6-1
「逢坂先生、どうかしましたか?」
女性教師と体調不良で倒れた女子生徒を乗せたタクシーを見送ると、校門前で新島先生がそう言った。
時刻は既に放課後となっており、校門には帰宅する生徒やランニングに出かける生徒達で溢れている。雨がやみ不要となった傘を振り回している男子生徒達の賑やかな声が聞こえた。
「いえ、蒼月さんが心配だっただけです。ただの、というのは不適切かもしれませんが貧血だけで済めばいいのにと」
「それならいいですが、今日はいつもと様子が違ったようでしたので」
以前にも、葉山先生から同じような状況で同じようなことを言われた。
少なくとも自分では気をつけていたつもりで、生徒達には何の反応もなかったから誤魔化し切れていたと思い込んでいたが、何十年も生徒をみていたベテラン教師にはわかるらしい。
「申し訳ありません。生徒にも違和感を与えていましたか?」
「いえ、そこまでではありません。私が聞いたのもなんとなくです」
「それならよかったです」
踵を返して降りやんだ雨が残る道を辿り校内へ戻る。
「玲人先生、さようならー」
「はい、さようなら」
挨拶を返しつつも考えるのは水上さんのこと。
今日一日ずっと気にかけてはいたが、しかし彼女に変わった様子はなかった。
いつも通りの、楚々として淡々とした水上さんだった。
だが地獄と表現していた体育祭のデザインを、たった数時間で完成させることが出来るのだろうのだろうか。本当は朝礼や昼休みに声をかけようと悩んだのだが、昨日の事を思い出すと僕にはその資格がないと思いなにも口にできなかった。
しかしそれでも、気を抜くと水上さんのあの顔がチラついてばかりいる。
「逢坂先生は生徒から慕われているようですね」
「はい?」
またおもむろに新島先生が言う。
隣をうかがうと、先生は興味深そうに挨拶をした生徒を見ていた。
「担任でも顧問でもない生徒に数日で挨拶をされるのは珍しいことですよ」
「何度か話したことがありましたから、それでだと思いますよ」
「それでもです。挨拶も難しく感じる人もいますから」
僕としては言われたからしているだけだが、中にはそんな人もいるのだろう。
教師になる難しさをつくづく実感する。
果たして僕は、教師になるに相応しい人間なのだろうか。
「今日も美術部には参加しますか?」
教員用の昇降口で靴を履き替えていると、また新島先生に尋ねられる。
本当のところ、今日美術部に顔を出すのはひどく気が重い。
昨日のような出来事は他の美術部員にとっては日常茶飯事であるらしく、別の部員についた時も特に彼らが気にしている様子はなかった。また水上さんと三橋さんがぶつかっている、そんな慣れが部全体に漂っていた。中には僕を気遣ってくれる部員すらいた始末で、ウチの三橋がすみませんと言われた時はなんと返事するべきかわからなかった。
「はい。反省会はまた部活終わりでも問題ありませんか?」
しかし自分に甘えるわけにはいかない。
僕には水上さんを見届ける責任がある。
「ではいつも通り見回りが終わった後に職員室へ来てください」
「わかりました」
「その前に申請手続きの仕方だけ説明しても構いませんか? 今回は女子生徒だったので小林先生にお願いしましたが、顧問が運動部の場合や男子生徒であれば我々男性教師も対応します。実習生なのでそこまでは必要ないかもしれませんが、万が一という事もありますので」
「お願いします」
「……水上さんはどうされました?」
研修が終わってすぐに美術室に向かうと、いるはずの彼女の姿はどこにもなかった。
いつも彼女がいる場所には衣笠さんと藤堂さんだけで、深刻な顔で話し合っている。
しかし一方で、なぜか部全体の空気はとても華やいでいた。
部員達は皆、グループに分かれて何かを見ながら相談しあっている。中にはそれを描き写している部員もいる。とても部活動として模写やデッサンをしている様子ではなく、むしろ興奮気味で、何かが始まったという気配がありありとしていた。
しかも昨日までとはうって変わって三橋さんがえらく上機嫌なのだ。
僕の知らないところで大きな変化があったのは言うまでもなかった。
「水上さんは体調不良で帰りました。三十分ぐらい前のことです」
そんなはずはない、とすぐに思った。
今日一日の様子を鑑みても、突然体調を崩すような状態には見えなかった。
「デザインは? 完成したんですか?」
「ええ、帰る前に水上さんがササっと描いてくれましたよ。見ますか?」
部長として為すべきことを為した満足感があるのか、三橋さんが得意げに原画らしい雑に切り取られたスケッチブックの一枚を手渡してくれる。
「……これが?」
「ええ。さすがはコンクールで受賞するだけはありますよね。集中すればすぐにこれだけの絵が描けるんですから」
言外にまた、僕が妨げになっていたと伝える三橋さん。
しかしそれよりも、水上さんが描いたというデザインに僕は気を取られていた。
