第5話

 五



「来たか、…!」

家康が闇に紛れて小屋に荷物を運び込む者達に鋭く視線を向ける。夜闇に紛れて数名が外れにある小屋に菰を被せて運び込む。板敷きの床に置かれて菰が僅かに外れ、黒髪と白い衣が零れ落ちる。

「…―――!」

氏政、と呼び掛けて拳の背を口許に当て、家康が視線を運び入れた人夫の傍に闇に控える江雪斎を見返る。

「…わたくしは、戻らなくてはなりませぬゆえ、…」

「わかった、大義」

は、と頭を垂れ、江雪斎が急ぎ音を立てぬようにして闇に紛れ急ぎ去って行く。それを暫し見送り、我に返って家康が菰を被せたままに床に横たえられた意識の無い氏政を見詰めて。

 その氏政が、僅かに身動ぐのがみえた。

「…人払いをしろ。警護を怠るな」

油断なく気配に耳を澄ませ、家康が四囲を計るようにして正信に云う。

「は、…かしこまりました」

頭を垂れ、視線を伏せて正信が板戸で仕切られた木小屋の外へ出て、油断なく視線を送り、この粗末な小屋を警護する忍びの者達の配置を確認する。

 闇に呑み込まれたように周囲は音も無くしんとしている。

 家康が恐れるように、そっと横たえられた氏政の傍に近付く。

 菰が外れ、露わになった白い死に装束の衣に落ちる黒髪に、色の無い面に思わずも家康が心配になり、手を伸べ掛ける。

 ――傷など、付けてはおるまいな?

「…―――…っ、…」

「目が醒めたか、」

死に装束の氏政の黒瞳が突然大きく開く。傍らに片膝を付き覗き込んでいる家康に戸惑うように見詰め返す。

 しばし、氏政が唯純粋に家康を見詰めて言葉が無いように。

肘をつかい身を起こす氏政に、茫然としたまま菰を払うのに手を貸してやりながら、慎重に息を詰めるようにして家康が見詰め返す。

「…――家康?」

「氏政、…―」

呟くように呼んで凝視して、氏政が戸惑い見つめる黒瞳に、息をひとつ呑んで。

 覚悟したように家康がくちにする。

背に手を当てて、身を起して戸惑う氏政の身を支えて顔を寄せて、もう一度一つ息を呑んで。

「…―――氏政、お主の身を攫わせた。江雪斎他、氏規等とも計ってしたことだ。お主の首の替わりに偽首を立てた」

「…―――――」

早口に小声で告げる家康をみて、氏政が沈黙する。

 そして、暫し。

「…――――何だと!貴様!家康!お主は何を考えておるのだ!」

大音声で叫ぶ氏政の口許を押さえて、家康が暴れようとするのを抑えながら小声で云う。

「…声を押さえろ!いま此処でお主が此処にいるのがばれてみろ!秀吉に小田原が焼き払われるぞ!当然わしの陣も同じ目に遭う!氏規や氏直、江雪斎、お主の家臣達も同じ目に遭うぞ!」

