第12話

 翌朝、朝五時を過ぎて、シワトルが目を覚ました。

 鎮静剤はそんなに強い薬ではなかったが、半日以上、眠っていたのはさすがに疲れていたのだろう。

 お手洗いに入って、用を足す。

「ホウさん、済みませんが、お金をすこしもらえないでしょうか」

 部屋の照明は足元が見える程度の弱い夜間照明のみ、肘掛け椅子を窓辺に寄せて本を読んでいる稀梢に、シワトルが訴えた。

 まだ窓の外は真っ暗で、月も細い。それで本の字が読めるらしいのは、やはり彼が常人ではないからだろう。

「もちろん」

 稀梢はつねに腰に巻いているらしいウェストバックから財布を取り出し、少額紙幣を五枚ほど取り出した。

 ドル札ではなく、テパネカ共和国紙幣だ。アタカウカ将軍の横顔と、トウモロコシが意匠されている。高額紙幣はアステカの伝説の王だったり、憲法を象徴した石板を意匠していて、自分の肖像は小額紙幣に充てているところ、アタカウカ将軍は『建前』の意義が分かっているらしい。

 十五年前のクーデター時点で五十五歳、三年前に発行された紙幣の横顔はずいぶん皺深い。

「きのう、君が起きて食べるかと思って夕食は部屋に持ってきてるけど、それとは違うんだね」

 稀梢が視線を遣った先にあるテーブルに、果物とサラダを盛ったボウル、トルティーヤ、挽肉と豆のトマトソース煮などがラップをかけて置いてある。

 シワトルが頷いた。

「あとで食べます」

「足りる?」

 手渡されたお金を見て、シワトルはもう一度頷いた。そして続ける。

「昨日……じゃなくて、一昨日、あたしを助けてくれて、ありがとうごさいます」

 居間のソファをベッドにして眠るオリエとレオニードの姿にちらりと目を遣って、シワトルが言った。両手を胸に当てるのは、こころからそう思っている、という意思表示だ。

「私はね、あの場所で、君が生贄になるのを見に行ったんだよ」

 稀梢はすこし困ったような顔をした。

「でも、気に入った出し物が見られそうになかったんで、抗議したわけだ。君を助けたのはついでのことだから、感謝して貰わなくてもいいんだよ。もし彼らがもっと巧い『出し物』を見せていたら、私はなんの疑問も持たず、君が切り刻まれる姿を眺めていたかもしれないんだからね」

「それでも」

「なら、彼らにもあとでお礼を言っておくことだよ。レオニードさんとオリエさんは、私と違って人違いで巻き込まれただけなのに、君のことを助けたわけだからね」

 オリエ、という名を聞いてビクッとシワトルは肩を震わせる。

 けれども、恥ずかしそうに……頷いた。

「ふたりが起きたら、お礼をします。きのうは、なんだか自分でも分からなくなっちゃって。オリエさん、怖くないひとなのに」

「知らないものや知らない他者を警戒するのはいいことだよ。私もオリエさんも、いつも人間に対して無害に振る舞っているわけでもないから。君は我々を怖がっていいんだ。君には、私がたぶん、『ふつうの人間』に見えているだろうけど」

 シワトルが頷く。

「人間どうしだって、酷いことをする時がある。相手の命や、権利を奪って自分の欲を満足させるようなね。だから警戒することは忘れちゃいけない。でも、なにもかも警戒すると、他人の厚意に気づけなくなる。人間社会は、難しいね」

 シワトルは泣きたいような、困ったような顔をして目を伏せた。

 たった十五歳で、稀梢の言っている意味が分かるほど、他人に失望してきたのだろう。

「でも、まあ、私とレオニードさん、オリエさんは、君にはなにもしない。君のちからになってあげられることはたくさんはないけれど、君に危害を加えることはない。それは約束するよ。いちどは助けた人間に危害を加えるのは、私だって気が引けるからね」

 もういちど胸に両手を当てて礼を言い、買いものに行こうとするシワトルに、稀梢はふと、思いついたように声を掛けた。

「いまはまだ朝早いから、売店は開いてない。でも一階のホテルのフロントに言えば、必要なものを売ってくれるよ。女の人が立ってなければ、女性と話がしたいと言えば代わってくれるから」

