第7話

 七



 氏政の居る離れには、誰も容易には近付けないようになっている。

この日、本多正信が氏政に呼ばれて姿を現したのは、殆ど何も要求しない氏政が珍しく近侍のものを通して訊ねた故となる。

「御呼びとのこと、…遅くなりまして申訳もございませぬ。本多正信でございます」

座敷の中と外を区切る縁側に膝を付き、頭を垂れて名乗る正信に、短く中より声が届く。

「よく来られた、入れ」

短く声が掛けられる。薄く日を遮り陰となる座敷の奥から良く響く声が届き、正信は恐縮する体を装いながら、中に歩を進めていた。

 ふと、足を進める内に薄明かりの中に座る氏政の姿を目にして慌てて視線を下げる。何に己が動揺したのかもわからぬまま、正信が直接氏政を見ぬようにしながら、視線を板敷きの磨かれた木目に当てながら、己の驚きを押さえようとしていると。

 薄闇に良く響く声で、氏政が正信に声を掛ける。

「かまわぬ、面をあげよ。そのままでは話しにくい」

その声に恐縮しながら、躊躇いつつ正信が面をあげる。

 端然と座す氏政の容貌が、既にこの地へ運ばれた際とは異なり、得度したものと同じく髪を既になくしていることに正信が何ともいえない表情になる。

「どうした」

短い氏政の問いに何故か額に汗が落ちるのを憶えながら、正信が膝に手を揃え困り果てながら何とか応える。

「いえ、…その、おぐしを、…既に剃っておられるとは、知りませなんだ」

閊えながらもなんとかくちにする正信に、感心の薄い視線を氏政が送る。

「江雪斎に剃らせた。聞いてはおらなんだか。坊主にすると聞いておるのでな。まずかったか?」

正信の動揺をみてか、幾らか楽しげに笑んでみせて、何処かからかうようにいう氏政に驚いて応える。

「いえ、まさか、…。知りませんでしたが、構いませぬかと、…いえ、そのですな、…」

どうにも動揺の隠せぬ正信を、氏政が僅かに首を傾げてみる。

「すまぬな。おぬしかたれかにいうておくべきであったか。家康に計る必要があったか?」

少しばかり微笑んで訊く氏政に、正信が首を竦めて何と答えたものかと冷汗を掻く。

「…そ、それがしには解りかねまする。…殿は、…」

「家康が、どうした」

鷹揚に訊く氏政の声に、声を張らずとも良く響くその声に正信が降参する。

 どこか面白がっているのがわかる氏政の声に。

「――…御存じの通り、…我が殿は、どうにも、…気に入っておられたようで、…御髪を、その、…――」

「おぬしも苦労するな、佐渡守殿」

「は、その、…それは、…――」

氏政に佐渡守殿と呼ばれ、正信が汗を掻く。当然ながら、氏政の元の身分からすれば、そのようにへりくだる呼び方をされては、正信の居心地が非常に悪い。

「…そのように、御呼びいただかなくとも、…いえ、そのですな、…―――」

言葉をどう選ぶべきか、いかにも困り果てて云う正信に氏政が軽く笑う。

 鷹揚に気楽に微笑んでみせる氏政に、正信がふと冷汗を忘れて目を見張る。

 それに、ふと呼吸をあわせたように。

「では、本多殿」

「…――当家には本多は二人おりまして、…ま、正信でよろしゅうございます」

正確にいえば、二人処ではないのだが。それまではいえず、汗を掻いている正信に氏政が云う。

「では、正信殿」

「…――はっ、」

殿をつけるのをやめていただきたい、とはいえず、恐縮しながら正信が困り果てているのに。それ以上は正信の様子に構わず、氏政が淡々と云う。

「では、この場におぬしを呼び立てた用じゃ。すまぬな、正信殿、わしの勝手で呼び立てて」

「…――――はっ、その、…。いえ、まったく大丈夫でございます。で、で、その、何の御用でございましょうか?」

氏政が丁寧に問うだけ冷汗が増していく正信であるが、その様子には構わぬことにしたのだろう。

 氏政がすらりと問う。

「聞きにくいことを聞きたい。おぬしが言い難いことじゃ。…家康は、室と嫡男を切ることとなったというた。わしもそのことは聞いてはおったが、何故そのような仕儀と相成ったか、家臣であるおぬしは存じておるか」