体育祭という文字と空を飛ぶ鳩のバランスは見事で、描くことに長けている人間が作ったのは一目でわかる。虹、雲、青空という背景の指定も言葉を際立たせる。鳩の描写が見事なデフォルメの範囲に抑えられていて、拙さなど微塵もない。
だがそんな上手なだけのデザインだった。
本当にそれだけだった。
もちろんすごく上手で素晴らしいのだが、このデザインには受賞し飾られていたあの絵のような凄みをまるで感じない。雑談の中で産まれていた数々の絵のような輝きがない。
水上さんが描いたと言われなければ、とても彼女のデザインとは思わなかっただろう。
僕はたった二日とは言え、彼女が話しながら描いていた絵を観てきた。
どれもこれも、とても雑談の中で思いついたとは信じられないほど、水上貴利花という個人が如実に表れていた。才能のない僕にもわかるぐらいに。
なのにこのデザインには、彼女がどこにもいなかった。
「先生、そろそろ返してくれますか?」
「……え? あ、ええ。完成してよかったです」
「やればできると思ってましたから。あの子、普段は適当ですけど才能はありますから」
まるで自分の手柄のように言って僕からデザインを持っていく。
その後ろで、猪狩さんが茫然自失という顔で扉から入ってきた。
「猪狩君? 勝手にどこ行ってたの」
僕の視線に気がついた三橋さんが咎めるように彼に尋ねる。
しかし彼はまともには答えず、重い足取りのまま美術室を横断し隅に椅子を用意すると腰掛けて動かなくなった。
「ちょっと、聞いてるの? 私はどこに行ってたか聞いてるんだけど」
返事をしなかったのが不満だったのか、三橋さんは眉を顰めて彼に詰め寄っていく。
しかし猪狩さんは目の前に立った三橋さんに曖昧な受け答えしかせず、それがますます彼女の癪に触っていたようだった。
さすがに仲裁するべきだと思い近寄ろうとしたところで、今度は別の誰かに声をかけられた。
「玲人先生」
衣笠さんと藤堂さんが、普段の快活さを失った顔で立っていた。
二人の表情。茫然とする猪狩君。提出されたデザイン。体調不良で帰宅した水上さん。
かなり良くない事が起こった、それだけしかわからなかった。
誰にも聞かれたくない話がしたい、そう言われて二人を連れて来たのは国語準備室だった。
ここならば滅多なことがなければ他の生徒が来ることはなく、この一週間で資料を取りに来た先生は一人もいなかった。
二人を連れ出す理由として三橋さんにはクラスでの話し合いがあると適当な理由を伝えたが、猪狩さんに夢中な彼女はあまり話を聞いていないようだった。先日の昼休みといい彼には申し訳なく思うが、やはり間が悪かったと諦めてもらうよりほかなかった。
二人には二つしかない椅子に座ってもらう。
僕は少し離れた窓際で、なるべく見下ろさないように立った。
「水上さんになにかあったんですね?」
緊張させないように柔らかい口調で、しかし単刀直入に尋ねる。
二人は顔を見合わせると、代表して衣笠さんが口を開いた。
「貴利花、多分ただの体調不良で帰ったわけじゃないんです」
朗らかで闊達な言葉遣いも鳴りを潜め、衣笠さんは真面目な口調で話しだす。
「朝からおかしかったんです。いつもよりぼおっとしてたってか、昨日のが原因だと思ってたんですけど、弁当もほとんど食べなかったし具合が悪そうなのも本当なんですけど、それだけじゃないってか。間に合わなさそうだったんでアタシらがデザイン手伝ってたんですけど、また三橋とぶつかって、今回はアイツもマジになってて」
朝からおかしかった。
僕にはわからなかった水上さんの変化を二人はちゃんと感じていたのだ。
そしてやはりまたひと悶着あったらしい。
「そしたら急にスイッチ入ったみたいで————貴利花が急に動き出すのはいつもなんですけど、とにかく見たことない顔で描き始めたんです。なんかスゲぇ嫌そうで、あんな顔して描く貴利花なんてありえないってか……」
「みっちゃん仕切りたがりだから、一年の頃から行事とかそういうので皆に指示するのが好きだったんです。それが貴利花と相性悪くて。皆は適当に流してますけど、貴利花はなんだかんだちゃんと相手するから。部長になってからは特に酷くなって、最近は度が過ぎてたと思います。私にはあまり言ってこないですけど」
話しているうちに衣笠さんは心配でならなくなってきたのか、いつになく言葉が整理できなくなっているようだ。今にも飛び出して水上さんの下へ駆けつけそうなぐらいに落ち着きがない。藤堂さんはむしろ三橋さんに怒りを覚えているようだった。愛称で呼んではいるものの、彼女に対する憤りがはっきりと出ている。
だが二人も頭では三橋さんが完全に間違っているわけではないとわかっているのだろう。
わかっているから、表立って三橋さんと対立することはなかった。
しかし二人が友達として水上さんに肩入れするのは当然だ。
その心配や怒りには共感するが、ひとまず感情の方向を逸らさなければならない。