真剣に口許を押さえて身を腕に抱込めたまま睨むようにしていう家康に。

「―――…はなせ、」

口許を押さえられたまま、小声で睨み云う氏政に家康が手を離して云う。

「この周りは護らせている。だが、大声は困る。…わかったな?」

「…わかった、だが、何故このような真似を」

殺気が鋭く黒瞳に乗る氏政に油断無く見返しながら、僅かに肩を動かして家康が息を吐く。

「わからん!」

「…なんだと?」

眉を大きく寄せ強く睨みつける氏政に、横を向いて、大きく家康が息を吐く。氏政の肩に手を置いたまま、くちを大きく曲げて。

「わからん、いや、…わかってはいる」

まるで板戸の向うを見ようとでもいうように、睨むようにしている家康をみて、訝しげに氏政が眉を寄せる。

「何をいっておる?それにわしは、…。――偽首を立てた?」

呟くようにいって氏政がはたと繋がったように面を上げ、家康を黒瞳で凝視する。

「…なにを、した?…―――なにをいっておるのだ、…。わしは首を渡す為に切腹をしたのだ。…いや、するはずだった。…―――何をした?家康!」

叫ぼうとして思い至り、声を途中で掠れさせて途切れた氏政の凝視する黒瞳を振り返れずに、家康が早口で告げる。

 氏政の手が、床にふれ拳を握る。

「…お主の気を失わせて、秀吉には偽首を献上する。氏規と陸奥守と、江雪斎が知っている。他は知らん。我等が方では、正信と使いに使った忍びのもの数名だ。…」

「氏規、氏照に江雪斎と計って、…―――何をした?偽首を献上する?」

茫然と問う氏政を振り向かず、一つ大きく頷いて家康が続ける。

「…そうだ。秀吉を騙す。お主の顔はあのサルには知られておらん。氏規が証言すれば、…それで通じる」

氏政が再三の上洛を繰り延べて秀吉の面前に出たことがないのを利用して立てられた計画の一つを、口早に云う家康に氏政が疑うように僅かに眉を寄せる。

「…何故そのようなことをした、…。まて、それに」

氏政が聡く気付いたことを云わずに済めば、と祈るようにしながら荒く息を一つ吐いて、一気に家康はくちにしていた。

「氏照殿、…――陸奥守殿の顔は、対陣した諸将にも知れておる。…陸奥守殿は、腹を召された」

「…―――」

一気に云う家康の言葉も耳を素通りしたように、音のない氏政の反応に。動きのない氏政に、そっと家康が顔を覗う。

 振り向いて、まさに死人のように白い氏政の容貌に色がさらに抜け落ちるのを。

「…―――氏政、…」

そっと恐れるように呼ぶ家康の声も耳に届かぬように凍りついたようにして。

 息さえわすれているのではないかと思われる氏政の白い貌を見返す。

「…―――氏政、」

「…―――――――――…何を!きさま、…――-―!」

叫ぶ氏政のくちを塞いで、板床に押し倒し、家康が抗議に怒りに燃える氏政の黒瞳を見詰め返して、渾身の力で押さえつける。

 声にならない叫びに肩が大きく息で乱れ、無言で家康を怒りと恨みと声にならぬ叫びで見詰める氏政に。

 受け止めて涙を零しそうになりながら、家康が大声を出しいまにも暴れだそうという怒りを渾身に湛えた氏政を押さえる。

 目尻を赤くした家康の瞳から、ほろりと。

 ほろり、と涙が零れ落ちていた。

 無言で黒瞳でその家康を睨みつけながら、氏政が見上げる。

 漲る恨みと怒り、激しい張り裂けそうな怒りを受けて、家康が告げる。

「すまぬ、…。氏照殿の首は必要だった。秀吉が求めた二つの首、二つともが偽首という訳にはいかなんだのだ。陸奥守殿も、氏規殿も承知のことだ。お主を護る為に、氏照殿は切腹された」

「…―――氏照、…」

家康が手を外し伺う前で、氏政が茫然と弟の名をくちにする。

「源三、…―――何故、…」

「お主を守る為だ!」

茫然と呟いた氏政が、家康の言葉にきっと視線を上げる。

怒りに煌めく黒瞳で睨みつけ、激しい怒りを殺さずに、声を押さえる。

「…何故だ、そもそも何故、お主がこのような真似をする?われは北条の棟梁ぞ?相模守はわしじゃ。…そのわしが何故、弟氏照に腹を切らせ、のうのうと生き延びねばならんというのか、…!きさまは、」

「声が高い!…それはわかる、それはわかるが、…」

「わかるなら、何故そのような、…このような真似をするのだ!」

「いいか?だからそれは、…氏直殿は助命される!わしの娘婿でもあるからな、おそらく高野山に配流となるが、暫し我慢すれば恐らく下りられる!その後は名分も立てられるはずだ!…だから、」

「…――氏直、…いまはそのようなこと聞いてはおらん!何故、…なにゆえ、氏照に、源三に腹を切らせて、…わしをのうのうと生き延びさせるなどと!何故そのような真似をする!貴様は一体!」

