5-3

「…………」

 作業が終わるのと集中力が切れるのはほぼ同時だった。

 手を動かして力尽きたのは初めてだった。

 最後の方はほぼ自棄。

体育の授業が嫌いな一因には持久走も含まれるが、ほぼそれに近い。

 達成感も面白味も何もない。

 ただ吐き気だけがする。

「終わった?」

「……ええ」

「どれどれ」

「終わったのぉ? 見せてみせてぇ」

 完成させたそれを、二人がのぞき込む。

 その顔が曇るのは見なくともわかった。

「……あー、いいんじゃね? これなら三橋も文句言わねえだろ。たぶん」

「貴利花、ほんとにこれでいいの?」

 忍がいつもの間延びした話し方もせず尋ねる。

 コレがいかにつまらないのか一目瞭然ということだ。

「これでいい。務めは果たした。駄目ならそれでもいい」

「貴利花がそう言うなら、いいんだけど……」

 忍ばない忍が、奥歯に物が挟まったように言う。

 愛梨も内心では同じように思っているのだろう。

 そんな二人といるのが恥ずかしくなり、ソレを破り取って新部長のところに持っていく。

「……これ」

「もう? まだ三十分も経ってないのに、こんなに早く描けるなら初めからそうしてよね」

 新部長はソレを受け取ると、訳知り顔で確認する。

 これで新部長が好きな責任は果たした。

 あとは好きにすればいい。

 言い逃れの言葉を思いつく限り準備する。

 そんなものはさっさと捨てて、自分で制作すればよいのだ。


 だが彼女は、信じられないことに満足気に頷いた。


「いいじゃない。この絵なら皆も納得する。さすが受賞するだけはあるよね」

「……本当に?」

「ええ。みんなはどう思う? 今年の横断幕のデザインはこれでもいい?」

 周りの部員が集まる。

「凄いです。水上先輩って本当に上手なんですね」

「やっぱり水上さんって違うよねー。こんな絵すぐ描けちゃうんだから」

「私、去年の先輩の作品観てこの部活に入ったんですよ。憧れちゃいます」

「あぁぁー、私も水上さんぐらいすぐに描けるようになったらなー」

 周囲の反応にまた彼女は満足そうにする。

「じゃあこれで決まりね。ありがとう水上さん。やればできると思ってた」

「……そう」

 踵を返して愛梨と忍のもとへ帰る。

 二人は私の顔を見て心配そうな顔をさらに曇らせる。

「……どうだった?」

「いいって」

「……そっか」

 立っているのが億劫で、二人の顔を見ずに座る。


 ————穢れた。


 その言葉が全身を這いまわり続けた。

 だが手足は自分のモノではないかのように動かせず、舌はほつれて上がりもしない。

「……貴利花?」

 愛梨の気遣うような声が居た堪れない。

 今の自分がどんな顔をしているかわからない。

 無造作に転がした鉛筆が私を責め立てているような気がした。

 どうしてあんなものに自分を使ったのかと呆れてものも言えないように。

 机を隔てた美術室の向こう側で、新部長が他の部員に作業について話している。

 美術部員総出の行事に華やいだ声。

 いつもなら流せるそれも、ただ辱めにしか聞こえない。

「……帰る」

「え?」

「気分がすぐれないから今日はもう帰る。また」

「あ、ああ……」

 荷物をまとめて鞄にしまい込む。

 もうこんなところにいたくない。

 もしかすると逢坂先生が今にもやってきて、あれを見てしまうかもしれない。

 あんなものを見た先生がなにを言うか、考えるのも嫌だった。

「貴利花、大丈夫?」

「……」

 立ち上がった私に忍が言う。

 しかしそれには返事ができず、荷物を持って再び新部長の所に足を運んだ。

「部長」

「————なに? どうかした?」

 行事が滞りなく進むことに喜ぶ新部長がうって変わって穏やかに返事をする。

 なんとか口を開いた。

「体調が悪いから、今日は帰ります」

「そうなの? 大丈夫? 体調が悪いなら初めから言ってくれればよかったのに」

「少し休めば治ります。でも今日は早退してもいいですか?」

「もちろん。早く帰ってゆっくり休んで。お大事に」

 はしゃいでいた他の部員達も心配そうな挨拶をする。

 適当な会釈を返して、足早に美術室から出だ。



 どこで逢坂先生と鉢合わせするかわからなかったので半ば走るように昇降口へと向かった。

 美術室がある旧部活棟から昇降口までは距離があり、その途中で中庭を通らなければならない。聞いた話では深早山高校のOBの募金によって様々な木や花が植えられているらしい中庭は、いつもであれば歩くだけでも小気味がいい好きな場所だったが今はただ広いだけの空間に成り果てていた。この場所は教室棟や特別棟からも見下ろせる場所で、顔をあげてしまえば先生を見かけてしまう可能性がある。下を向きなにも見ないようにして通り抜ける。

