第16話
いつのまにか視界が拓けていた。
背の高い木々はぐんとすくなくなり、道の左右に広がるのは灌木のまばらに生えるゴツゴツした山の斜面だ。
アンデス山脈、いま標高は三千メートル。延々とつならる稜線を越えたところだ。
まだレオニードが車を走らせる車道からは見えないが、街は近い。
日はまだかすかに残っているが、空の真上はもう暗かった。
猫の爪のような月。澄んだ空にある星々は、瞬くことすらない。
星の瞬きは、大気の揺らぎによるものだ。アンデス高地、標高の低い場所と比べて大気の層が薄く、乾期のいまは湿度も低い。
星は瞬かず、その輝きを惜しみなく地表に注いでいる。
アステカの民は太陽の光と同じように、この月星の光が大地に血となって降り注ぎ、土地を肥やし、人間を養うと考えていた。
いや、過去形ではない。
いまもそう考えている。
「まず、オリエの自称する『ピシュタコ』と、シワトルさんにまとわりつく『ピシュタコの噂』は別物だと考えて欲しい」
ずいぶん手元が暗くなった車内、助手席に座っている稀梢が頷く。
「まず、シワトルさんに関することを説明するよ。『ピシュタコ』は、アンデス山脈の民間伝承に伝わる『妖怪』のなかでは、神話の神々を除けば最強の悪霊と言っていい。現代に現れ、いまも人々を脅かしていることも考慮すれば、アンデスの人々がもっとも恐れる悪霊なんだ。いつのまにか隣人に憑き、人々の血と脂肪を奪って殺す。奪った血と脂肪は街に行って外国人に売って金儲けする。あるいは人々に不運をもたらす。一度、憑いた悪霊を封じる方法はない。……ただし、それはみんな噂だ」
「噂?」
「そう、噂だ。だれも実際の被害を『目撃』するわけじゃない。たとえば……村の住人が何名か行方不明になる。村では『ピシュタコの仕業なんじゃないか』と、噂しだす。あるいは、もともとだれかがピシュタコなんじゃないかって噂があって、そういう行方不明者が出ると『さてはあいつが』ってことになる。でも、行方不明なんて別に珍しい話じゃないんだ。捜索依頼を受けて警察が追跡調査してみれば、村の暮らしに行き詰まって、夜逃げして都会で働いてたりする。べつにピシュタコに喰われたわけじゃない。でも、ピシュタコの噂は消えない」
稀梢は聴いている、という意味合いで頷いた。
「あるいは、こういうこともある。鉱山の近くで山津波が起こって鉱山労働者が生き埋めになった。地震や嵐で村道が埋もれてしまったとか、畑が崩れて農作物の収穫が見込めなくなった。鉱山の採掘量が先細りして、もしかしたら閉山になるかも知れない……。こんなのはみんな『怪物の悪意でなく、ほかに合理的な理由がある』ことは、村の人々も分かってる。たいていはなにごともなくそういう『変事』を受け入れる。でも、ときおりそういう状況のなかで『ピシュタコ』の噂が囁かれるんだよ。『これはピシュタコが現れたに違いない。村の不運は、ピシュタコの仕業だ。ピシュタコは誰々だ』とね」
「それが最強の悪霊?」
「そう、だれがそう名指しされるか分からない。若い頃街に出て働いていて、ちょっとした財産を持っているとか、先天性、後天性問わず身体に障害があるとか、数年前にどこかからやってきて村に居着いた異邦人だとか、後付けで『そのせいじゃないか』っていうのは考えられるんだけど、実際になにがトリガーになるか分からない」
「それで、『ピシュタコ』とされた人は差別される?」
「差別というより、ちょっと敬遠される感じかな。わかりやすく村八分になったり暴力を受けるのはすくない。なにせ『ピシュタコ』は血と脂肪を吸って相手を弱らせる。報復は恐ろしいからね」
「でも、実際報復を受けるわけじゃない」
「そう。『ピシュタコ』の報復は受けない……そんな被害を受けたり、目撃することはないはずだ。もちろんなにか不幸なこと……子供が熱を出して亡くなったり、奥さんが行方知れずになったり、なにかが起こることだってあるかも知れないが、それはなにか別の原因がある。合理的に説明できる。問題はそこじゃなくて、そうこうするうちに『ピシュタコと噂されていた人』がいなくなることなんだ。あるとき、ふといなくなる。村のだれもそれで警察に捜索を依頼したりはしないから、実数は分からないけど、テパネカ共和国、タワンティン連合といったアンデス山脈の国々では毎年、すくなくない人々がいなくなっている。僕らが調査した結果、そういう『ピシュタコと噂されていた人』が、村を離れて別の村や町に移っていたのを確認できた例もあるよ。でも、多くの者の消息は、ほんとうに分からなくなるんだ。僕が消息を追って、キトの街で働いているのが分かったある男性は『あそこに居続ければ、命の危険があった』と言ったよ。でも、なぜ命の危険があるのかは語ってくれなかった。これまでの調査結果でも、『ピシュタコと噂されていた人』が村にずっと居続けた結果、なにが起こるかは、だれも語らない」