激しく言い募る氏政を、きっと睨むようにして家康が振り向く。

「…死なせたくなかったのだ、…!」

突然、叫ぶように声を押さえながらも、涙を零れそうなまま隠さずに家康が氏政を睨むようにして云うのを。

 戸惑って氏政が見詰め返す。

「なに?…―――なにを、」

「…わるいか!お主を!…死なせたくなかったのだ、…!わしが!氏規も、江雪斎も、そして、氏照殿、陸奥守殿も、だからわしの話に乗ったのだ!…悪いか!」

開き直って声を押さえながらも叫んでいう家康に、駄々を捏ねるこどもを見るようにして氏政が一度瞬く。

「…――何を、…――――」

見返してつまる氏政に、家康が畳み掛ける。

「だからだ!…わしも、陸奥守殿も、お主を死なせたくなかったのだ、…!」

「…氏照、…――」

己の命を守る為に切腹したと知らされた弟氏照の名を呼ぶ氏政に、家康がその両手を取り握り締める。

「氏政!…お主を死なせたくなかったのだ、…!だから、生きてくれ!」

「…―――家康、きさま、…」

黒瞳が睨み返す怒りのさまを見詰め返し、家康が頼む。

「…わかっている、だが、…生きてくれ!」

「―――わかるなら、何故腹を切らせぬ!わしは、…―――氏照の命を引き換えになど、そのようなことで命を永らえるつもりはない!」

誇り高く強い黒瞳が凛と光を乗せて貫くように見返すのを、家康が受け止めて息を呑む。

 氏政の黒瞳の持つ力に撃ち抜かれたように動けずに。

 だが、それでも何とか言葉を絞り出して。

「わかっている!…――だが、わしだとて、…――――わしは、…お主に生きていてほしいのだ!」

「…―――」

無言で見返す氏政の黒瞳に、両手を強く握って。

「わかっている、だが、ともかく、…――‐」

言葉にならずにもどかしげに家康が氏政を見る。睨むように焦りにもどかしく、泣きそうに目尻を赤くしながら。

 ぐ、とくちをひとつ強情に結んで。

「…だから、だな、…―――」

言葉にしきれずに肩を大きく動かし、息を。

「…つまり、だから、…わしと、」

息を大きく吐いて、言葉を切る。

氏政が見つめる前で、泣くように息をひとつ吐いて。

「…わしと、ともに、…生きてくれ!氏政!」

叫ぶように一気にくちにした家康に、声も無く氏政が見返す。

両手をとられたまま、何をと以上声にならずに。

その氏政を見返して、言葉に出来ずに家康は氏政を両腕に強く抱き込んでいた。

「…氏政、…生きて、くれ、」

顔を死に装束の白い肩に埋めて、家康が途切れるようにくちにするのに。

 戸惑うように声を途切れさせ、氏政が問う。

「…なにを、いうのだ」

「無茶なのはわかっている。…お主に受け入れ難いのもな。…わかっているのだ、…!だが、死んでほしくない!生きていてほしいのだ、…!」

声を押さえながら叫ぶように潜る声で告げる家康に、茫然と黒瞳を彷徨わせながら氏政がくちを結ぶ。

「…―――いまだけおとなしくしておるというのもだめだぞ」

「…貴様な」

顔を埋めたまま呟くほどの声でいう家康に氏政が睨む。

それに漸く顔を上げて、家康が氏政を正面から見る。

「…氏政」

「何だ」

短く不機嫌にみて応える氏政に、家康が軽く微笑もうとする。

「…―――貴様な」

それに睨み返す氏政に、家康が苦いものを零して笑む。

「いや、…お主らしいと思ってな」

楽しそうにいう家康に氏政があきれたように息を吐く。

「何をわかった風なくちを」

正面から睨み返す氏政の黒瞳にうれしそうに笑んで、家康が不意に真顔になってくちにする。

「…わしは、信長公に間に合わなんだ」

「…――家康」

ふと、視線を穏やかに伏せていう家康に、氏政が見詰め返す。

その黒瞳から視線を外して、ふと穏やかなような自嘲の笑みを口端に浮かべて、家康が淡々と語る。

「わしは、信長公の死に間に合わなんだ。…口惜しいのよ。おぬしまでをも、あのサルの思い通りに、死なせたくはなかったのだ。意地だな」

氏政が迷惑そうに家康を睨み返す。

「意地で斯様な真似をするな」

怒りとあきれを隠さず鋭く云う氏政に家康が、ふと微笑む。

「気味が悪いぞ」

「わかっておる、…。だがな、すまぬが、わしの意地にお主は付き合わされたのだ。…すまぬな、氏政」

「何を勝手な、…――」

怒る氏政に家康が人懐こく笑んでみせる。

あぐらを掻いて、自嘲するように微笑んでみせて。

「――わしはな、室と息子を死なせた」

「…――家康」

幾らか痛ましいと思うのが氏政の視線に乗るのに、苦笑して横を向く。

