Chapter 5: 攻撃
探偵不可能
翌朝九時過ぎ、僕は意外な人物に起こされ、少し狼狽えた。
ドアの外に立っていたのは、阿部さんだ。僕は寝癖を撫でつけながら、ぎりぎりの滑舌を引き回して「おはよおごはいましゅ」と頭を下げる。
彼女は酷く眠いのか、朦朧として今にも倒れそうに見えた。日光など無縁の肌が、更に色を喪って蒼白になっている。その唇が微かに動いて――
「――ま、真鍋さんが……した」
「え?」
「こ、殺され……」
「――え?」
***
鰐淵さんは、ぐったりとしていた。
顎やこめかみが紫色に変色している。同様に傷だらけになった堂山を含むほぼ全員がそこに集まっていた。真鍋さんは――いない。
研究棟二階の広報執務室の前の廊下だ。このフロアには、図書や資料を置いた資料室、会議室などがある。一階は広いが、ここはそれと比して吹き抜けや講堂に削られたぶんの広さしかない。
すぐ側の広報室を覗くと、その奥に――。
頭から血を流して仰向けに倒れている真鍋さんの姿があった。
思わず部屋に入り、ドアからたった二歩――近づけたのはそこまでだ。僕の足は、どうしてもそれ以上近寄ってはくれなかった。
まとめていた髪が広がって、血だまりに沈み、張り付いて見えた。
「鈍器で後頭部を殴打……秦先生の見立てでは、それが致命傷だ。倒れた後も、更に数度殴られている」
「だ、誰がこんなことを――」
僕は振り返って、堂山が千束さんと光堂さんに両脇を固められているのに気付く。
堂山は顔を上げると、僕の視線に気づいて必死に頭を振る。
「ち――違う! 俺は犯人じゃない! その女も、誰も、殺してない! Gだ! ゲーデルがやったんだ!」
ゲーデルが?
何か根拠があって言っているのだろうか。
「そんな奴なんかいるわけないだろうが」
鰐淵さんが、そう声を絞り出す。
「塔子から聞いたぞ」と彼は、日頃の冷静な研究者としての顔からは想像もつかない、真っ暗な闇を覗かせていた。
「犯人はあんただって。密室も、あんたなら――」
鰐淵さんの憎悪に満ちた視線を、悠遠さんは冷静に断ち切る。
「鰐淵さん。お察し致します。しかし堂山氏が犯人かどうかは、検証する必要があります」
「そう、そうだな。検証だ。始めようじゃないか」
「その前に教えてください。真鍋さんに何があったんですか? 彼女は、あなたと一緒にいたはずでは?」
悠遠さんは、聞きながら広報執務室へ入ってきた。
廊下の隅には片手に血まみれのゴム手袋をした秦さんが力なく腰を下ろしていた。どうやら、僕が来る前に現場検証を終えていたようだ。
鰐淵さんは頭が痛むのか、抑えながらたどたどしい口調で答える。
「ゆ、昨夜は違ったんだ。どうしても調べたいことがあるからって、真鍋。遅くなるから広報室で寝るって。朝食に、誘いに来たんだ。そしたら、そこで……」
――『調べたいこと』?