「…――――」

正信が珍しく氏政を正面から見返して凍りついたようにして蒼くなる。否、目線は確かに当ててはいるが、何もみえてはおらぬようにして身を固める。

 しばし、この徳川に策士正信ありと云われた論客としても知られる正信が、言葉も無く唯々蒼く顔色を変じて動けずにあるさまを、氏政が見る。

 正信が漸くくちを開けるようになるまで、どれだけか。

 気付けば、氏政の許を訪ってより、縁側に射す日の影が長くなっている。

 夕の黄昏が近付く庭を、眺める氏政の貌を、不意に正気に返った正信がみてうろたえてくちを噤んでいた。

 拳を思わずも膝に当て衣を握るようにして。

「…も、申し訳も、…――‐何故、そのような御話をお聞きになりたいのですかな」

漸く正気に返って舌が動くようになった正信だが。その舌もまた凍りつくような問いを氏政がするのに、息を止めていた。

「わしを何故救いたいかときくに、家康が三人、これまでに間に合わずに後悔しておるといっていてな。一人は信長公、そして、いま一人は家康が室、築山殿。それに嫡男であると」

「…――そ、それは、さ、さようでございますか」

俯いて蒼い顔色がさらに蒼白く、いや蒼黒く変じていきそうな正信を眺めて、氏政が訊ねる。

「何故、あれがわしを助けるなどと、これ以上もない無茶をしたのか、知りたいと思うてな。…そなたも、この時勢にわしをこのように匿うことが、無理無体という以上であると思うておろう」

穏やかに問う氏政の声に、俯いた頭をあげられず、正信が冷汗を痩せ細るほどにだくだくと流しながら。

「…そのような、…――そのようなことは、思うてはおりませ、…ぬ、我が殿が、そのように申しておりましたか」

崩れるように正信ががくりと片手を膝に付き、肩を落とすのに氏政が視線を向ける。

 その無言の問いを下げた頭に受けながら、声を絞るようにして正信が応える。

「…子細は、ごめんあって、…―――それがしのくちからは申されませぬ。…唯、我等家臣は皆、我が殿にそれが事に関して、負い目を負うておりまする。…これ以上は、伏してお願い奉りいたします。…どうか、殿にもそれ以上は御尋ねにならぬよう、…―――――」

