第4話

 四



「氏政を死なせるか!」

意地になったようにくちを結んで闇を睨んだまま背を向けていう家康に正信があきれたように眉を軽くあげる。

「そうおっしゃいますが、どのように?」

「…―――」

「殿の再三の説得にも、他の使者にも応じず此処まで来られたのは相模守の御意志が固いから、ということはご存知かと思いますが?」

皮肉にいう正信を背に、唸るように声を漏らして家康が立ち上がる。

「殿?」

「…うるさい!わしとて解っておる!解ってはおるが、…!何とも口惜しいのだ!あのさるめの思惑通り、氏政が、あの北条家がこうも簡単に滅ぶのが!それに最早理屈ではない!…あのばかで名家の誇りばかり高く、しかも、…あれだけ戦上手で信長公のときには時勢も読んで、臣従しようと豪華な贈り物までしていたものを!何故、同じことが秀吉相手にはできぬ!…愚かな、…ばかな!」

怒りと苛立ちのあまり歩きまわりながら、拳を握って苛立ちに振り、怒りと哀しみに最後は声もなくして、目尻を赤くしてつまる家康に。

 のんびりと、正信が言葉を挟む。

「つまり、殿は理屈にあわずとも、秀吉殿の御怒りを買おうとも、愚かで誇り高い上に大馬鹿の氏政公、相模守をお助けしたいと」

「…おい、正信、わしはそこまでけなしてはおらんぞ?」

思わずも振り向いて眉を寄せていう家康に正信が軽く眉をあげて、飄々とした面持ちでいってみせる。

「いうておりませぬか?しかし、もし御命を救ったことがばれましたら、大変な事になりまするぞ?」

御家の、と表情を消して見返す正信に、無言で家康が沈黙し向き直る。

 無言でいる内に、腹が据わったとでもいうように。

「…では、わしが愚かにも家を賭けて、あれの命を救いたいといったらどうする」

静かに穏やかな胆力を感じさせる面持ちで、逆に問い掛けてくる家康に、正信は淡々と正面に軽く頭を垂れて、さらりと云う。

「…構いませぬ。徳川の御家は、殿のもの。そして、我等はその臣でありますれば」

静かに逍遥として肯う正信の垂れた頭に、沈黙したまま家康がしばし動かずにある。

「わかった」

すいと座を移し、いままでの苛立ちと怒りが嘘のようにして、落ち着いた面持ちで家康が座に戻るのを、正信は頭を垂れたまま気配で知った。

 それに、家康が面をあげよと促す。

「…殿」

しずかに正信を見返す家康の落ち着いた面に、黒瞳の静かに落ち着いたさまに、正信が密かに息を呑む。

 軽く、家康が左手を床几において、かるくひとつ叩いてみせて。

「構わぬというか、…正信」

「はっ、」

頭を垂れる正信にあっさりと。

「では、手立てを考えよ。生かしておいたがばれて、家が潰れるのはわしも困る。だが、…―――」

「お救い、なさいますか」

そっと正信が仰ぎ見るのに、ひとつ確かに家康が頷く。

「救う。…これはわしの意地だ。のう、正信。わしは、間に合わんで後悔しておることが三つある」

「…―――殿」

思い至り沈黙して密かに冷たい汗を掻く正信を知ってかどうか。

穏やかに淡々と続けて。

「…中でも、信長公を御救いできなんだは、我が生涯最大の悔いの一つよ。…正信」

「…――はっ、」

冷汗に喉を上下させ、白く顔色を減じた正信を淡々と動かぬ瞳でみて、穏やかに家康が微笑む。

「これ以上悔いは増やしたくない。…わしは信長公には間に合わなんだ。…だから、意地よ。その意地に賭ける。方策を考えよ、正信」

「…――は、畏まりまして」

頭を下げ、汗を冷たく掻いて下がる本多正信の背を見送り、意地をいまさら貫こうとする己を微苦笑って、家康は闇夜に浮かぶ月をでもみるように、面をあげ天を仰いだ。

 無論、雲深く闇がしんしんと落ちるこの夜に、夜を照らす月光など望むべくもない。

 なれど。

