29 橿原 ――潜在記憶――
車を運ぶ関の隣で、橿原が淡々という。
「はっきりしているのは、――――君は高槻香奈さんの処でお茶を出され、その後約二時間程の間はっきりとした記憶を失ったということです」
「…あの御茶に、何かが?しかし、…」
疑念が晴れないまま道路を眺めて、暗い道を慎重に関が車を運んで行く。
「潜在記憶という言葉を聞いたことはありますか?」
「…せん、…一体なんです、それは」
車を運転しながら関が難しい顔をしながら答える。
山道を上がっていく助手席で橿原がいう。
「君は、自分が何故鷹城君の囚われていた場所に案内できたのか、そして、何故鷹城君の身の安全に関して焦燥を抱いていたのかについて、疑問をおぼえているのでしたね」
「そうですが、…―。ああ、この辺りです。このカーブの、…ここだな。あの樹に見覚えがあります」
関が車を山道のカーブに寄せて止める。
「ここが君が意識を取り戻した処ですか」
「そうですね。…ええ、ここに止めていて、」
車を降りて関が運転席の傍の地面を見る。
「ここに、車に寄りかかって地面に座ってました」
「では、座ってみてください、関さん」
「…―――」
橿原を見返してから無言で意識を取り戻したときのように関が座ってみせる。
「目を閉じてください」
「…―――はい、…橿原さん?」
目を閉じて背を車体に預ける。
草と、…水の匂いがするな。
「―――…」
目を開けて関がぼんやりと何かをみるようにする。
「何か?」
「いえ、…水と草の匂いがすると、…」
呟くようにいって、眉を寄せる。
「―――…川が、近いんですか?」
「立ってください。いってみましょう」
「…―――橿原、」
訝しみながら関が促されるままに立ちあがり、道脇の草が生える中に踏み込むのについていく。
本当に僅かだけ歩いて、急に落ち込んでいる坂の、草が遮る視界の下に、急に開けて見えた景色に関が茫然とそれを見つめる。
「昼間に見ると様子が違いますね」
橿原の言葉も聞えないように関が眼下に見える小屋を凝視する。急に下る草の生茂る坂の下にある小さな元保管庫と瀬の早い川と石が転がる河原。
「君が鷹城君を救出に来たのは夜間でしたから、周囲の景色がみえてはいませんでした。それで、もしやと思ったのですが」
「これは、…あの小屋は鷹城の捕まってた、」
いいながら足を踏み出し、草に滑り姿勢を崩す。
「気をつけてください、関さん」
「橿原さん、…」
関が眉を寄せて額を押さえる。膝をついて片手を地面に置いて目を瞑る。
…―――――音が、
“君は、…――――”鷹城の声が聞こえる。
何かが鋭く空を振られる音、
衝撃音、争い、人が倒れる音、…―――
落ちていく音、…―――。
「音が、…」
関が目をあけて茫然と空をみつめていうのに、橿原が見つめる。
そして、――――…。
打撃音。繰返し、くりかえし、何かを打つような。
「…―――何かを、…繰り返して打つ音が、…先に何かが落ちる音と、…繰返し、鷹城?」
ぞっとしたようにその音を見つめたまま、関が首を振る。
「あれは、…俺は、鷹城が襲われる音を聞いてたんですか?それで?でも、しかし、それなら、…俺が立ち去らなければ、―――」
「君は薬で意識が朦朧としていたのだと思いますよ。そのときに聞いた音が、潜在意識に残り、焦燥感を与え、またここへ戻ってきた際に僕を案内することができたのです。タクシーを降りたのはこれより下の道でしたからね。君は憶えていないかもしれませんが、君の潜在意識は鷹城君が何者かに襲われたことを憶えていて、ここへ連れて来てくれたのですよ」
「しかし、…――なら、くそっ、…もっとはやく、すぐに、」
「しかし、君は報告に戻ることしか記憶していなかった、そうでしょう?」
「…それに、くそ、…誰かが、―――」
「関さん?」
戻ることを、といわれて、何かが記憶から蘇る。
立ち尽くす関に、橿原がしずかにみつめる。
ぼそり、と。
くちから、言葉が漏れるのをしらないように。
関が、茫然とくちにする。
「戻るように、…」
戻りなさい、――と、静かに耳許で響く声が。
「…くそっ、――――!あの女か?誰かが、戻るように、…戻れという声が、」
頭痛に頭を押さえていう関に橿原が肩を押さえる。
冷淡にさえみえるほどに、感情の見えない眸で橿原が関の様子を観察する。
頭を押さえたまま、関が何かここに無い物をみているようにしていう。
「音が、したんですよ、俺は聞いてたんだ。…何かが空を切る音がして、倒れる音がしました。それで、落ちていく音が」