「訊くな、と申すか」

穏やかに問う氏政に、頭を垂れたまま動けず汗を絞りつつ正信が答える。

「…お忘れください、…――」

「わかった」

淡々と氏政が肯うのに、正信が驚いて面を上げる。視線に正面から氏政を捉えて、動揺してまた頭を下げようとする正信に。

「よい、そのままでいよ。わしがどうやら無体を申したようじゃ。…だがの、そなたも気付いてはおろうが」

「…――は、」

凍りついたように顔色の悪いまま氏政を見る正信に。

「あれの無茶は、その傷が癒えぬ故よ。…わかっておろうが」

「…――は、」

驚きながら、視線を伏せ氏政の良く通る声が、穏やかに痛みとも何ともいえぬ、労わりを含むことに気付いて正信が動揺する。

 その労わりは、いま目の前にいる正信にも、また主、家康にも向けられていると本能で解り、そのことがさらに正信の動揺を誘っていた。

 穏やかに諭すように言葉にするのは、既に高僧の声とも聞える。

 得度はまだ、なさっておられるはずもない、が…。

 髪を落し、江雪斎に剃らせたとはいえ、衣もいまだ法衣ではない。しかし、その染み入る声に正信が内心の動揺を消せないままに聞き入ってしまう。

「事情を話せぬこと、良く解った。で、あれば、おぬし」

「…は、」

「おぬしら家臣達が、良く護るようにせよ」

「…――――さ、…いえ、」

氏政の言葉に思わずも相模守殿、と呼び掛けてつまる正信に、さらりと氏政が。

「確か、天海か、そう呼べばよかろう」

「…―――天海、僧正殿、」

素性を誰にも悟らせぬ為には、けして相模守などとは呼ぶ訳にはいかず、それにどうしたものかと困る正信に簡単に氏政は告げたものだが。

 それに対して正信が選んだ呼称に、氏政が当惑して眉を寄せる。

「僧正と?いかにして、…―――どのようにして、位を取らせるつもりだ」

あきれて思わずもくちにする氏政に正信が頭を下げる。

「それは、…もう決まっておりまして、…――殿の命で、僧正の位にということになっております」

この話題にどうやら漸く常の弁舌を取り戻していう本多正信にあきれたまま氏政が。

「天海僧正か。…」

「は、南光坊天海僧正とお名乗り頂くことと決まっております」

その正信にあきれに氏政が置く視線を受けてひとつうなずき、正信が。

「近日に御衣等も届けさせます」

「門前に経を聞いたことならあるが、…。そなたもまた、無茶を止めぬか?」

眉を寄せて問う氏政に正信が頭を下げたままにあっさりと。

「この程度でございましたら、難という訳でもございませぬ。我が殿が寄付をしております神社仏閣は京にも比叡山、或いは鎌倉にと、幾つもございます故」

「無理ではないか」

「はい、無理ではございませぬ」

「しかしな、だからと云うて、法門を叩いたこともない無頼の輩に僧正とは」

僧にするにしても、いきなり僧正というのは遣りすぎではないかと問う氏政に正信が一つ大きく頷いてみせて。

「この場合、確かに無茶ではございますが、…。位階が高いほど、余計な口を申すものが減るという効用もございまして」

「…ふむ。わしの身分を探らせぬ為に、先に位で威圧して語るくちを黙らせようと?」

「…そのような、…こと、でございます」

「要は、わしが新たに物好きにも家康が抱えた囲い者ではないかと、その詮索を避ける為であろう」

「…―――さ、…て、天海僧正どの、」

氏政の指摘に正信が絶句する。

 その蒼白い貌から赤黒くなる変わりように、同情したように氏政が云う。

「身体に悪いぞ?正信殿。あまり我慢されぬがよかろう。いかにしても、その噂を打ち消す訳にもいくまいからの。わしが姿をみせれば、このようなものを相手にいかに家康が物好きでも、そのような噂は消えようが、わしが姿をみせる訳にはいかぬからの。困った噂が流れておろう。家康もそなた達も災難じゃ」

幾らか楽しげに微笑むと云う氏政に、正信が額の汗を拭く。

「離れに誰ぞ匿っておるのは、噂になっておろう。誰と告げる訳にもいかぬが、それが旅の高僧とでもいうことにしておけば、幾らかおぬし達の主の評判も落ちずに済むか」

楽しげに面白げに云う氏政に、正信が視線を他所に向けて、つるりと掻いていない汗を拭く。

「それもこれもな、正信殿」

「…――――は、」

思わずも氏政の声の調子に振り向いて、穏やかに黒瞳が語るさまを見詰めてしまう。

「あれが無茶をして我を救おうと思い詰めたからのものよ。…―――頼みがある」

不意に言葉を切り、深い黒瞳が正信を見つめるのに息を呑む。

「邪魔になれば、我を切れ」

「…――――」

電撃に打たれたように、言葉を無くし正信が氏政をみる。

 否、見詰めて縛られたように動けずに、他に選択肢もなく声無く見詰める正信に。

「約束したぞ?…正信」

薄く微笑んで穏やかな黒瞳で告げる氏政の微かに首を振り、退去を促すのに無言でいつのまにか正信は操られるように頭を下げていた。

 氏政が奥に下がる気配がきこえても、正信は動けずに座に縛られていた。

 ―――この御方は、…――――。

「…勿論で、…ございます、…―――」

徳川の為であれば、氏政を切るのは当然のこと。

 なれど、…これは、…―――。

わしには切れぬかもしれぬ、と。

いつまでも頭を垂れて動けぬまま、強張った表情のままで正信はおもっていた。

 徳川の邪魔になるようであれば、我が身を切れという。

その端然とした誇り高い声に、深い、…―哀しみとも憐れとも、それは、…―――。

 殿の、ことを、…。思いやられて、と。

気付いて本多正信は面を上げ、氏政の消えた奥を凝視していた。片膝に手を付いた姿勢のまま動かずにおもう。

 ――殺させては、ならぬ。

 いままで、確かに殿の気まぐれと、思う処がまったくないわけではありませなんだが。

 警護を、秀吉方に悟られぬよう、より強固なものにせねば。

面に厳しい色を刷き、本多正信が思いを改める。

 一度、深く頭を垂れ、本多正信が氏政の許を退出する。




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