彼女が何を調べていたのか、その中身を鰐淵さんは聞かなかった。
悠遠さんは真鍋さんの遺体に近づき、そこで警備員の内田さんを呼んだ。
「内田さん。このフロアには防犯カメラの類はありますか? セキュリティシステムは?」
「カ、カメラは、ありません。ロックは皆さんの居室と同じです。昨夜こちらの広報室を開けられるのは、真鍋さんだけでした」
「鰐淵さんが発見されたということは、鍵は?」
「か――かかっていなかった」と鰐淵さん。
「ということは奥村氏のケースとは違いますね。最後の開錠は何時ですか?」
「23:09でした」
内田さんはログをチェック済みだったが、その時刻では誰もアリバイはなさそうだ。それに、密室でないなら真鍋さんのスマホを使って施錠・開錠は何度もできる。
「真鍋さんのスマホは無事だったんですか?」
「それが――」と光堂さんが口を開く。
「画面を割られていてね。それがどういうわけか、スマホだけ地下で見つかったんだ」
「――地下で?」
現場に真鍋さんのスマホがないことはすぐに問題になった。数名が彼女の私物を確認しに地下へ戻った際、BSのドアの向こう、ラボの床に落ちているのを見つけたのだそうだ。
真鍋さんのスマホは現場から持ち去られ、地下のBSのドアの奥に無造作に落ちていた。つまり犯人は真鍋さんを殺害後、地下へ行ったことになる。
「――そのスマホで、地下の扉を?」
「そのようだ。23:30過ぎに一度BSのドアが解錠されているが――今回、これを元にアリバイを調べるのはあまり意味がない。遺体発見時、既に皆起きて動き出していたからね」
当初はかなり確実だと思ったドアロックのログによるアリバイも、掻い潜れそうな方法がいくつかわかっている。それに今回は、全員を阿部さんが起こして回ったわけでもなく、既に起きて室外にいた人が何人もいる。更に悪いことに、鍵を失くしてしまった秦さんがいる限り、ドアロックのアリバイでは犯人を絞り切ることができない。ゲーデルが潜んでいる可能性すら、まだ消えたわけじゃない。
――無理だ。
どれほど優秀な探偵でも、この状況で犯人を特定するのは、不可能だ。
アリバイ無し、物証無し、不可能状況もなし――あるものは、ただ疑わしい人物と、現場から消えていたスマホ。
〝探偵不可能〟とでも呼べばいいのだろうか。
室内には、奥のソファのところで首を不自然な角度に曲げて倒れた、真鍋さんの亡骸。
ソファも床も、夥しい出血で汚れている。彼女も必死に考えていたのだろう、プリントされたTIFAのメッセージが血に塗れて落ちていた。転がった、海外の賞と思しきブロンズトロフィー。
「計画的な犯行ではないように見える。凶器は現場にあったトロフィー……」
塔子ぉぉぉ! と鰐淵さんが吠える。
志木君を引きずるようにして、彼は執務室へ入ってきた。
「塔子のトロフィーだ。な、なぜ塔子が」
「……奥村氏と同じでしょう。おそらく犯人は、秘密の暴露を恐れたのでは」
「馬鹿な! 彼女は何も知らなかった!」と、鰐淵さんは叫ぶ。
「犯人はそうは思わなかった、とも考えられます。彼女はここのシステムに非常に詳しく、頼りがいがありました。私たちの氏名や連絡先を知っていた」
「それが何だって言うんだ! 知らされていたのは業務に必要なことだけ! 『秘密の暴露』? 俺達だって一々質問の中身なんて見てない! あの日の一時間かそこらのリークで、一体どれだけのリクエストがあったと思ってるんだ!」
「はい。鰐淵さん、私も同意見です。ただ知っていると思われた可能性が――」
「……塔子は……勘違いで殺されたのか?」
鰐淵さんは床に崩れ落ち、そのまま横向きに小さく蹲って、おいおいと泣き始めた。
志木君がおずおずと甲高い声を絞り出す。
「ぼ、僕達も、あなた方がどんな質問をしたのかなんて知りませんよ。本当の、本当にです。だから、僕達は関係ないです」
怯えている。自分達も危ないかも知れないと思い始めたのだ。
