第6話
六
「江雪斎」
「はっ、…――」
縁の影となる苔の揃う地下に膝を付き、頭を垂れて控える江雪斎に氏政が視線を向ける。
隠れ住む座敷より歩み出て、視線を無言で向ける氏政に。
声も無く頭を垂れたままの江雪斎をしずかに見下ろし、淡く微かに一言問い掛ける。
「氏照の最期は、どのようなものであったか」
問う氏政のしずかな白い面持ちに、江雪斎がさらに深く頭を下げる。
「はっ、…陸奥守殿は、…―――」
立ち尽くしたまま、視線を江雪斎に与え、言葉を無くしたように氏照の最期を語る声に、しずかに氏政は瞳を閉じていた。
白装束に着替え、香を焚き見苦しくないよう身を整え。
静かに座して刻を待っていた氏政は、同じく本日腹を召すこととなる弟氏照が、似合わぬ白装束に身を包み、磊落に笑んで現れたのに眉を潜ませた。
「…如何した、氏照」
「兄者、本日我らこのような仕儀にあいなりましたが」
向き直り座を正す氏政に、その前に胡坐を組んで、明るい黒瞳で兄の肩を氏照が叩く。
「わしが不甲斐無いばかりに、すまぬ、氏照」
幾らか氏政よりも体格の良い北条きっての武将でもある氏照が、大きく兄の肩を叩いて笑う。
「そういうたものではない。我等も、兄者に武功を馳走できなんだ。…のう、兄者」
深く穏やかな氏照の笑みに、何かが、と問い掛けようとした氏政に。
「…――――っ、」
「すまぬ、兄者。…江雪斎、これで半刻ほどは持つ。急ぎ仕度せよ。毛筋程も兄者に傷を付けるな」
「…――――はっ、」
腹に拳を見舞い、意識を失わせて肩に凭れさせた兄氏政の身を軽くささえて。気を失っている白い貌をみて、太い笑みを口端に刷く。
「すまぬな、兄者。…さて、重臣達を集めてくれ。いまから切腹じゃ」
楽しげに云う氏照の腕から江雪斎が氏政を受け取る。忍びのもの達が運び出す為に氏政を菰に包むのを、面白そうに氏照が見て。
本日、氏政に殉じて戦を終わらせ城を開ける為に腹を召すことが決まっている重臣達が、呼び入れられてそのさまに絶句するのを楽しげに振り返る。
「…陸奥守殿、これはいかような、」
「騒ぐな。兄者を運び出す」
「…何と、…――」
居並ぶ重臣達がざわめく場に、控えていた氏規が蒼白い緊張を隠せぬ面持ちで歩み出る。
「氏規、始末をかける。おまえたち、兄者は徳川殿の元に落す。物好きにも徳川殿は、兄者を援けたいといわれてな。その話に乗ることにした」
硬い面持ちで色の無い氏規にあっさりと笑いかけ、氏照が一同を振り向き太く楽しげに笑む。
軽く笑むまま、一同重臣達を見廻して。
「秀吉のサルには、偽首を渡す。手配は出来ている。兄者は知らん。このまま知らせずに徳川の元に落ちて頂く。そして、我等はこの場で切腹し、首を差出して兄者が落ちるのをお助けする」
楽しげにいうと一同を見渡す氏照に、重臣の一人が感嘆して目を輝かせる。
「うむ、何とそれは」
「いかにも、いかにも、…我等が首で御本城様の身を御護りする馳走となりますか」
「…吾等、いかにもこ度の戦では、碌に戦働きもできず、退屈しておった処だ。此処でこのような派手やかな働きができようとは」
「誠、まこと、重畳でござる」
「…何とも、…陸奥守殿、吾等にそのような働き場を御造り頂き、誠に感謝致す」
一同がいかにもこれで働き処を得たと、笑みを零して晴れやかな面持ちとなるのに、氏照が莞爾と頷く。
「うむ。わしも、良い働き処を得たと思うておる。この度は、このような仕儀と相成ったが、いかにも兄者が生き延びてくだされば、吾等が働きも甲斐があるというものよ。…そなたらにいままで隠していたのはすまなんだ。だが、この秘事はいまこの場におるもの達しかしらぬ。氏直殿にも知らせぬこと。後の事は、この氏規と江雪斎、それに徳川殿に託してある」
暖かな笑みを口端に浮かべて、ゆったりと氏照が江雪斎をみる。
「では、頼んだぞ」
「御頼み申します」
「御本城様を御無事に」
「お願いいたします」
「…――はっ、この江雪斎、命に代えましても」