「アレが水上さんらしくないとは僕も思いました。でも水上さんはあのデザインを三橋さんに提出したんですよね? 彼女を含め部員の皆さんは満足しているようでしたが」
疑問に思うところはそこだ。
らしくないとはいえ、嫌な仕事を無理やり終わらせて評価も受けた。
ではなにが彼女を帰宅させるまでに至らせたのだろうか。
「それなんです。最初出しに行くとき、忍がそれでもいいのかって聞いたんすけど、駄目ならそれでもいいって。マジで適当に描いたのかと思ったんすけど、貴利花が適当に描くわけないし、マジでわかんなくて」
「褒められたのが嫌だったのかもしれません。でもアレって嫌だって言うより————」
「怒ってる?」
「うん。なにに怒ってるのかわかんなかったけど」
「だよな。貴利花がマジで怒ってるとこ見たことないから、アタシもわかんなかった」
特に親しい二人も、水上さんの心意までは掴みきれないようだった。
心配や不満が、悔しさへと変わる。歯がゆさが二人を苛んでいた。
「怒っている、ですか」
「三橋とかに怒ってるとは違うような気がするんすよね」
「でも他になにかある? みっちゃんのこと、鶏とかてんていとか言ってたし」
「そういうのとは違うだろ」
「じゃあなんなの」
「わかんねえよ。だから話してんだろっ」
「落ち着きましょう。二人が喧嘩をすることを水上さんは望んでいないと思いますよ」
「……わり」
「うん、ごめん」
このままでは良くない。
彼女達も水上さんの異変にかなり動揺している。
衣笠さんからは何か行動したいという焦りが如実に伝わってくるし、藤堂さんは本当に三橋さんへ何かを言ってしまうかもしれない剣呑さを隠しもしていない。
しかしそうなった場合、美術部は大きく混乱しかねないうえ誰にとっても良い結果にならない可能性が高い。水上さんが明日も部活に登校してきたとして、彼女達が対立していては気に病むはずだ。健全な部活環境が乱れるのは誰にとっても好ましくないはずだ。
「衣笠さんと藤堂さんの心配はよくわかります。でも慌てて行動したり、三橋さんを責めても問題の解決にはならないでしょう。部活は明日もありますね?」
「一応、はい」
「では水上さんが登校したら二人は普段通り一緒にいてあげてください。仲の良い二人がいつも通りいてくれるだけで気も楽になるはずですし、なにか話してくれるかもしれません。もしお休みなったとしても、短いメッセージを送るぐらいに留めておいた方がよいと思います。水上さんにも気持ちを整理する時間が必要かもしれません」
「っす」
「はい」
「ひとまず僕の方でも色々と考えてみます。僕がちゃんとしていなかったばかりに起こったことですので、水上さんも含めて二人にも申し訳なく思います。すみません」
僕が頭を下げると、衣笠さんが慌てたように立ち上がり手をバタバタさせる。
「とんでもないっす! もとはと言えばアタシが悪ノリして巻き込んだんで、先生は何も悪くないっすからっ。てか今も巻き込んでるし!」
「いえ、僕は実習生とはいえ教師の立場ですから、衣笠さんに責任はありません。ですのであまり思いつめないでください。とにかく大切なのは水上さんがまた元気になることです。そのためには衣笠さんと藤堂さんがいつも通りであるべきだと思います」
「っス! 玲人先生!」
「では、二人はそろそろ戻った方がいいでしょう。僕はこのまま事務作業で戻らないと、三橋さんに尋ねられたら答えてください。明日から僕は休みになりますが、許可が出れば顔を出そうとは思います」
「ありがとうございます玲人先生!」
「ありがとうございました」
自身の行動指針が決まったからか、心配よりも奮起が勝ったらしい衣笠さんはこの部屋に来た時よりも生気に満ちた顔をしている。水上さんのために何かしてあげたくても、どうすればいいのかわからないというのは苦しくて仕方がなかったのだろう。
自分の小賢しさに反吐が出そうになっていると、退室する前に藤堂さんが振り返った。
「玲人先生」
「なんでしょう」
「貴利花は先生に凄く懐いています。それはわかっていますか?」
「おい!」
「いいから」
突然の問い掛けに動揺したのは衣笠さんの方だった。
藤堂さんの独断なのだろう。
何を試されているのかわからない。
「親しみを持っていてくれていることは嬉しく思っています」
「あんな怒った貴利花を見たのは初めてだって、さっきは言いましたけど、あんなに楽しそうな貴利花を見たのも初めてでした。そのことも考えてくれると嬉しいです」
以前にも藤堂さんからは似たような仕掛けをされた。
あの時はほんの遊び気分、余計な茶々のつもりだっただろうが今は違った。
だが、僕の答えは決まっている。
「もちろんです。皆さんにとって最も善い結果になるように努力します」
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