第10話

「このあたりの夜明けは遅いんだね」

 と、鳳稀梢が言った。

 アンデス山脈の山々に囲まれたこのあたりは、稜線を除くと夜明けが遅い。

 日の出時刻は六時前なのだが、場所によっては山に日光が遮られ、七時を過ぎてもあまり明るくならない場所がある。


 襤褸ぼろ小屋の物陰で持参してきた本を読んで暇を潰していた稀梢だが、朝七時を過ぎて、耳が別種の騒がしさを捉えたことで顔を上げた。

 摺鉢状の穴のふちに人が集まっている。

 みな、アステカの……テパネカ王国の民族衣装に身を包んでいた。男も女もいる。

 摺鉢状の穴は、目測で底まで五十メートル程度はあり、上り下りしやすいように摺鉢の壁面に渦巻き状に段差がつけられている。

 地上から鉱石を掘っていき、掘り下げていく過程で、移動しやすいようにスロープをつけてあるのだろう。

 摺鉢の縁に祭壇らしきものはなかった。

 唯一、穴の縁に昨夜と違っているのは人の身長ほどの長さで腰丈ほどのおおきな石がひとつ置かれてあったことだ。長方形の箱形で、ものが置けるように表面が平らに削ってある。

 そのおおきな石の脇に女が立っていた。

 長い黒髪を神官の証として革紐で束ねている。

 ――神官テオピシュキは男に限っていたのではなかったかな?

 稀梢は事前に仕入れていた知識に照らし合わせて首を傾げる。

 この手の儀式において、事前に基本的な知識を仕込んでおくのは必須条件だ。でないと、なにが起こっているのかすら分からないまま儀式が終わってしまう場合がある。

 しかし、まわりの人々は彼女の存在を特別に奇異なものとは見做していないようだ。

 どこがどうとははっきり言えないが、彼女は周囲の人々から敬意を払われている、という感触はある。

 ――まあ、いまは男女の区別はしない時代だから。

 とは思うが、わざわざこれまでの祭祀を……人身供犠に手を加えずに行おうとする人々だ。男女の別もまた、守らねばならないと考えるのではないだろうか?

 と、なればこの祭祀は女が神官となって司ることがもともと正しいのか、あるいは、男女の別を無視しても、彼女の血統がこの儀式を主催するのにふさわしいとみなが認めているのか。


 さあ、神の歌が降りてきた

 汝の家にて、高貴な鳥が語る

 あたらしき王よ

 汝の花が、咲いた


 摺鉢の縁にある人々が歌い始めた。

 どこからか連れてこられた四人の人々。男女二名ずつ、素裸だ。

 自分の足で歩いているが、両脇を支えられて、やっとのこと、といったていである。

 ――薬で酩酊させられている? 肌の色とか髪の色……人種もまちまちのようだし……

 一糸まとわぬ裸身なのは儀式的なものだとしても、四人はほとんど意識がないように見えた。稀梢は、『生贄は神に捧げられる歓びにあふれてみずから祭壇に向かう』と聞いていたのだが。

 裸身のひとりが突然、大声を挙げた。

たすけてくれヘルプ!」

 英語だ。

 テパネカ人の言語は、ナワトル語、ケチュア語がいわゆる『公用語』で、義務教育ではこのふたつを教えている。このふたつの言語は、それを表記するための文字がなかったため、アルファベット表記で習うことになるし、仕事の必要性から簡単な英会話やスペイン語会話を習得する者はおおいが、いま、この状況で英語を話すとすれば英語ネイティブだろう。

 ――観光客を掠ったのか?

 たしかにテパネカ共和国では、年間百人程度、国境を接するタワンティン連合の人々を筆頭として、行方不明者が出る。うち、観光客は十名程度だ。

 相当数、事件化していない人もいるに違いないが、内戦後七年目の国とすれば、『安全な国』とは言えないまでも特別に問題視する人数ではなかった。

 すばやく四人に黒曜石の刃を持つ男たちが歩み寄り、見事な手際で胸を切り開き、心臓を抉り出す。

 朝日に四人の血が輝いた。

 いまだ痙攣するように脈打つ心臓のぬめりさえ、宝石のように美しく煌めいている。


 さあ、神の歌が降りてきた

 汝の家にて、高貴な鳥が語る

 あたらしき王よ

 汝の花が、咲いた


 歌は続いている。

 心臓が、そして命を失った身体が摺鉢の底に投げ入れられた。

 女の神官テオピシュキが、黒曜石のナイフで自分の舌を貫いた。

 ほとばしる血を、従者らしき少年が黒曜石の鉢に受け止める。

 サラダボウル程度はあるその鉢になみなみと溜まったその血を、従者は摺鉢の穴に注いだ。

 穴の底から、黒々としたもやが湧いてきた。

 ――あれは、なに?