仕度を終えた江雪斎が、氏政を頼む重臣達、それに氏照に頭を垂れる。氏政を護りながら引き退く姿を、氏照がしずかに見送って。
「さて、吾等が最期の一仕事じゃ、…氏規、手数を掛ける」
深い笑みを氏照が介錯をすることとなる氏規の強張る顔に向けて。張りのある声でいうのが、江雪斎の背にも届いていた。
「…――御立派な御最期でございました」
頭を垂れる江雪斎に、氏政が身動きひとつせず最後まで聞き終えて。しずかに深く息を吐き、微かにその瞳をあけて江雪斎を見る。
「…氏規には、辛いことをさせたな。…」
「…御本城様、…――」
ふと微かに漏らす氏政の言葉に、江雪斎が声を失う。
それに、しずかに視線を向けて。
「わしはもう本城ではない。…――」
いうと、すいと身を押さえてその場に座す。
「…ひとつ聞く。江雪斎、わしの首の身替わりに立ったものは、まさかに誰ぞを仕立てたのではあるまいな?」
「は、…―――いえ、滅相もございません。既に死んでいたものを用意いたしました。失礼ではございますが、顔に化粧をして、…――」
鋭く問う氏政に、緊張して江雪斎が応える。
「ならばよい。…」
暫しそうして、言葉を発せぬ氏政に、江雪斎が動かぬまま胸苦しく待つそこへ。
低く氏政が重臣達の名をくちにするのを、江雪斎は目を瞠りきいていた。
「…それらに、わしは後に立つものを取り立ててやることも、何も出来ぬ。…―」
「…御本城様、…――」
面を上げ、思わずもくちにしてしまってから、江雪斎が慌てて頭を下げるのに氏政が視線を向ける。
「わしは、その者達に何もしてやれぬ。…」
「…御本城様!氏照様も申しておりました!共に散りました重臣の方達も、御命を、お願いでございます!無駄にせずにくださいませ…!」
思わずも必死に声を押さえながらも顔を向けて、氏政を見て云う江雪斎に。
氏政が、ぽつりと呟く。
「…無駄にせぬようにせよと」
「…は、僭越ながら、…―――氏照様も、重臣の方々も、御本城様を御救い致す為に、命を散らしました。…お願いでございます、御辛い事とは思いますが、生き延びられて」
「何をせよという。わしは、…――北条を再び興しはせぬぞ。それは氏直のすることじゃ。わしは、―――」
「よいのです!御本城様が御命永らえてくだされば、それで、…――」
悲痛に声を絞る江雪斎に。
うすく苦笑をして、氏政が云う。
「…わしに、永らえよと申すか」
淡々と問う氏政に、江雪斎がおもわず顔をあげて、その白い面をみる。
しずかに端然と何事かを想い、瞳を伏せる氏政の白い貌を。
「…―――御本城様、…」
「出家する」
江雪斎が瞬いて氏政を見る。
短く云い捨て、氏政が江雪斎をみる。
「出家して、僧となるとのことだ。江雪斎、教えよ」
「…は、かしこまりまして」
頭をさげ、くちを一つ結んで江雪斎が何処かうれしげにひとつうなずく。それに、遠く山々の青い様を眺めて。
命を賭けて我が身を守った重臣達の残された家の者達に、加増をすることも、残された者を取り立てることもすでに出来ぬ己を自嘲しながら、遠く青い山々を眺めて。
「家康は、わしに関八州の民を護る為の手を貸せというてきた」
「…―――殿」
呟くように云う氏政に、目を輝かせて江雪斎がみあげるのを。
知らずに、氏政は遠い青い山々に遥かに行き何もしてやれぬ者達の名と姿を想いながら、言葉にしていた。
「わしは最早影となり、この身のある限り、この国の民達を護る為に生きよう。…なれば、幾らか、無駄にせぬといえるか」
淡く問うともなくくちにする氏政の声に、江雪斎が頭を垂れる。
「勿論でございます。氏照様も、重臣方も、御喜びになりましょう」
涙を隠す為に俯く江雪斎の声に、氏政もまた天を仰ぐ。
山脈は青々と天の下に続き、風は遠くから懐かしい地の便りを運んでくる。
しずかな山脈の青いさまは、戦に流れた血も騒がしさもしらず、唯堂々と聳えてある。
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