草の滑りやすい地面の坂と、その下の石が転がる狭い河原と小屋をみて関が顔をしかめる。
「放水で殆ど痕跡が流されていましたが、西さんがこの坂を草を倒して滑り落ちた痕跡を見つけてくれました。鷹城君の服にもいくらか草や引きづられた痕跡としてこの坂の土が残っていたそうです」
「…鷹城、…。君は、と、云ってる声が、…―――それで、くそ、…打撃音が、…肉を打つみたいな、執拗に繰り返してる音が、…、――俺が、くそ、鷹城、」
「君の責任ではありません。…そうですか、繰返し打つ音が聞こえたのですね」
「…――――」
目を閉じて関が頷く。
橿原が促して車に戻り、関に問い掛ける。
「鷹城君も聞いていましたが、君は何故、殆ど事故として処理されかけていた件で、わざわざ許可を取ってまで、再度その簡単な証言を確認する為に、高槻香奈を訪問したのですか?」
「――――…」
関が額から手を下ろし、橿原を振り向く。
随分と間を置いて。
「橿原さんには笑われるかもしれませんが、…ぞっとしたからです」
「関さん?」
首を傾げて橿原が関を見返す。それに、関が座り直す。
フロントガラスの向こうに、当時を見るように。
「本当に何の根拠もないんですが。…この村に来たときは、既に薬草の混入が起こったらしいということで、保険所の役人何かとも一緒に確認作業に来たというか、…。本当に後始末でした。俺は直前まで別の件に関わってて、―――人数が足りないから応援に、そこで、」
関が目を伏せて、当時を思い返すようにしていう。
「農家の広い門を入った庭先で、俺は数人の役人と一緒にその商品を出荷したという農家の方と話をしてました。県警で元から担当してた署の槇野というのが、他の人から聴取して、―――…。門から軒先に近い方に数名で立っていて、…――そのとき」
関が嫌悪を覚えるというように、思わずもその記憶に歯を噛み締めるのを見る。
「門の反対側か、庭の方から来たのかもしれませんが、少し離れた処で、この村の巡査が話しているのを見たんですよ」
関が口を噤む。
「そのときに、見たんです。巡査に話しかけて、その視線が逸れたときでした。誰も見てないと思ったんでしょうが」
再度言葉を切り、僅かに首を振って理解し難いものをみたというように口にする。
関が心底嫌悪を覚えるというように。
「光の加減かもしれない。けど、そいつは微笑んでみてました。事情を聴かれてる農家、聞いている人間、…全員をみて、―――――薄く笑ってたんです。ぞっとするような、…ばかなことをいうと思われるかもしれませんが」
言葉を切る関に、穏やかな橿原の声が耳に届く。
「それが高槻香奈だったのですね?」
「ええ、そのときはまだ名前も知りませんでしたが。それから巡査が親切に証言をしたいと申し出てきてくれたと紹介して、…―――」
大きく関が首を振る。
「正直いって、ぞっとしました。どうしてあんなに、けど、―――」
「高槻香奈が、犯人だと思ったのですか?」
両手を揃えて正面に立った楚々とした美しい女性を思い出しながら関が橿原を見る。
まだその何か、―――恐怖を、見つめる眸で。
一度、はっきりと無言で頷く。
「思いました。奴が犯人だと、―――証拠も何もありませんでしたが、わかったんです。故意に薬を混入させて、やったんだとね。…そして、こいつはそれを楽しんでると」
言葉を切り、苦いものを見つめるようにしていう関を橿原は見返していた。
「それが動機だったのかもしれませんね」
「橿原さん?」
訝しげに問い返す関に橿原が頷く。遠く村の高槻香奈の家がある方角を眺めて。
「それが動機だったのかもしれません。君と鷹城君を今回のような目にあわせたのは」
「…――俺と鷹城を?どんな動機が」
さらり、と淡々と橿原が表情を変えずに呟く。
「楽しみを、邪魔されたから、――――――」
「何ですって?…楽しみを、邪魔されたから?」
思わずも問い返す関に、橿原が応える。
「はい。それまで、誰にも気づかれず、楽しんでいたのに、きみと、――――鷹城君に邪魔されたから」
淡く微笑みに似た表情でくちにする橿原に、ぞっとしたように関が腕を抑える。
「そんな、邪魔されたから、…――襲ったと?」
「そうです。…楽しみを、邪魔されたから―――」
呟くようにいう橿原に、関が何ともいえない表情で震えを押さえるように自らの左腕を掴む。
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