ちませんから」
その言葉で、完全に悪役令嬢としてのお嬢様が目覚めました。
「おいこらこのボケイケメン!」
「ははははい!?」
突然の剣幕に、恋一郎は驚き戸惑いどうしていいか分かりません。
「面目!? そんなことは一人前になってから言え! バカ! ボケ! カス! この、ウスラトンカチのアホイケメン!」
お嬢様、若干褒めてます。
「な、なんなんです!?」
戸惑う恋一郎を無視して、お嬢様は話を続けます。
「あーもー、嫌んなる! 人がどんな思いでお前らの手伝いをしたのか分かってんの!?」
「あのー……秋葉さん?」
口を挟もうとしますが、許しません。
「謝れ」
「はい?」
「謝れ!」
勢いに押されて、理由はさっぱりわからないけど、
「ご、ごめんなさい」
「私にじゃないでしょ! しなの殿に!」
「でも、もう別れを告げてしまったし……」
「女々しい」という言葉は、そろそろ、「男男しい」と書いて「めめしい」と読ませるべきだと愚考いたします。
「うるさい! 好きなんでしょ? しなの殿のこと、好きなんでしょ!? で、ちゃんと結ばれたんでしょ!?」
怒っているのですが、お嬢様は、涙目になっています。
どれほどの思いがそこにあるのか、しかし、恋一郎には全く伝わっていないようでした。「いや、それはそうですけど」
「だったら、謝れ!」
「でも……」
それでも、でもでも言う男らしくない恋一郎に、
「デモもクラシーもない! 理由なんか何でもいいから、謝れ!」
お嬢様は容赦がありません。
しかし、恋一郎もまた、譲れません。
「私は、貴女と違って口下手なんです! 女性が喜ぶような言葉を吐くことは出来ません!」
かっこ悪い話ですが、出来ないものは出来ない、それはその通りです。
「だったら、私が言葉を考える。それをちゃんと伝えなさい!」
かくして、お嬢様と代々木は、茶店へと向かいました。
茶店は二階建てになっており、一階がお店、二階には宿屋になっておりますが、同じく、しなの殿も含めて、住み込みで働いている人たちが、何名か寝泊まりしていました。
お嬢様たちは、茶店の外から、小石を投げて二階の屋根にコロコロと当てて、合図を送ります。
うまいこと、二階の障子を開けて、しなのが顔を出してきました。
夜の闇の中で、恋一郎が、お嬢様にすがりつきます。
「秋葉さん! しなの殿が姿を! どうすればいいですか?」
「今から言うとおりに言いなさい。『今宵は月がきれいですね』」
「今宵は月がきれいですね」
暗闇の中から聞こえる声に、しなのが気づきました。
「どなた?」
木々のざわめきや、虫の声、隠れている草むらの葉擦れの音で、誰の声か分かっていないようです。
「『私です。日の光の下では素直になれない哀れな男です』」
「私です。日の光の下では素直になれない哀れな男です」
恋一郎は、お嬢様が言った言葉を忠実に繰り返します。
「もしや、代々木様? どうして姿を見せてくださらないの?」
しなのが、気づきました。
「『姿を隠すのも、己の醜さ故。どうか、名を問うのは勘弁してください。今はただ、名もなき影法師』」
「姿を隠すのも、己の醜さ故。どうか、名を問うのは勘弁してください。今はただ、名もなき影法師」
「なんだか、お昼とは別人みたい」
この奇妙な闇の中でのやりとりを、しなのは楽しみ始めていました。
星明かりの下で、ただ、愛する二人だけの時間が流れている。
それが、しなのに、普段の生活では味わえない高揚感を与えているのです。
「『別人です。昼間の私は私ではなかった。謝りたいのです』」
「別人です。昼間の私は私ではなかった。謝りたいのです」
「何について、なんと言って謝るんですか?」
「『貴女の心に、私の心が素直になれなかったことを』」
「貴女の心に、私の心が素直になれなかったことを」
恋一郎の声が言葉が、素直にしなのに届きます。
「ええ」
「『焦がれております。貴女に。貴女を傷つけたことで。また、貴女を思いすぎて』」
「焦がれております。貴女に。貴女を傷つけたことで。また、貴女を思いすぎて」
「私こそ、あなたを傷つけてしまいました」
しなのは、今度は、自分自身の真情も吐露してきます。
「『謝るのは、私の仕事です。あなたはただ、受け入れていただければ、それが最上です』」
「謝るのは、私の仕事です。あなたはただ、受け入れていただければ、それが最上です」
しかし、そういうわけには参りません。
恋する男女の心は、ただ闇に紛れているわけにはいかないのです。
「ああ、代々木様。姿をお見せになってください。返事がいちいち遅れて聞こえるのがもどかしくて仕方がありません」
お嬢様が言葉を紡ぎ、それを恋一郎が話す以上、どうしてもタイムラグが現れます。
