第17話

 キトの旧市街は古い町並みが市街全域に残っていて、車道にできるだけの道幅のある道がすくない。

 十五世紀、この街は時の皇帝アタワルパともゆかりの深いインカ帝国タワンティン・スウユの第二首都であった。

 スペイン帝国との戦争で、一度はスペインに征服されたものの、その後の疫病交錯によるスペインの勢力停滞に乗じてインカ帝国タワンティン・スウユはキトをスペインから奪還した。

 だが、当時のインカ帝国タワンティン・スウユは、やはり疫病交錯によって国力が弱り切っていたため、第一首都クスコ周辺を維持するので手一杯だったと言われている。

 そのため首都にして神都テノチティトランを失陥しっかんしたアステカ王国に、キト一帯を割譲したのだ。

 これによりキトはアステカ王国から名称を変更したテパネカ王国の首都となった。

 テパネカとは、ナワトル語で『石の上の場所の住人』を意味する。

 高原にあり、岩肌の目立つアンデスの都市であり、石造建築を得意とするインカ帝国タワンティン・スウユから借り受けている、という意味を込めた名称変更だったと言われている。

 テノチティトランはテスココ湖上の都市であった。『石のように堅いウチワサボテンの群棲しているところ』を意味するその首都の名を、仮住まいだとしてもキトに冠することは出来なかったのだろう。

 遷都以来、テパネカ王国は休戦期の終わりとともに再開されたスペイン帝国の侵略への抵抗に加え、北米大陸、テノチティトランへの帰還を目指して数次の遠征を企図きとした。

 失敗に終わったそれらの軍事遠征はスペイン帝国との一五八九年の和平条約締結後も続いたことでも分かるとおり、アステカ王国はキトを仮住まいの首都だと認識していたのだろう。あたらしく開拓した村は別にして、アステカの民はアンデスの地名をほとんど変更せず、そのまま温存した。

 が、時はたち、やがてはテノチティトランを知る国民はいなくなる。

 一七二○年に、北米遠征が行われたのが最後だった。以降、テパネカ王国はアンデス山脈の国として発展を遂げることになる。


 キトはその歴史的に複雑な経緯から、インカ様式、スペインコロニアル様式、アステカ様式の建築物の入り交じった不思議な景観の街として人気が高く、もっとも早く世界遺産に認定された街でもある。

 街の中心にはヤヴィラクの丘があり、その近くにはインカ帝国タワンティン・スウユ皇帝アタワルパも一時滞在し、テパネカ王の宮殿となっていた旧王宮がある。

 旧王宮は現在、大統領府兼国会議事堂となっていて、昨年、憲法に則って開かれた選挙で選出された大統領エンゾク・セバニが執務している。

 議事堂など、旧王宮のごく一部は議会の開催されていない時期に限って公開されていて、観光名所となっている。ただし、議事堂のすぐ近くにはセベント・アタカウカ将軍の起居する陸軍施設もあり、そこは立ち入り禁止区域であるため、キト市街地の中心近くにありながらも、静まりかえった場所だ。

 アタカウカ将軍には血縁はいない、とされている。

 テパネカの神官のひとりであった叔父が政変に連座して親族皆殺しになったことで、かろうじて罪を免れたアタカウカには、おのれの妻子のほかは係累がいない状態だった。

 そして彼には男女ひとりずつ子供がいたが、十五年前のクーデターの戦闘でひとり息子を亡くし、妻を暗殺で失った。また、娘はそれに先立つ三十年前にアステカの血統を重んじ厳格な父を嫌って失踪している。

 血縁の近い後継者のいないことが、クーデター後の将軍について独裁色が薄かった一因ではないかと考えられている。


 古い町並みが保存されているため、比較的新しいホテルなどは街の外縁に建っている。昨日、稀梢の宿泊した新市街のホテルもそうだ。

 新市街の辺縁には駐車場もあり、今日のようにキト郊外に出かけるには便利なのだが、高山ゆえの道の狭さは変わらない。

 ホテルに近づくにつれ、街路は騒然としていた。

 十階建ての八階、部屋の窓が割れて煙を吐いている。

 それを観ようと野次馬が街路を塞いでいるのだ。

 街の手前でレンタルの車を乗り捨て――治安がよくないことから、盗難を防ぐために稀梢が車に『術』をかけた――レオニードはホテルに向かった。

「お! やっぱこっちで合ってた」

 ホテルからはすこし離れたカフェのまえでレオニードはオリエに呼び止められた。

「街の外から車で帰ってくるなら、この道しかねえと思ったんで、見張ってたんだ。もう夕食時だろ? 腹減るしさ。でもなんせ急だったんで財布持ってこなかったし、シワトルちゃんがホウに貰ったって金じゃ、血まみれになっちまったオレの着替えの服を買うので精一杯でさ。そろそろどうやって食い逃げしようかって考えてたとこだったんだ。オレだけならヨユーだけど、シワトルちゃんに無茶させるのも悪いしさ」

 だいたい食い逃げを選択肢に入れて食事をするなどもってのほかなのだが、仕方がない。オリエはそういうのをあまり気にしないのだ。

「で、なにが起こったのか説明できるか?」

 ホテルに行けば責任を追究されるかどうかはさておき、警察の事情聴取をうけることは間違いない。

 レオニードは自分の夕食もかねて、オリエに詳しく話を聞くことにした。


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