彼の目は、阿部さんと毒島さん、江口先輩と堂山を交互に見ていた。まだ自ら〝質問〟を明かしていない四人だ。
その視線に気づいたのだろう、毒島さんが志木君を睨んだ。
「なにその言い方……私達の中に犯人がいるって言いたいの?」
「そうとしか考えられないでしょ⁉ い、言わせないでくださいよ! アンバサダーとかって、
「あんた達の内輪メモじゃないの⁉ 大体さ、ここに詳しくなきゃ、こんな殺人なんて無理に決まってるでしょ⁉」
「違います!」と志木君が叫ぶ。
「そもそも、真鍋さんのスマホを盗んだのだって、そうしなきゃ地下に入れなかったからでしょう! 僕らの中に犯人はいない!」
「そう思わせるためにやったに決まってるでしょ!」
「なにいってるんですか、所長が殺されたとき、僕ら地下組には全員にアリバイがあって――」
「同一犯と決まったわけじゃないでしょ! その探偵が秘密がどうとか言ったけど、そんなのどうせ当て推量よ」
所長殺しと同一犯ではない――。
だとすれば、全く別の誰かが別の理由で真鍋さんを殺した――そういう可能性もあるのか。
これには誰も反論できない。
現状、所長を殺した犯人と真鍋さんを殺した犯人が同一だと言える根拠は、何一つないのだ。
「それにあたし知ってるんだからね! 研究者って、手柄を巡って仲悪いんでしょ! この研究だってほんとは奥村って人の手柄じゃないんじゃないの⁉ そこで泣いてる人だって、演技なんじゃない⁉」
「あんた、なんてこと言うんだ」
千束さんが毒島さんの前に出るが、臥せっていた鰐淵さんが突然起き上がる。
「出ていけ! ここは塔子の部屋だぁ!」
僕達はひとまず広報室を出ることにしたが――ふと、悠遠さんを見ると真鍋さんのスマホを調べているところだった。
「早く出ていけ!」
***
僕らは、二階エレベーターホールのオープンスペースで鰐淵さんを待つことにした。
このエレベーターホールから一直線に伸びる廊下の片側に、例のスマートロックを備えた部屋が並んでいる。
誰でもこの廊下までは来られる。
しかし行き止まりでもある。廊下の片側に並ぶ大窓はどれも嵌め殺しで、もう片側に並ぶ部屋は会議室などが多く、未使用のため封鎖中であるのだそうだ。ロックのLEDはブルーでもグリーンでもなく、消灯している。二階にも出口や隠れる場所はない。
対照に、開放的な大窓の外は別世界だ。いつの間にか雪は止んでいて、どこまでも続く一面の雪世界が露わになっていた。雪原に
やっと雪が止んだけれど――。
改めて眺めると、状況は絶望的だ。脱出も、犯人の特定も不可能。一体、僕らはいつここから出られるのだろう。
二人目、いや、三人目の被害者は真鍋さん。その人柄に触れて、一体誰が彼女を恨んだだろう? 彼女が殺されるくらいなら、ここに安全な人間なんて一人もいない。
鰐淵さんは……ここでいつまで待てば戻ってきてくれるだろうか。
「――よかったんですかね?」
鰐淵さんのことですが、と僕は疑問の対象を補足した。
「一人しても、ということかい? やむを得ないね。あの様子では話を訊くことも難しい。それに今、彼らを一か所には集められない。私達が来てすぐ、鰐淵さんが堂山氏に殴り掛かって、酷い喧嘩になったんだ」
それで二人とも顔がボコボコだったのか。
「地下で発見された彼女のスマホもパスコードがかかっていた。――鰐淵さんによれば真鍋さんは何か調べようとして資料室に寄ったらしい。彼女が何を知りたかったのか、私も興味がある」
悠遠さんは廊下の奥を指す。資料室は真鍋さんが殺された広報執務室の向こう、どうやら同じ二階の奥のほうにあるわけだ。
「アンバサダーの、質問に関わることですかね?」
「それがここの資料室にあるとは期待できない。おそらく、ここの研究か、研究員に関わる情報じゃないだろうか」
真鍋さんは堂山が犯人と確信しつつ、同時に研究員の誰かを調べていた?