「なるほど。なんとなく――分かります」
「『ピシュタコ』は、そういう『妖怪』なんだ。実際に『妖怪』は現れないともいえるので、『事象』と言ったほうが良いかもしれない。次はだれが『噂』されるのか、予測できない。表だってなにかが起こるわけでもない。なにかが起こってもそれはほかに合理的に原因が説明できることばかりだ。でも、最後には人がいなくなる。確実に消える。みな、怯えている」
「シワトルさんはたまたまその血筋に特徴があったために『噂』された。二年前に母親が亡くなってから、生活が厳しくて学校には通えなくなったとはいえ、すくなくとも二年間は村の人たちの支えで生きてきた。でも、今回『コカの手入れをする仕事がある』という勧誘にのったのは、自分が『ピシュタコ』だと噂されているのを知って、村から逃げ出さねば、と思ったから?」
「そう。たぶんね」
レオニードは頷いた。
「実際……なにが起きているのか、想像できないわけじゃない」
レオニードのまなざしは暗い。
「僕はその現象としてのピシュタコを民俗学的に調査しているんだ。いったいいま、この地域になにが起こっているのか。単一の原因じゃないかもしれないけど、それを記録したいと思っている。『迷信だ』というのは簡単なんだよ。ピシュタコなんていないんだと、あなたがたのやっていることは間違いだとね。でも、それではなにひとつ解決しない。地域の現状に根ざさない『啓蒙』なんて、有史以来、失敗続きだ。だから記録する。たくさんの事例と、地域の現状を書き残して、情報を共有し、たくさんの人の知恵を借りて、いつか最恐の悪霊『ピシュタコ』をこの世から駆逐する。僕のやってるのはそのための長い長い道のりのちょっとした一歩なんだ」
レオニードはそこで言葉を切った。
ラジオは、いつのまにか音楽番組に変わっていた。
縦笛ケーナとちいさなギターに似た楽器チャランゴの奏でる物寂しい音楽。
「オリエは自称『ピシュタコ』。でもさっきの『ピシュタコの噂』の特徴を持ってる。血と脂肪を吸うってとこだけだけどね。最初に彼が血と脂肪を吸ってるのをみたときは気を失いそうになったよ。いや、実際失って、オリエに笑われたね。あと僕はまだ彼と会って一年ほどだから真偽のほどは分からないけど、彼の自己申告によれば百年以上生きてるらしい。僕はじつのところ妖怪の存在なんて信じない。オリエは妖怪じゃないよ。オリエは、オリエだ。でも僕は『妖怪』が人を狂わせる得るのを知っている。その『妖怪』は人間の内面にあることもね。その内面の妖怪が、オリエのような存在と結びついて進化したのがいまのピシュタコ現象なのかもしれないとも、思うことがある」
レオニードはすこし考えるような仕草で首を傾け、続けた。
「僕は妖怪なんて信じてないけどね、人間と似たような姿をして、ちょっと長生きだったり、血と脂肪を吸ったりする者がいたっておかしくないとも思うんだ。実際、オリエがいるしね。ホモ・サピエンスはネアンデルタール人やホモ・エレクトスなんかの人類集団と通婚し、あるいは滅ぼすことで『かつて存在した亜種を取り込みつつも単一の現生人類』になった。繁栄しているように見えるけど、現生人類はバリエーションを失った、『軽度絶滅危惧種』だよ。でもこの『単一の』ってところがじつはミソで、現生人類が認識してないだけで、まだこの世界には通婚ですら可能な人類の近縁種が残っている可能性だってあるんじゃないかって、夢想することがあるよ。だって、ネアンデルタール人が滅びたとされるのは、たった三万年前だよ? 人類の歴史は二百万年以上あるし、その過程で派生した亜種はまだ発見されていないのも含めたら、百を超えるんじゃないかとも思うしね」
稀梢がふと、笑った。
「突拍子もないと思っている?」
「いえ。感心してるんです。そんなふうに考える人もいるのかって」
「茶化してるんじゃなくて?」
「もちろんです。たとえばレオニードさんは、私が千七百年ほど生きていて、人間の血を吸って生きていると言ったら、信じますか?」
「吸血鬼みたいに?」
「ええ、日光を浴びて灰になったりはしませんけどね」
「『常識』から判断すれば信じがたいけど、否定するだけの根拠も僕は持ってない。全面的に肯定するだけの論拠もない。いまのところ判断保留かな」
「あなたのそういう考え方、好きですよ」
稀梢は微笑み、ふと空を見上げる。
車の前方、街の灯りが煌めいて、空の星の輝きをくすませている。
「あの煙……私たちのホテルの方角では?」
たしかにそうだった。
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