第7話

 オリエが乱暴に投げ出した足、ドスン、と響いた音と不機嫌な表情にシワトルがビクッと肩を震わせる。

 残念ながらオリエが威嚇したかった本来の相手、稀梢にはまったく響いていなかったが。

 レオニードが立ち上がり、気を利かせて、シワトルのそばまで行って続き部屋に入っておくように伝える。

 経緯がどうあろうと、シワトルには罪はないのだ。

「繰り返すけど、テパネカ共和国には観光で来たんだよ。せっかくなんで現地の習俗を見てみたいと思ってたんだけど、いまはそれを『見世物』にするのは禁止されてるっていうからどうしようかと思ってね」

 鳳稀梢のその言葉に、レオニードが溜息を吐く。

「鳳さんはひとつ、誤解している部分がある。テパネカ共和国は王国時代から続く祭祀行為の観光客への解放には積極的だ。観光は共和国の重要な外貨獲得手段だし、祭祀は目玉商品だ。ただし、政府のガイドラインに則った祭祀行為に限ってはいるけどね」

 テパネカ共和国の『祭祀行為』には、おおきく分類して二種類ある。

 特定の祭祀月に、健やかな子供の成長を願って我が子の手足を引っ張って伸ばす、とか、旅立つ人の安全を願って自分の耳や指を祭祀用のナイフで傷つけ、血を数滴、神々に捧げる、といった個人的な祭祀がひとつ。共感呪術、類感呪術などとも言うが、もっとも砕けた表現をするなら『おまじない』の類いである。キリスト教で聖者のメダルを身につけたり、十字を切ったり、神道で七五三のお参りに行ったり、正月に注連飾りを飾ったりするのもこれにあたる。

 そしてもうひとつが共同体で行う祭祀行為だ。

(個人と共同体の中間にあたる祭祀行為として、出生、葬送の儀礼がある)

 信仰対象に祈りを捧げることに対して、一定の場所と日に人々が集い、神官などの神と人の仲を取り持つ役割を担う者が、特別な儀式を行う。

 テパネカ共和国が観光客向けにPRしているのは、この共同体で行う祭祀行為だ。

 もちろんこれもまたおおくの国でも同じようなことは行われている。

 キリスト教ならクリスマスのミサ、仏教なら灌仏会かんぶつえ、盆踊りなども範疇にいれてよいだろう。このような祭祀は神域の管理者……司祭、神官、僧侶、神主などだ……が主催者となって行うこともあれば、国が主催者となり、国家の行事として行う場合もある。アステカ王国およびその後身のテパネカ王国では国家の行事だった。

 加えてアステカ王国やテパネカ王国では、この祭祀行為の一部として人身供犠が行われていた。

 人間の命を神々に捧げる、という点でショッキングではある。が、『共同体の安寧や豊穣を願って神に捧げ物をする』、という行為は現代においてもおおくの宗教で行っていることから、現代人が人身供犠に抱く忌まわしさを脇に置いておくなら、アステカのこれらの祭祀行為は『ごく平凡な』ものと言えるだろう。

 日常の宗教行事では人身供犠が行われなくなった共同体においても、橋や建物を建築するときの人柱は根強く残っていたような地域もある。

 すくなくとも、過去を視野にいれたなら人身供犠は世界的にも珍しくはない『平凡な行為』だ、ということは言える。


「まず、一番大切なことを伝えておくよ。鳳さん、ありがとうございます。あなたがシワトルさんを助けてくれなかったら、彼女は死んでいました」

 稀梢は曖昧な笑みを浮かべて、レオニードの礼を受け流した。

 彼の言いたいことはもうひとつあると、分かっているからだろう。

「共和国が成立したあと、祭祀における生贄は人間以外の動物を代わりにしないと祭祀行為自体が禁止されています。ただ、その『禁止』は、宗教活動として間違っているから禁止するんじゃない。近代以後、この南米大陸の人々が新しく接触したさまざまな概念……たとえば、『基本的人権』みたいなね……と対立する部分がある。どちらが善で、どちらが悪、という話ではないにもかかわらず、相容れない。共和国政府はこれまで考えられてきた宗教的な必要性や、信仰の表現方法の自由を一部、押さえつけてでも、新しい概念を尊重しよう、という方向に舵を切りました。それで人身供犠を禁止することにしたわけです。アステカの神々も変化していく人間の社会について理解してくれると期待してね。そこを分かって欲しい。興味本位や軽々しい気持ちで見物しようと思わないで欲しいんだ」

 祭祀行為としての人身供犠は、世界的にも平凡なものであるのは間違いない。

 歴史的経緯からこの国ではいまでも行われている、というのは、たしかに珍しくはあるが、事実だ。

 アステカ神教は、人間が誕生、成長するために、太陽や月、星々を司る神々の血を大地を通して受け取っていると考えている。受け取ったものは返さねばならない。でなければ、神々が弱り、世界が弱ってしまうと信じている。だからこそ、人の血を神々に捧げるのだ。