鰐淵さんは外ならぬ真鍋さんのアリバイの証言者だ。残る志木君と光堂さんは――。
「もしや、退職した研究員の情報とか――?」
「そうかも知れないが、解らないよ」
――沈黙。
悠遠さんの横顔は、悔しそうというより――苦しそうに見えた。
形式的なものだったかも知れないが、真鍋さんは彼女の依頼人だった。そして悠遠さんは、研究者らは安全圏にいると考えていたのだ。それは間違いでこそなかったが、研究者ではない真鍋さんの存在が盲点になっていたのかも知れない。
他にもこれで良かったのかと思うことはある。
「先程の、毒島さんの意見についてはどうでしょうか」
「奥村所長殺害の犯人とはまた別の人物が真鍋さんを殺した――という説かい。勿論、あり得なくはない。現状、真鍋さんを襲った犯人を絞り込む方法は何一つないからね。ドアのログの仕様についても明らかになっており、秦さんを除く全員にアリバイ工作が可能だ。犯人の必要条件はむしろ――」
――またしても沈黙。
ここで、江口先輩が満を持して立ち上がった。
場にそぐわない、不敵な笑みを浮かべて――「皆さん、お揃いのようですね」。
厭な予感がした。
「ずっと居たよ」
「揃ってないでしょ」
口々に飛ぶ罵詈雑言も気にせず、先輩は胸を張る。
「僕には最初からこの暗号の意味、解ってましたよ」
手にはプリントアウトされたTIFAのメッセージ。それを高々と掲げた先輩は。
「犯人は、あなたです」
先輩が志木君をまっすぐに指差す。
「TFAの手柄を上司に横取りされたあなたは、頭にきて奥村さんを殺したんです。ネットワークを壊したのもあなた。TFAに訊かれたら、すぐ犯人がわかってしまいますから。犯行時刻も22:30じゃない。別の時刻に殺しておいて、あなたは同僚の前でネットを落としてみせた。完璧なアリバイトリックです」
21:30までのミーティングの後、志木君は光堂さんとずっと一緒にいたはずで、ロックのログもそれを裏付けている。
志木君は呆れ顔で、「いきなり何を言い出すんです? この人」。
「いや、だから犯人はあなたですって言ってるんですけど」
志木君は「違う」とは言わない。
その代わり、すごく面倒くさそうに大きな溜め息を吐き、「今言わないといけない話ですか?」。
「ヒヒッ。今白状したほうがいいですよ。あの人が戻ってきたら余計に大変ですから」
この言い方には、志木君もさすがにムッとしたようだった。
「アノネェ。僕がネットワークを壊した? 短時間のうちに、とても復旧できないほど壊すのなんか無理ですよ。それだけで一日仕事です。それにTFAにアクセスできないことをどう説明するんです? TFAの管理コンソールには所長しかログインできないんですよ。ねえ、光堂さん」
光堂さんも「ファームも壊れてるからねぇ」と頷く。
そこに突然「志木さん、光堂さん」と悠遠さんが割り込んだ。
「ファームも壊れているとは、つまり、このネットワーク障害は人為的なもの、と考えてよろしいのですか」
二人は「他に考えられないですよ」と頷く。
そして少し遅れて先輩も頷き、反論の続きを始める。どうやらまだ打つ手があるようなのだ。
「『短時間のうちに』? それがトリックなんですよ。実は、前もって研究所のネットワークを壊してありました。最後に、一番目立つルーターを壊すだけです」
「ナルホド。でもここのネットは複雑で、冗長化もされているので無理があります。あなた達と僕達が障害までゲームしてた回線も、同じ衛星回線とはいえ基幹はそれぞれ別にあって、ネットを使って同時に破壊することは……」
「いいえいいえ、細かいことはいいんです。犯人はあなたです。それは――あのロボットのメッセージが物語っています。これは、プログラムなんです。プログラムは式の塊です。式。つまり……志木」
「プログラムってことは、〝コード〟でもあるわけでしょ?
