第26話

 ――臆せば、終わりだ。

 テノチカ神威少佐は珊瑚の針を左手に、揺るぎなく前を見据える。

 前方には月神の従者、ジャガーを待機させる。

 獣は眼前の脅威を前に、低く唸り、いましも跳びかからんと姿勢を低くしている。

 獣とテノチカ神威少佐の魂は珊瑚の針で繋がっていて、彼の怯えはすぐさまに獣に伝わる。

 だから、臆せば終わりだ。

 テノチカ神威少佐が恐ろしいと思ったが最後、獣は尻尾を巻いて月に逃げ帰って行くことだろう。

 が、彼が臆さぬ限りは、ジャガーは躊躇うことなくミシュコアトル神に立ち向かう。

 ホルスターにはグロック18、マチェーテを改良した剣も腰に佩いているが、それらの武器の出番はあとだ。

 じゃり、じゃりと重い足を引きずってミシュコアトル神が迫ってくる。

 びいん、びいんと手に持つ弓の弦を弾き、ガアア、と荒い咆哮をあげる。

 威嚇だ。

 狩猟神である彼の本来の姿ではない。

 本来なら、彼は影に潜み、音もなく近づき、必中の一撃でこちらの命を奪うだろう。

 分かっている。

 彼の神が、こんなにものろのろとやってくるのは、彼とてもいまのように『使役』されるのが不本意だからだ。

 しかし、仕掛ければ容赦なく襲ってくる。

 敵の神官の『強要』が強くなれば、いますぐにでも自分を引き裂きにかかるだろう。

 自分の為すべきことは、時間稼ぎだ。

 これは神々との勝負ではない。人に心ならずも使役される神を解き放てば終わる。


 ギ、ギ、ギシャ


 血の鎖が絞まり、ミシュコアトル神の足に血が繁吹しぶく。

 煮え切らぬ神に苛立って、敵の神官が拘束を強めたのだ。


 ドン

 と、狩猟神は足を踏み締めた。

 足元から、その姿が融け始める。

 消え失せるのではない。狩猟神が戦いに臨む合図だ。

け!」

 テノチカ神威少佐は月神テクシステカトルの従者に命じた。

 ジャガーが奔った。

 その姿は冷たい月光の如くまっすぐに敵を目指し、神の喉笛に食らいつく。

 ミシュコアトル神は喉から血を吹きながらも弓をひく。

 テノチカ神威少佐の胸元で、見えぬ盾に矢が弾かれた。

 その盾の名は勇気。

 強大な敵をまえに怖じぬ魂。

 ジャガーが喉の肉を食いちぎったところで、ミシュコアトル神はジャガーを手で打ち払う。

 後方に投げ飛ばされるもすかさず、月神の従者はミシュコアトル神のはぎを咬み裂いた。

 ――月神テクシステカトルか。炎の前で四度臆し、ナナワツィンに後れを取った虚勢の神が儂に敵うと思うのか。

 ガアア

 と、ミシュコアトルが嗤った。

 テノチカ神威少佐が目を細めた。

 惑わされるな。

 わたしは、月神テクシステカトルではない。月神のちからを借りているだけなのだ。


 ――わたしはイツコアトル・テノチカ。神々とともに国を建てた王の裔。


 珊瑚の針を握る手に、力を込める。

 ジャガーがミシュコアトル神に踏み潰された。

 すぐさま潰れた身体をつなぎあわせ、獣は脇腹に飛びかかる。

 ビン

 と、神の弓が引き絞られ、必中の矢がテノチカ神威少佐の心臓を狙った。

 矢は、再び弾かれた。

 が、折れた矢の欠片がテノチカ神威少佐の頬を掠める。

 頬に熱いものが滴る。

 テノチカ神威少佐は目を見開く。

 魂が揺らいでいる。目の前の脅威を、脅威と感じてしまっている!