「どうしましょう、秋葉さん」
恋一郎が、すがりついてきます。
「仕方ない」
お嬢様は、意を決します。
「秋葉さん?」
「もう少し、もう少しお待ちください」
お嬢様は、そのまま、自分の声で話しました。ほんの少し、低音を意識して、恋一郎に似せて。
「何を待つの? 私はもう、全てを許しました。それとも、私のことを許していただけないのですか?」
「そうじゃない。貴女に、この醜い姿をさらす前に、誤解を解いておきたいのです」
「誤解と言いますと?」
「私は、口下手な男です。生来、女性に語りかける言葉を持たない、無骨な人間です」
「ですが、最初のお手紙は、とても情熱的でしたよ」
それはそうです。それはお嬢様の紛うことなき真心だったのですから。
「あれが全てです。私の全ての想いは、あの文に込めました。一文字一文字、報われないかもしれない、抱いていてはいけない、あらゆる心の中の抵抗に抗い、苦しみながらしたためた文字たちで埋め尽くされたのが、あの手紙です。これより先は、もう、あれ以上の文字を書くことも、言葉を紡ぐことも出来ません」
お嬢様は、全てを、伝えようとしています。
しかし、その姿は、受取手には別の人に見えているのです。
「ですが、今はとても流暢に話していらっしゃいます」
「夜の闇に姿を隠していればこそです。月明かりがまぶしい今だからこそ、闇に隠れることが出来るのです」
「では、教えてください。あなたは、私のことをどう思っていらっしゃるのですか?」
「どう?」
お嬢様が、固まりました。
「ええ、どう?」
それを口にすることは、お嬢様には、とてつもなく難しいことです。
その勇気が、思いの強さが、出せるのであれば!
「愛している! 愛している!」
出しました。勇気を。しかしその言葉を発したのは、お嬢様ではありません。
代々木恋一郎でした。
「バカ、黙れ!」
小声で叱ります。
「ですが、これは私の告白です。自分でやらなければ意味がありません!」
「なんで、いきなりそんな直接的な言葉で……」
言われたしなのが、戸惑っております。
「秘めた想いであればこそ、今と言うときにしか言うことが出来ません。もうこれ以上は、いらぬ言葉は必要ないでしょう。違いますか?」
なんとか、お嬢様が、取り繕おうとします。
が。
「いいえ、もう一つ」
「なんでしょう?」
「私を信じてくださいますか? どこまでも、私と一緒にいてくださいますか? 何があっても、終生変わらぬ誓いを」
「どういう意味だ?」
この場で、しなのの持つ覚悟や言葉の意味が分からないのは、恋一郎ただ一人。
だから、お嬢様が、結びに入ります。
「……しなの殿」
「はい」
「私はサムライ、武士の身分。いつこの日の本の大地にその身を横たえ、血を流れさせるか分からない身」
「覚悟しております」
「私にも、覚悟がある。だから今こそ言おう。もう一度言おう。愛していると」
お嬢様は、その気持ちを、素直な気持ちを伝えました。
しかしそれは、恋一郎の言葉なのです。
「ええ、ええ!」
「その想いを、今一度伝えます。愛している。たとえ路ならぬ路だと後ろ指指されようとも、私は貴女を、愛しています」
「代々木様!」
その名を呼ばれることそのものが、お嬢様には苦痛であること。
それは、お嬢様以外の誰にも分からないこと。
誰を責めることも出来ない。ただただ、自らを責めさいなむのみ。
ただ一言、ただ一言だけ、一度だけ、恋する相手として名前を呼びたい。
「しなの!」
お嬢様の、ただならぬ雰囲気に、恋一郎は、いても立ってもいられなくなりました。
いずれにしても、機は熟しました。
「もういい、もういいです、秋葉さん! これはあなたの恋じゃない、私の恋だ。もうガマンできない! 今行くぞ!」
そう言うと恋一郎は、軽やかに跳ねるように、茶店の二階、しなのがいるところまで登っていきました。
そして、二人は、きつくきつく抱き締め合いました。
その光景を、夜の闇の中で眺めていたお嬢様が、どのような表情をしていたのか、影に隠れて見えませんでした。
「あそこで抱き合っているのは誰? 何で私じゃないの? ねえ、なんでなの?」
その言葉を、無意識のうちに口から漏れ出していたお嬢様は、その気持ちが向いている相手が、密かに思っていたしなの殿なのか、それとも、面倒を見ているうちに放っておけなくなってしまった恋一郎なのか、何も分からなくなっていました。
「もうやだよ……こんなの、もう、やだよ……」
お嬢様は、漏れ出ようとする嗚咽を、二人に聞こえないように、ぐっと堪えていました。
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