 稀梢も儀式に参加していれば、なにか幻覚物質を取り込んで見ている幻なのかと思うところだが、稀梢はなにも飲んでいない。まわりに香などは焚かれているようすもない。

 ――摺鉢の底に穴は開いていなかったはずだ。

 このところの地震で罅くらいはいっているとしても、この煙はいったい、なんだ?


「あたらしき世界の王よ!」

  

 舌が傷ついてしゃべられぬ神官テオピシュキの代わりに、石のまわりに立つ女たちが呼ばわった。


「その肉をあらわすため、この女を捧げよう」

 祭壇に裸身の娘が横たえられた。


「クソ土塊テルーコめ」

 オリエが呻くように悪態をつく。

「生贄になるなんて、聴いてなかった。コカの手入れをするんだって言われてた。母さんが死んで、あたしひとりじゃ食べられなくて、でもあたしの村じゃ、なんにも仕事がなくて。このままじゃ金持ちのめかけになるか、キトで売春……出稼ぎするしかなかったから」

 シワトルの声はか細く、涙声になっていく。

土塊テルーコって?」

 鳳稀梢が首を傾げる。

「王国支持派のことなんだ」

 レオニードが答えた。そして続ける。

「いや、一般的にはそう言われてるけどちょっと違うかな。『祭祀堅持派』と言ったほうが正しい。国外に亡命した王家に政権を返還せよと主張する派閥から、それは望んでない派閥もあるからね。共和国支持派……というか、そんなに熱烈に共和国に共鳴していなくても、人間の生贄を絶対に行わねばならないとは考えていない、ちゃんと神様が満足してくださるんならいま、共和国が認めている祭祀で問題ないんじゃないかとなんとなく思ってる人からは、『土着の者』くらいの意味で『土塊テルーコ』って呼ばれてる」

「しかもあいつら、生贄のなり手が足りねえからって、その辺から掠ってきやがるんだよ。だから嫌われてるのさ」

 もともと生贄は『敵戦士』であることもおおい。アステカ王国成立時の中南米における戦国時代、スペインとの戦争、そのころには生贄は豊富に手に入っただろうが、いまはそのような戦闘が頻繁に起こる時代ではない。

「テルーコっていう言葉はもともとケチュア語で、最初はタワンティン連合の人々が言い出したことなんだ。ずっとまえからタワンティン連合とテパネカ王国との国境付近の村では行方不明になる人が多かったし、どうして行方不明になるか、だいたい見当もついていたから……ピシュタコに掠われた、とか行方不明者がピシュタコだったんだって、土着の妖怪の仕業に喩えられることもあるんだけどね」

 インカ帝国タワンティン・スウユを母体とするタワンティン連合も、行方不明者の存在を放置しているわけではなかったが、はっきりと証拠がある事件はほとんどなく、国家間の問題に発展させるのは困難だった。

「テパネカ王国時代は当然として、いまだって祭祀自体は禁止されてるわけじゃないから、むつかしいところなんだ。平日はキトの街でスーツを着込んで貿易事務やIT関係の会社勤めをして、休日は伝統の衣装とアクセサリーを身につけて、祭祀に参加する市民も多い。そういう状況だから、『土塊テルーコ』は共和国支持の市民と簡単に見分けもつかない。野山に隠れ住んでるわけでもないからね」

 テパネカ王国が陸軍セベント・アタカウカ将軍のクーデターによって王家を追い出し、共和国樹立を宣言したのは、十五年まえのことだ。

 八年間続いた内戦は、王国支持派の武装勢力の最大派閥が壊滅したことで終結。

 しかしながら国王支持派、レオニードの言によれば『祭祀堅持派』勢力は根強い。一応、三年前に憲法制定議会が招集され、つい昨年、憲法が制定されて議会制民主主義の体裁が整った。