「ジャガー!」

 テノチカ神威少佐は声の限りに月神の従者を呼ばわった。

 獣の咆哮

 ミシュコアトル神は重い足取りで、前へ、テノチカ神威少佐を目指して進んでくる。

 もはやその足取りには迷いはなかった。

 心ならず使役されているのは腹立たしくとも、眼前の人間と対峙する興味が勝ってきているのだ。

 月神の従者が再びミシュコアトルの足に食らいついた。

 喉、腹、脛と、牙のあとから血を吹き出しながらもミシュコアトルは足に食いついたジャガーを、煩わしそうに踏み潰す。

 テノチカ神威少佐の珊瑚の針が折れた。

 獣は潰された姿を再構成できず、しばし蠢き、影に融けてゆく。

 テノチカ神威少佐はすぐさまグロック18を抜き放ち、ミシュコアトル神の足元、床を狙ってトリガーを引いた。

 フルオートのマシンピストルは、王国支持派との内戦時、そして残党狩りに威力を発揮した。が、もちろん神に対して有効な手段ではない。 

 全弾射出に二秒

「マヤウェルの化身マゲイよ! 我にちからを貸したまえ!」

 拳銃を投げ捨てマチェーテを抜き放って床に刺す。

 竜舌蘭の堅い葉、そして葉に生えた棘で流した血、それを塗り込めた弾頭がミシュコアトル神の足元で芽吹いた。

 ガアアアアッ

 ミシュコアトル神の足が、マゲイの葉と棘でずだずたになる。

 神は傷つくのも構わず、マゲイを鷲掴みに抜いていくが、マゲイは床から吹き出るように芽吹いてゆく。

 ギシ

 と、ミシュコアトル神は矢を番え、弓を引き絞った。

 テノチカ神威少佐の眉間、そのすぐ手前で矢は弾かれた。

 折れた矢の軸が頭を掠める。

 額に一筋、流れ落ちる血。

 ――もう、矢を射る距離ではないな。たまには素手で狩るのもよい。

 ミシュコアトル神が両手を天井に向け、掴んだ。

 指がコンクリートにめり込む。

 そのまま腕の力で全身を持ち上げる。

 マゲイはミシュコアトル神を追ってその茎を伸ばして行くが、神は背を貫かれても構わなかった。

 どん、と、マゲイの結界を越えてテノチカ神威少佐の眼前に立つ。

 左手をうしろに回し、背に刺さったマゲイを抜いて、にたりと笑う。

 ――おまえはなかなかおもしろいな。強い。

 抜いたマゲイで薙ぎ払う。テノチカ神威少佐はそのマゲイをマチェーテで受けようとして、できなかった。膂力の差だ。マゲイの剣に似た葉が、テノチカ神威少佐の肩を貫いた。

「あああっ」

 神に対しては盾がある。心を強く持てば、その「実体」を無効とできる。

 が、マゲイは彼が自分の血によって喚び出したものなのだ。

 ――儂はくだらん連中に縛られ、娘をひとり掠ってこいと言われておる。つまらん仕事だ。儂に対する侮辱だと言ってもいい。が、おまえと戦えたのは良かった。おまえの生皮を剥いで地上の戦士であったおまえを讃え、おまえの心臓はマゲイの酒プルケーに漬け、ときどきに呑んでその脈動と血の熱さをいつまでも思い出すよすがとしよう。

 ミシュコアトル神が血で真っ赤に染まったマゲイを振りかぶり、テノチカ神威少佐を仕留める最後の一撃を振り下ろそうとしたそのときだった。

 アタカウカ将軍の執務室のドアが開き、将軍がアサルトライフルの銃弾を神の頭に叩き込んだ。

 笛の音が響く。

 廊下の床がゆがみ、強烈な腐臭とともに湧き上がった冥界の戦士がミシュコアトル神の手足を掴んだ。

「すまん、テノチカ神威少佐。少々こちらも手こずっておってな」

 将軍は人間のおおきさほどもある紅の鳥をミシュコアトル神のほうへ放り投げた。

「おまえのしもべは儂が始末した。おまえもとっとと神界へ去れ」

 ミシュコアトル神が嗤う。

 が、その嗤いはだれに対するものだったか。

 ――ままならぬ――

 神がそう口を開いたときだ。

 その紅い鎖がほろほろと融けていく。

 ――ほう。解放してくれるのか。


 ミシュコアトル神が、にい、と笑みに唇を歪めた。

 ――今夜、おまえの心臓をいただけぬのは惜しい気もするが、いい。いつかまた会うときの楽しみにしておこう。気高きイツコアトル黒曜石の蛇、偉大な王の血をひく男よ。

 さらさらと音を立てて神の形が崩れてゆく。

 ――儂を召喚したつまらぬ者どもになど、負けるなよ。

 瞬きひとつで、ミシュコアトル神、その姿は消えてなくなった。

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