そう反論された先輩は、暫し考える。
その結果――彼の指はそのまま向きを変え、光堂さんに向けられた。
「お……おれじゃないよ」
「マジメに取り合わないでくださいよ! そんな言葉遊び、意味がないってコトです!」
そして彼らは互いに、非常にレベルの低い言い争いを始めた。
醜い。あまりにも醜い。
皆苛立っているのだろうけれど、少なくとも先輩が喋る前よりも苛立ちの総和が増えているのは間違いない。
「……悠遠さん、黙って見てるんですか。止めないと」
「止めるかい? 私はまぁ、この謎を解いてやろうって意気込みだけは買うんだけど。それにネットワークを壊した人物がいるとなれば、これは大きな謎じゃないか。考えるに値する」
そう語る悠遠さんの表情は、虚勢かも知れないけれど、少しだけいつもの調子を取り戻しているように見えた。
先輩の発言が、彼女に何らかの影響を与えたのは確かだ。
しかしそもそも奥村所長殺害時、地下のドアは1:00頃まで施錠されたままだった。先輩の説は成立しないと言おうとしたとき――
鰐淵さんだ。
いつの間に合流していたのか、彼は――堂山に食らいつく。
「犯人はこいつだ! 塔子が言ったんだ!」
僕達も、先輩達に気を取られて彼の接近に気付かなかった。
彼は凶器のトロフィーを手に、堂山を殴ろうと振りかぶり――「やめろって!」と、千束さんが背後からその手を掴み、一撃を阻止する。ファインプレーだ。
「落ち着けあんた! こ、こんなことしても、真鍋さんは生き返らないだろうが!」
「こいつが犯人なんだ! アリバイがないのはこいつと医者だけだと! こいつが所長を殺して、ダクトを通って密室を作ったって!」
全員が堂山を見る。彼はホールの床に背中をつけ、鰐淵さんに馬乗りにされている。もう、逃げも隠れもできない。
「――ダクト? おい、さっきから何を言ってるんだ……おい!」
千束さんが、江口先輩が、秦さんが、毒島さんが、それを囲む。
「塔子を返せ!」
「ばっ、馬鹿、違う! 離せ!」
二人は激しく殴り合い、掴み合い、そして――。
堂山は捕縛された。
「――よかったんでしょうか?」
そう、僕はまた悠遠さんに尋ねた。
「ダクトの検証を急ごう。彼が通行不可能なことを示す。そうでなければ――」
「『通行不可能なこと』? 通行可能、ではなく?」
「とにかく、鰐淵さんは危険な状態だ。大至急、真犯人を捜さないといけない」
***
僕らは志木君と光堂さんを連れて地下へと向かった。
『真犯人』と探偵は言った。
けれど、今のところ二つの殺人事件の犯人が同一である根拠はないように思う。
「悠遠さんは、同一犯だと思いますか」
「さっきも答えたが、確定ではない。だが真鍋さん殺害は衝動的なものだ。彼女のスマホが発見されたのは地下。これは事後工作と考えられる。必ず何か綻びがあるはず――目撃者がいたかも」
「目撃者?」
地下〝BS〟のドアを抜けて、雑然としたラボに入る。
そこの床、やや物陰になる場所に真鍋さんのスマホが落ちていたのだという。
発見者は光堂さんだった。
「ブッチーの部屋を探しにきて、ふと見たら落ちてたんだ」
「――それまでは気づかなかった?」
「そりゃあだって、いきなり内田君に起こされたんだよ。『真鍋さんが――』って。そこからはもう大騒ぎだから」
「昨夜の23:30頃にこのドアが開いたはずです。持ち去られたと思しき真鍋さんのスマホは、そのときここに遺棄されたのではないかと思います。皆さんは何か気づきませんでしたか? どんな些細なことでも構いません」
「いやぁ、僕らは部屋で寝てたから」
二人はそれぞれ、ラボから分岐するドアを指差す。
ラボを中心に左右にドアが並んでおり、その一部を研究員らが私室として使っているのだった。
「気付いたとすれば、あのおじいさんだよ。何ていうんだっけ? 片腕の――」
光堂さんの言葉に志木君が頷く。
「え――? おじいさんって、秦さんですか?」
聞けば昨夜、秦さんは自室でなくここで寝ていたのだという。
「地下なら絶対安全だからって、真鍋さんが」
鍵を失くした彼が無施錠の部屋で寝るのはあまりに危険だということで、真鍋さんの計らいでラボで寝ることになったそうなのだ。
見れば、確かに床に毛布を何枚も敷いて一人分の寝床が作られている。
ただそこからは――デスクやらゴミ箱やらが邪魔で、直接入口のドアを視認できない。
「――起きて立ち上がらなければ、ドアは見えませんね」
毛布の傍らにしゃがみ込みながら、悠遠さんはそう結論づける。
「秦さんは、何も気づかなかったと言っていた。ここからでは目を覚ましたくらいでは何も見えない。――こちらも窮したか」
探偵はそう悔しさを滲ませる。
見えなかったにしても音を聞いたとか、臭いとか――何か、何かないのか。
どんな小さなことでもいい。
秦さんは何かに気付きはしなかったのか。
「秦さんにもう一度訊いてみましょうよ。何か思い出すかも知れませんし」
「そのつもりだが――堂山氏と鰐淵さんの手当の後だね。先にダクトの検証を急ごうか」
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