 校舎の向こう側から運動部の掛け声が聞こえる。個人練習をしている吹奏楽部が廊下や外に出て楽器を吹き鳴らしている。その何もかもが嫌だった。まるで風までもが身体に泥のように纏わりついて、詰られているような気がした。そして、そのように感じ取る自分が嫌だった。

 ————穢した。 

羞恥心が音となり風となって、私を嘲笑う。私が私であること自体が嫌になる。今すぐこの穢れた心を捨て去って、どこか彼方へと逃げ去りたい。

 しかし空はそんな私に覆いかぶさるように鈍重な雲をどこまでも広げている。

 せめて雨が降っていれば、この気持ち悪さを洗い流してくれるかもしれないのに午前中に止んでしまったそれは、むしろ水溜りの泥となって靴や靴下を汚す。

 お天気お姉さんはなにを得意気に一日中の雨を予報したのか。

 自分の言動には責任を持ってほしい。

 そして空も、いつも鬱陶しい雨をこれでもかと降らせるのだから貫徹させてほしい。

 冷たく静かな土の中で、何も考えずに眠りたい。



「水上!」

 靴を履き替えていると名前を呼ばれた。

 返事をする代わりに勢いよく下駄箱の扉を閉めた。

「大丈夫か?」

「……悪いけど、気分が悪いから」

 そう言って帰ろうとすると、猪狩君は私の前に立ち塞がった。

「どいて」

「え? い、いやだって、ほっとけねえって」

「どうして?」

「え? だってさっきも様子変だったし」

「どこが?」

「え? えと、それはその……」

「何もない。だからどいて」

「え? いや、そんな顔してる奴が何でもなくはないだろ?」

「え、え、え、え、え、え、え、そればっかり。何も言えないなら邪魔しないで」

 その音は嫌いだ。馬鹿みたいに会話のリズムを崩して、いちいち誤魔化そうとする音だ。

 自分のことも儘ならないのに、他人の思考に考えを巡らすなんてできない。

「……最悪」

 これではまるで中学時代の、恋に我を失っていた同級生と同じだ。

理性を失い、感情の動くままに誰かに八つ当たりをする。

よりにもよって、最も軽蔑していたそれに私は成り下がっていた。

「俺、楽しそうに描いてる水上が好きなんだ」

 彼は意を決したように言う。

 やはり脈絡がない。

「あの絵、スゲエ上手かったけど、水上は満足してないんだろ? それがどうしてかわからないけど、その顔を見てればわかる」

「……」

「三橋に言われて仕方なく描いたけど、本当は描くのが嫌だったんだよな? 俺、水上には楽しそうに絵を描いててほしいんだ」

「……」

「上手くいえねえけど、俺にできることだったら何でもするからさ。水上のために何かしたいんだ」

「————なら聞くけど」

「え? あ、ごめん。……なに?」

「あなたの言う私の絵ってなに? 好きなのだから、知っているのでしょう?」

 我慢できずに睨みつける。

 彼はたじろぐが、諦めずにまた口を開く。

「それは、その、確かにわかんねえけど」

「ならもうなにもない」

 彼がわからないのは当たり前だ。

 あれを私の絵だなどと言うのだから。

「でも、水上のことならわかる」

 押しのけようとした時に猪狩君は顔を上げた。

 私の眼をハッキリ見て、まるで本心で語るみたいに。

「水上は水上だ。それ以外にはありえないだろ?」

「人を虫みたいに言うな。そんな何の解決にもならない台詞なんて聞きたくもない」

「む、虫……?」

 猪狩君は呆然と繰り返す。

 その様子に少しだけ冷静さを取り戻して、頭を下げた。

 剥き出しになった悪意が、埋まった善意を掘り起こす。

「猪狩君の善意は受け取った。心配してくれてありがとう」

「え? あ、またごめん……」

「いい。全部私が悪いから。あなたは何も気にしなくていい」

 事実だ。

 彼は何も悪くない。関係ないのだから。

 ただ私が勝手に転んだだけに過ぎないのだから。

「体調が悪いのは本当。でも当たってしまってごめんなさい」

「いや、それはいいんだけど……」

「それじゃあ」

 まだ何か言いたげな彼をおいて立ち去る。

 いつか愛梨の言った言葉と重なって、雨上がりの風がより冷たかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る