 …―――わしも大概、無茶を云う。

苦笑して天を仰ぐのは、いかにも昔に負って癒えぬ傷であろうか。

――愚かで権高い女子であった。そうして、信康。

痛みと後悔と、それは悔いとしかいいようもない虚ろに胸底を侵す密やかな毒でもある。

 この毒に耽溺せずにおられるのは、単に信長公の御陰だ。

瞳を僅かに伏せて、自覚のある己の胸底に眠る毒を思い返す。

いまだ遠いとは思えぬ日に、家康はその正室築山殿と、嫡男信康を切腹させていた。

 今川の家より嫁いできた権高い誇り高い、愚かな女であった。けして、今川が織田に滅ぼされた後にも、織田の下風に立つことはできなんだ女であった。

 思い返すと虚ろな風が胸を抜けるのは、それでもそれなりに、あの愚かな権高い室を家康なりにいとおしく思っていたからでもある。

 嫡男に至っては、いわずもがな。

なれど、家臣達の諍いと武田の謀略にも踊らされ、あの刻の家康は彼らを統御する術を他に持たなかった。

 ――持ち出すのは、卑怯よな。

わかってはいる。家康にその正室だけでなく嫡男までをも切らせたことは、家臣達の負い目となって、いまもそれだけは普段持ち出さぬ家康が話を僅かに向けただけでも、いまの正信のように蒼白い顔を家臣達がおもしろいようにみせることにもなっているのだ。

 ――それを、持ち出す己も己よ。

いまだ亡くした妻と子の事さえも、こうしてある意味家臣を従わせる道具の一つとしている己が何とも苦い。

 微苦笑を零して想うのは、それをも従わせる一つの術として数えて手の内に持つ己と。

 ――氏政、北条の家は随分と珍しい結束よ。

幾らか羨ましくも想うのは、この戦国の世に一人足りと同族の内で争いを生まず、他家との争いのみで五代迄を生き延びてある北条のことだ。

 現当主氏直に至るまで、無論、実権を握る北条氏政を中心に、その兄弟達親子に至るまで、血で血を洗うこの世の中に、どうにも珍しい一族の結束と争いのない中に、関八州を見事に治める一族でもある。

 民の評判も、他国に聞えるものだけでなく、此処に来て戦におかれても、…――北条を慕いて背くものがおらぬ。

 氏政に、――習いたいものだ。

民を治め、戦を指揮し兄弟の多い一族を統べ、その一族の長として兄弟親族一党総てに敬われ、乱れがない。

 あそこまで固い城とは。

 小田原を護る支城との戦は凄惨なものとなった。

 力攻めを秀吉が命じた為もあるが、その戦に於いて領民が城主を慕い護ろうとした力の強さは、幾つもの報せに顕かであった。

 ――これは、秀吉はさらに氏政を生かしてはおくまいな、…。

戦においてこれほど慕われる領主というものは、生かしておけば恐らく豊臣の脅威となるだろうと。その計算を秀吉がするのがわかる。

 苦くおもう。

 ――これだけ強固に領主を慕う民の下では、滅ぼして後に入るものは苦しむことになるな。…

「…――――いかぬな」

自嘲する声が零れるのは、その考えの内にふと浮かぶ使い道、であろう。

 ――氏政を生かしておきたいと思うのは、我が意地だが。

だが、…――の。

みえる先を思うに、その氏政さえも、己と己の家が生き延びる為の策として利用することを考え付く己がいることが。

「――月は出ぬか」

闇を仰ぐのは、軽い自嘲を抱く己の胸中を、白く清かな月光に少しでも清めることが適わぬかとおもう故だが。

 家の為にも、氏政には生きてもらわねばならん。

それが生き抜く為と、意地の中にももしかしてあったかと。

見透かしてみれば、己の内に初めからそれが眠っていたとおもえて。

 苦笑して、天に明らかに夜が明けつつある兆をみながら、白く変じる夜を見詰める家康である。



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