「仕方の無いことであった。いきさつは聞いているか」

そして氏政をみて云う家康に、眉を寄せて氏政が。

「…聞いてはおる。が、…子細などは知らぬ。奥方は、今川から嫁いで来られた方であったな」

己の妻、武田から嫁ぎ、父氏康により離縁させられ、再び会い逢う前に儚くなっていた方を想い出し黒瞳を伏せる氏政に、家康がその前で息を吐く。

「…何ともならぬことによって、わしは室と息子を切らせたのだ。…信長公の死も、わしにはどうにもならなんだ」

逍遥と痛みとくるしく身を崩すあやうさを抱いて家康が遠く視線を送り苦く笑むのを、氏政が僅かに眉を寄せてみる。

「…――おぬし、」

問い掛けかけた氏政を見返り、家康が穏やかに痛むように笑む。

「…家康」

「もういやなのだ。抗いたくなった」

「…――貴様、」

その家康の言葉に怒りを閃かせる黒瞳に、笑んで家康が首を振る。

「わかっている、わしの我儘だ。だが、そのわしの我儘と、お主を生かしておきたいという氏照殿や氏規殿、それに江雪斎殿の想いが一致したのだ」

「…――きさま、」

怒りと嘆きに黒瞳を瞠りながらくちを結び睨むようにして。

 そうして無言で睨む氏政にいうでなく。

「…関八州を、わしに寄越すとあのサルはいうたぞ」

俯いてぼそりと云う家康に氏政が、はっと視線を向ける。

 驚きに瞠られる黒瞳に。

「もとの領地は召し上げ、お主が治めていた関八州を下さるそうだ。…―――氏政」

顔をあげ、淡々と家康が見返して云う。

「関八州の民を放置して、このまま死ぬるか?――…」

「…――なにを、」

動揺して見詰め返す氏政に、あっさりと。

「領民を見捨てるか。我らは、おぬしらの遣り方を知らぬ。このまま領地替えをされて入れば、混乱しよう。民が蜂起、反乱など起こさぬとも限らぬ。…そうすれば、われらもあのサルの思惑通り、その乱れを口実に取り潰されるか改易となるか、―――だが、さらに改易となってその後の民は、どのように扱われるかはわからんぞ?」

「…―――――――脅すのか」

黒瞳で睨み、短くいう氏政に。

「手を貸せというておるのだ。領民を守りたければ、生きて手を貸せ。お主の知恵を借りれば、どうにか乗り切れるかもしれぬ。秀吉の思惑は見え透いている。おぬし達が治めていた関八州をわしに褒美と寄越して、治められずに乱が起こるのを口実に潰す気なのだ」

冷淡にすらみえないこともない今後を計ってみせる家康に。

 無言で見返して、苦しそうに黒瞳を歪ませる氏政をみて、気を抜いたように家康が笑む。

「何を、…きさま、――――」

「民を想えば、手を貸すしかなかろう?ちがうか?」

軽く眉をあげてみせて、どこかあかるく家康がいうのに睨み返す。

「…きさま、―――」

気に食わなげに頬を動かして、何事かいいかけてくちを閉じて。その氏政をみながら、家康が楽しげに笑む。

「…―――きさま!」

小声で云う氏政に、笑み崩れて家康が云う。

「いや、すまんな。だが、おぬしの命は氏照殿からも預かったのだ。無駄にするな。…いまおぬしが命を絶てば、氏照殿の命も無駄にすることになるぞ」

淡々と云う家康に無言で睨み、氏政が口許を戦慄かせる。それに皮肉に笑み、軽く息を吐いて。

「関八州を、民を護ってくれ。それがおぬしの役目なのだろう?」

「…――――どうやって、生かすつもりだ。…」

ぼそり、とくちにした氏政に、家康が瞳を輝かせて、さらりと云う。

「坊主になってもらう」

「…――坊主にか?」

にやり、と笑んで家康が頷く。

「そう、坊主だ。その黒髪は勿体無いが、…―――」

「気味の悪いことをいうな…!」

家康の言葉に全身で拒否する氏政にのんびりと構えて。

「そうか?艶やかで黒くて綺麗な髪だろう。実に勿体無いと思うのだが、…。まあ、此処はしかたない、坊主にして、僧になってもらう。そうすれば、僧なら頭巾を被り法衣を着ておるものも多いだろう?顔を隠すこともできる」

「…―――貴様な、…。坊主か、しかし」

「読経の一つくらい適当に出来るだろう。経文の一つも書けないこともあるまい?後はそれらしくしておれば何とかなる。素姓の知れぬあやしい坊主は多いからな。わしの傍で、指南する坊主ということにすれば、他の者と接触が少なくとも何とかなる。しばらくは一人で動いてもらうことは出来ぬが、何れは旅等も可能になろう。高野山に氏直殿を見舞うことは無理だろうが、それも解かれて山を下りることが出来るようになれば、…―――」