 それを聴いてシワトルは稀梢を振り返り……頬を染めて頷いた。

 と、部屋のドアへ足早に向かうシワトルの気配に目を覚ましたか、オリエがソファから上半身だけむくりと起こして、声を掛ける。

「おはよ、シワトルちゃん。気分はどう? ……あれ、大丈夫? どこか怪我してる? 血の臭いが……」

 くんくんと周囲の空気を嗅いで、そう言ったオリエに、シワトルは涙を滲ませて

「大丈夫です!」

 と、側にあったソファのクッションをオリエの顔に投げつけた。

「なんで?!」

 突然、駆け足に出て行くシワトルを呆然と見送って、投げつけられたクッションを抱きしめてオリエが稀梢に尋ねる。

「さっき、彼女がお手洗いに行ったのは、知ってる?」

 面倒くさそうに稀梢が言った。

「知ってる。オレ、耳いいし、気配は寝てても分かるし」

「きのうは彼女、全然、血の臭いなんてしてなかったよね」

 オリエが頷く。

「オレ、鼻も利くし血の臭いは『美味そう』って思うからさ、ちょっとでも臭えば気がつく。だからさっき、あれ、おかしいなって思ったんだ。寝てるあいだにどっか怪我したのかなってさ」

「まあそれは私もおなじだけどね。気配とか臭いとか、敏感なのに妙に鈍感なのも考えものだね。せめて黙っていればいいのに」

 稀梢はふう、と溜息を吐いた。うんざりした顔をしている。

「なんか分かってるなら教えてくれよ。もったいぶるの、よくないぜ」

「……シワトルさんは女性なんだよ。生理が始まったって可能性はまるで思いつかない?」

 オリエはきょとんとした顔で目を瞬かせ、

「ああ」

 と、ひとこと、呟いた。


 みなが起きたあと、めいめいに朝食を摂った。

 シワトルはあまり外に出たくないと、部屋にあった昨日の夕食を朝食代わりに食べ、オリエとレオニードはホテルの朝食を食べに行く。

 稀梢は食べたくないと、部屋に残った。

 朝食から戻ってきて、結局、レオニードが今後の話を切り出すことになった。

 シワトルは故郷に帰ることについて難色を示したが、三人がこのままずっと彼女を一緒に連れて行けないことも分かってはいるのだ。

 渋々ながらも納得する。

 納得?

 いや違う。

 と、レオニードは思った。

 本当は帰りたくなんかない。なぜなら、保護してくれる人がいない。仕事がない。

 十五歳。伝手もなければコネもない、十三歳まで、母親が生きていたときは学校に通っていたらしいので、多少は読み書きできるということだが、それだけで都会で仕事を見つけるのはなかなか難しい。

 身体を売って生計を立てるなら、稼ぐことは難しくないが、そういう女性を支配下に置いて食い物にしようという組織を出し抜いてひとりで生きて行くのは、シワトルにはまだ荷の勝ちすぎる話だろう。

 帰るのが嫌なのはその態度で分かった。

 とはいえ、レオニードたちが彼女を保護するのは限界がある。故郷で彼女を保護してくれそうな人がほんとうにいないのか、一度、レオニードがじかに見に行くことにした。

 トゥーラ村。

 キトから直線距離で百キロメートル。山道を走るから二百キロメートル。細い道もおおく速度が出せないため、車で三時間強かかる。

 古いアステカの都の名前がついていることから、十六世紀の『遷都』によってアステカ王国の民が入植した土地だと分かる。

 レオニードには、なぜか稀梢が一緒についてきた。おそらくは観光ついでなのだろう。

 ピシュタコ騒動からオリエを怖がるシワトルとオリエを二人でホテルに置いておくのはどうかと思ったが、オリエにはなるべく彼女に近づかないよう言い含めておいた。


 昼をすこし過ぎたあたりでレオニードと稀梢は村に辿り着いた。

 村は、アンデスの谷底にあった。

 とはいえ標高は千五百メートル。日本の雲仙岳頂上ほどの高さの場所である。

 日照時間を稼ぐために山の南西の斜面が畑になっていた。

 トウモロコシと小麦、何種類かの野菜と、そしてコカの木。

 雨はあまり降らないようだが、このあたりなら朝には谷はしっとりとした霧で包まれるし湧き水にも不足しない土地柄だ。

 警官を探したが、どうやらこの村には駐在員がいないらしい。

 レオニードは、ともかくもシワトルを保護してくれそうな村人を探すことにした。

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