 現共和国政府は軍事政権下にあった期間を含めてこの七年、掃討戦を含む軍事的圧力、都市民への人命尊重の教化、僻地民への経済的援助、幼年者の教育などをすこしずつ前に進めてきた。

 だが、どれも効果が出るには時間のかかる政策ゆえに、政府が成果を喧伝するほどには、めざましく進展しているとは言いがたい。

 そのため、いまだ古くからの祭祀は続いている。

 彼らは信じているのだ。

 人は神々の血潮によって生まれ、人々を養うためにその血を与え続けている太陽と大地は見返りとしての人の血を求めているということを。

 人は与えられ、そして与えられたものを還しているのだということを。

 それは自然科学的な合理性を超えた『実感』で、すなわち信仰の範疇の話である。

「私は残酷な人体解体を楽しみたいわけじゃない。そんなの、見飽きるほど見てきたからね」

 鳳稀梢は戯けた口調で、ぞっとしないことを言う。

土塊テルーコと言われる人たちの意図はさておきね、私は『古くからの祭祀』が観たかったんだ。『近代社会より前の社会』のありかたをね。彼らだってそれをすくなくとも『建前』として主張してるわけだし。だから、その建前が怪しくなるなら、近代国家の『人命尊重』の『建前』を出してきてもいいと私は解釈した。だから」

 鳳稀梢はここで一呼吸置いた。

「大回りして石の台座のちかくまで走っていってね、手榴弾を投げてみた」

 ボンッ

 なにかを投げる手真似をし、ちいさな爆発音の効果音とともに手のひらを拡げてみせる。

 シワトルが目を伏せ、背を丸めた。

 オリエは顔に手をあてて笑い、レオニードは一瞬、言葉を失う。

「混乱に乗じて彼女を台座から担ぎ上げて逃げてきた、というのでまあだいたいの話はおわりかな。運悪くなかなか車にも出会わなくて、あの小屋を見つけて彼女が正気付くまで寝かせてた。テパネカ共和国に来るまえにタワンティン連合に遊びに行って買ってあったTシャツだけ着せてね。ずいぶんきつい薬を飲まされてたみたいで、まる一日かかってようやく彼女の目が覚めたかな、ってところで、君が小屋に入ってきたから吃驚びっくりしたよ。結構、念入りに目くらましの魔法をかけてたから」

 鳳稀梢はレオニードを見て微笑んだ。

「その、『目くらましの魔法』ってのが分からないが、たしかに僕には最初、見えてなかった。オリエが『小屋がある』と教えててくれてたんでね、絶対、あるはずだ、と思って目を凝らしたら、急に『見えた』んだ」

「なるほど、術が効かなかったわけじゃないのか」

 鳳稀梢はオリエをちらりと見て、

「どうりで」

 と、なにごとか納得したように頷く。そして、

「ひとつ質問して良いかな?」

 稀梢がレオニードに尋ねた。

「どうぞ」

「あのひと、オリエ……と言ったと思うんだけど、彼が人間じゃないって、レオニードさんは知ってるの?」

 それを聴いて、レオニードは目をぱちくりさせる。

 オリエは「傑作だね」と、膝を叩いて大笑いした。「それを言うならあんたもじゃねえか」

「私のことはいいんだ。あとで話す。で、知ってるの?」

 レオニードは頷いた。

「知ってるよ。彼はピシュタコ……アンデスに古くからある伝承の妖怪……らしい」

 ひいい、とホテルの一室が悲鳴に満たされた。

「ピ、ピシュタコ! お化け!」

 シワトルが目を見開き、稀梢に縋りついた。

「え? オレ、シワトルちゃんになんにもしてないだろ? そりゃ、たしかにオレはピシュタコなんだけどさ!」

 むろん、その弁明は火に油を注ぐだけだ。

 さらに甲高い悲鳴があがった。



《アステカ詩句参考》

『アステカ王国の生贄と祭祀 血・花・笑・戦』岩崎賢 刀水書房

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