「山中に」

「…―――氏政」

「山中、それに、…―――読経を上げに赴くことはできるか」

しずかにくちにする氏政の面持ちを真顔で見返し、家康が約束する。

「すぐには無理だ。だが、秀吉に関八州へ移されることになれば、その際にはすぐに供養をもとより行う心算だ。お主を一人でやることは出来ぬが、法要は必ず行わせる」

「…―――そうか」

魂のとられたひとのように、氏政が虚ろな面持ちで肯うのに家康が懸念する瞳でみる。

 山中に八王子城、…それに。

 それらは、小田原城を護る為に配置された支城であり、堅い護りの城は秀吉の命で力攻めとなり、凄惨な跡を残している。

「…―――おぬしが、城を開き切腹する決意をしたのは、それらの城の犠牲を、これ以上配下の者達に領民に生まぬ為、させぬ為だな」

哀悼と理解を染み入るような表情にみせて問う家康に氏政が視線を合わせず、闇の向こうをみる。

 その指が握られ、拳が形造られる。

 瞳を伏せ、浅く無念の息を吐く氏政の。

 その横顔に、なあ、と笑みかけて。

「なあ、生き延びるのは、楽なことばかりではないぞ?」

「…―――――」

無言で向こうを向いたままの氏政に微苦笑を漏らして。

「…楽ではない。重荷を負うて、遠く迄歩くようなものだ。…命終える方が、余程楽だぞ?」

「…―――家康」

薄く睨むようにして視線を振り向ける氏政に家康が笑う。

「…違うか。民の為に、犠牲になれ、氏政。読経をして亡くなった民を弔い、現世ではわしに力を貸して、ともにこの関八州の民を治めてくれ。お主の知恵があれば、そして、北条を知るおぬしがいれば、民を治めることもうまくいこう」

「…―――――」

無言の氏政についでさらりと云う。

「南光坊天海」

「…――何だと?」

訝しむように眉を寄せて聞き返す氏政に、家康が実に楽しげに笑んで応える。

「南の光で南光坊、天と海で天海よ。広やかな名前だろう?北の逆で南だが、あまねく光で照らし、この広い大地の天と海を治める名よ」

「…貴様はな、…」

あきれて物もいえない氏政を前に、楽しげにくつくつと。

「いや、すまん。…だがな、良い名だろう?おぬしには、天と海を照らす広やかな光として、その知恵をわしに貸してほしいのだ」

「そのような法名を、…―――宗派は何だ!」

「適当だ。江雪斎が教えてくれるだろう。ちゃんぽんで良いのではないか?宗派や教義を突かれてはたまらん。浄土宗だけは困るが、…――密教や何かを混ぜ込めばいい。一宗派だけで統一しては、本山や何かと探られても困るからな」

