第2話
――右だよ、ほら、あそこの小屋。
オリエはそう言った――はずだ。
レオニードは荒い息で目を凝らすが、目がくらんだようになってよく見えない。
うしろに残って
朦朧とする。吸っても吸っても息が苦しい。
頭の芯を錐で突かれるような痛みがあって、集中できない。
高山病の症状が出ている。すぐに応急処置しなければ予後が悪い。応急処置? なにをすればいいのだったか? 背に負うリュックには簡易の酸素吸入器と山酔い用のアセタゾラミド薬が入っている。
――小屋で、薬を飲む。吐くかも知れない。酸素吸入器を準備して――準備の手順は大丈夫か? マスクを広げ口と鼻に当てて噴射ボタンを押す。
できるだろうか?
もうたいぶ脳に酸素が回っていない。
高山病を発症していると、いつもなら間違えないようなことを間違う。
たとえば、「赤いボタンを押す」と書いてある文章が理解できず、青いボタンを押してしまうような。
あるいは、毎日やっているような動作……蛇口を右に回して水を出すつもりが、左に回している。
ミスをしないために本当なら応急処置の介助者が必要だ。介助者? オリエがいるから大丈夫。いや、なにを馬鹿なことを。彼はいまはいない。うしろで追っ手を防いでくれている。彼は頼れない。いまはひとりでやらねばならない……できるのか? いや、できる、できないではない。やらなければいけない。
不安に胸が苦しくなった、そのときだ。
ゴゴゴ、と遠くから地鳴りがして、ぐらぐらと地面が揺れた。
――これは、僕が揺れてるのか? それとも地面が本当に揺れてる?
ゴトゴトッとなにかが動く音がする。
切り立った崖に囲まれたようなこの場所で、土津波が起こるのはぞっとしないが、いまのレオニードにはそんな心配をするだけの余力はなかった。
揺れはすぐに治まった。
――揺れていたのは、地面か。
最近、アンデスのこのあたりでは地震がおおい。
地震がおさまったことに安堵しつつ、オリエが言っていた建物を探す。
――小屋があるって? どこに?
武装した
だが、見当たらない。
――オリエが言うんだ、あるはずなんだ。彼は目が良い。
これまでにもずっと、彼には助けてもらってきた。
藪に潜む毒蛇、動物を狩るための仕掛け罠、雨期には沼になる草地、誤解から住民に絡まれること。
オリエは『気配』に敏感だ。
――彼があると言えば、あるはずだ。そう、たしかさっき、ゴトゴトと音がしていた。あの音は、なんだ?
なにか重いものが動く音。
あの音は、最近、よく聞く。
焦りを抑えて、もういちど見渡すと、あった。
灌木に小屋の下の方は隠されていて多少はわかりにくくなっているが、木組みの屋根も石積みの壁も、朝日を浴びてしっかりと見える。
石組みの小屋。
インカ様式の建築物は壁を漆喰で固めていないために、地震があれば『石が躍る』。が、崩れることはほとんどない。ゴトゴトというさきほどの音はこの小屋の壁の『石が躍った』音だろう。
――アンデスでは、インカ様式の建物はまだまだ現役だ。地震のたびにあちこちで聞く音だ……
なぜ? なぜさっきは見えなかった?
こんな、目の前にある建物が。
高山病、相当酷いのか?
高山病は病状が悪化すると幻覚を見ることもある。
だがいまのレオニードに原因を究明する余裕はなかった。
ふらつく足に力を込めて、小屋の木製のドアを開ける。
鍵もかかっていない――
小屋に入ると、一気に視界が闇に閉ざされる。外が明るく、小屋のなかには明かりがないせいだ。
「――だれ? どうやって入ってきた?」
左肩を抱かれるように、レオニードの背後から腕が回される。
ケチュア語でしゃべっているが、ずいぶん聞き取りにくい。
レオニードのリュックの下、腰のところになにか堅いものが突きつけられている。
――銃か? ナイフ?
小屋の先客が背後にいる。
状況を説明したかったが頭が割れそうに痛い。
「オリエ、助けて……酸素吸入器と薬が――」
レオニードは床に倒れこんだ。
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