 共和国政府は、その根本にある教義に手を加えようとしている。

 テパネカでクーデタを起こし国王を追い出したセベント・アタカウカ将軍は、自身も敬虔なアステカ神教信者として知られる。彼は共和国に従った神官たちに、アステカの主神ウィツィロポチトリの御心に背かぬよう人身供犠を行わない新しい祭祀の在り方を議論させた。

 当然、これまでの祭祀を堅持すべきだという人々からの反発はおおきく、新しい祭祀の制定に携わった六人の神官たちのうち、四人はすでに暗殺されている。

 それでも政府はあともどりはしなかった。把握している限りの祭祀について、人間が生贄に使われていないか監視し、政府の方針に従わない祭祀は軍隊を投入して取り締まってもいる。

 一般の国民だけでなく、観光客も政府非公認の祭祀へ参加したのが発覚したら、逮捕もされる。

 しかしテパネカ共和国は七年前まで内戦状態だった。

 都市部はともかく、正直なところ山岳部の監視は行き届いていない。

 加えて、政府が禁止しているのは祭祀行為における人身供犠の部分だけなので、国民の習俗すべてを取り締まっているわけではない。

 海外のTVドラマやファッションの普及から、鼻飾りを日常的に身につけ、ボディペインティングを行う人々は減ってきているし、防寒的な意味からテノチティトランを首都にしていたころとは民族衣装にも変化が起きてはいる。

 しかし民族的伝統を大切にしている国民は若者を含めて、いまでもおおく、祭祀への参加にも熱心だ。

 その祭祀への参加について、政府が認めたほうに参加するか、そうではないほうに参加するか……国民ひとりひとりの心を覗いて、選別することができない以上、地道に教化していくしかないのが現状だった。

「僕だって聖人君子ではないけれど、鳳さんが見たかったというこの国の祭祀行為……なぜ見たかったのか、いちど立ち止まって考えて欲しい。文化的に『遅れた』人々の『野蛮な』あるいは『素朴な』宗教活動を見物したかったとか、自身の残酷趣味を満足させたかったのではないか、とかね。もし、そうじゃないなら、政府の公認している祭祀でも、充分、興味深いものであることは保証するよ」

 レオニードはそこまで言って、ふと息を吐き、頭を下げた。

「分かってる。僕のこんな物言いは、ある種の傲慢だってこともね。済まない」

 稀梢は静かに首を横に振った。

「あなたの言うとおりですよ。レオニードさん。『興味がある』それで踏み込んで良い場所と、駄目な場所があることを分かっているつもりでも、好奇心に勝てなかった。私はこの国が『端境はざかい』にあると思っています。私の国でもかつて、人身供犠は行われていました。三千年前、王は祭祀において何人の羌族きょうぞくを犠牲に捧げるかを、占っていました。清浄な処女の腹を割いてその歳の豊凶を占ったり、祖神の目を楽しませるために焼けた銅のうえを生贄に裸足で歩かせた記録が残っています。けれどそういった祭祀が行われていた時代から千数百年後には、それらを行った王が暴君であった、という『物語』としてそれらの祭祀は『書き直され』ました。そのときには『神に人の命を捧げる』という行為は神聖なものであるとは理解されなくなっていたわけです。いつ、なぜ、どうしてそんな『断絶』が起きたのか。祀る神が変わったのか。人の意識のなにが変わったのか。私はこの国を記録すれば、そういう変化のひとつの形が見られると思いました。済みません」

 静かで、落ち着いた口調だった。真摯であるのは間違いないが、悔悟の念を感じない。悪いとは分かっている、でも、自分はそこに踏み込まざるを得ないのだ、謝罪の背後に、そんな意思が透けている。

 東方人はどちらかというと感情が表情や口調に乗らないか、感情を表現するのにわざとらしすぎることが多いが、これだけ「口先だけ」に聞こえる反省の弁も珍しい。

「どうやら、鳳さんは僕と同類らしい」

 レオニードが苦笑した。

「興味本位で、『進んだ文化』の視点から、『遅れた文化』をのぞき見する……そんなつもりでいるんじゃないかと、自分の動機を疑いながら、僕もまた、『民俗』を記録しています」

「私にとっては、記録は習い性のようなものです。長い間そういう仕事についていたので」

 稀梢が曖昧に微笑んだ。

 さきほどまでの笑みとは違う、どことなく本心の覗くような表情だ。

「とはいえ、私はあまり出来のいい記録者ではありませんでしたが」

 レオニードと稀梢の会話を横目に見ながら……大人ひとり横になっても充分くつろげるソファにだらしなく横たわり、ふわあ、とオリエがひとつあくびをした。

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