「つまり、流れ者のはぐれ僧者か」

眉を寄せて云う氏政に、家康が笑う。

「…―――そういうことだ、…。なあ、手を貸してくれ、氏政。わしは、関八州の何処に居城を構えればいいかすらわからんのだぞ?」

「…―――江戸、…」

「え、ど?それは何処だ?」

家康の言葉に思い出したように氏政が呟く。それに問い返す家康に。

「…わしが隠居してから造ろうと思っていた城のある場所だ。大田道灌が城を築いた場所よ。…――良いかもしれぬな」

「そのような場所があったのか。それはどのような」

「―――秀吉におぬしこのまま従うつもりか」

氏政の言葉に家康が沈黙して見詰め返す。

それに、応えを待たずに。

「…わしがあのサルに従えぬと思うたのは、…あやつの戦の仕様と、…あやつが明へと攻め込む気でいるのを、知っておるか」

「…氏政、…そのようなことは、聞き及んでいるが」

慎重に云う家康に氏政が頷く。

「江戸は荒れ地よ。湿地ばかりで暴れ川を付け変えねば、住むことも難しい土地よ」

「…そこに何故移ろうと思っていた?」

「河は水運となる。何より港がある。拓くことさえできれば、江戸は栄える。…」

「氏政」

己の考えに沈みながら、呟くように氏政がくちに。

「江戸は、…――だが、簡単に拓くことはできぬ。良いかもしれぬ、家康」

「…何がだ」

見返す家康にちかりと光る黒瞳で。

「秀吉はおぬしの力を削るつもりだ。江戸に居を構え、城を構え住めるようにするには、莫大な手間がいる、力がいる。そうして余力を残さぬようにすれば、…―――」

「…氏政?」

「明へ兵を入れぬ口実にできる」

黒瞳を輝かせて告げる氏政に、家康が息を呑む。

「そうか、…。痩せ地を開墾し、水運を付け変えるのは、一筋縄ではいかぬものだな」

「おそらく、子飼いの者達に手柄を立てさせたいはずだ。兵を打ち入らせ力を殺ぐことも目的としようがな。であれば、家康。おぬしが国替えで余力が無いと示せば、…」

「明へ入らずに済むか」

に、と笑んで瞳に煌々と光を乗せて家康が云うのに、氏政も強く頷く。

「関八州の民をそのような戦に送る訳にはいかぬ」

「やってみるか、…。江戸開拓か」

「由緒のある地だぞ。荒涼と湿地の広がる実に攻めにくい地よ」

浅く笑み確信を強く乗せる氏政の黒瞳に家康が瞬時見惚れる。ふいと、その黒瞳に魅せられてある己に気付いて笑んで。

「如何した?」

「いや、…」

機嫌悪くみる氏政に、応えずに笑んで。

 ――訳がわかった、と。

「いわぬか」

「いや、…死ぬなよ」

「…―――家康」

氏政の声に、視線をあげて見つめて笑む。

「ともに生きて、知恵を貸してくれ。ともに、この関八州を、日の本をおさめよう」

「…―――日の本はしらん」

氏政の言葉に、家康が目を丸くみひらいて。

 それから、くつくつと堪え切れずに笑い出す。

 身を二つに折って大声で笑うのを堪えて苦しそうにして笑んでいる家康をあきれて怒りながら氏政が眺める。

「…おぬしな」

あきれに接ぐ言葉もなく睨む氏政を前に、家康は安堵していた。

「…生きてくれるか、氏政」

「―――関八州をおぬしが護る限りは、危急を脱する迄は力を貸す。だが、その後のことは知らん」

「当面はそれで良い。危急を脱することができたら、その刻はまた口説く」

「…なにをいっておる!おぬしは!」

「天海、良い名だろう?おぬしにふさわしい広やかさだ」

「頭がおかしいのではないか?」

睨みながら問うてくる氏政に笑って。

「よかろうとも。でなくては、おぬしを救い出したりはせん」

「――頼んではおらぬぞ」

「わかっておる。わしの勝手だ」

ふわり、と笑顔になって家康が氏政をみて満足そうにしあわせそうにみてくるのに。

「…ばかなことを」

横を向き氏政が白く刺し染める朝日が戸板を透いて照らす先に眩しいというように目を細めるのを。

 涙をみせることを潔しとせず、くちびるを結び。

 白く照らされる横貌に、それでも伝う涙を、みられまいとするのを。

「わしは、戻らねばならぬ。…氏政、死ぬなよ?」

「…―――――」

言葉を返さぬ氏政をみて、家康が腰を上げる。暫し、佇んで白光に向き合い、言葉無く唯祈るようにもみえる氏政の姿を目蓋に焼き付けようとでもいうようにして。

 踵を返し、家康は小屋を後にしていた。

 小田原を囲む戦は、こうして北条氏政、氏照兄弟の切腹と重臣達の幾名かが同じく腹を詰めて決着となった。

 氏規が介錯を勤め、氏政の首とされる首と、氏照の首の二つは秀吉の前に差し出され、京へと運ばれ三条河原に晒されることとなる。



 小田原城は落ち、北条はその五代百年に渡る関八州を治めた名家は、こうして滅んだ。

 白々と明ける夜に、朝に射し染める天の広く晴れやかなもとを歩いて。

 家康は、遥かに行末のいまだわからぬ我が身を嗤って、一つ天を仰ぎ一歩を踏み出していた。

 楽ではなくとも、行かねばならぬ。

一歩一歩、遅くともその歩を踏み出せば道は生まれる。家康は背負うた荷を想いながら、その一歩をまた着実に踏み締めていく。

 一歩ずつ、踏み締めて。

そうして重い荷をおもいながら、ふと笑んでいた。

 この永い先の見えぬ道を。

 ともに、いましばらくだけといえども。

 もしかしたら、歩むことが適うのかもしれぬ、と。

 明るい笑みを刷いて家康は歩を進めていた。


 光はあかるく、家康の行く先を照らしている。














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