5-2
「んじゃ、まずは大まかなとこから決めてこうぜ」
放課後、部活が始まって私達はすぐに作業に取り掛かった。
逢坂先生はまだ美術室に現れていない。終礼時に体調を崩した生徒が出たので、担任と一緒にその対処に行ってしまった。新部長も掃除当番でまだ部室に現れていない。
新部長はともかく、逢坂先生もこの場にいないのは僥倖だった。
もし逢坂先生がこの場にいたら、きっと集中できないでいただろう。
二人の友情に崩れかけていた感情は少し持ち直し、三人でいつもの場所に陣取る。
まだ気怠くて仕方がないが、二人がいればなにか描けるかもしれなかった。
「やっぱ体育祭なんだからさ、適当に空に蝉でも飛ばしとく?」
「えぇ、ダサいし気持ち悪いぃ」
「なら忍はどんなのがいいのさ」
「体育ってオリンピックが由来なんだからぁ、バキバキの広背筋。脊柱起立筋でもいい」
「どんな横断幕だよ。ヤだよオッサンの筋肉一杯の横断幕とか。しかも背中かよ」
「蝉もヤなんですけどぉ」
「蝉はカッコいいじゃん」
「筋肉は美しいから」
「貴利花は? 蝉とマッチョ、どっちがいい?」
「どっちも気持ち悪い」
この小気味よいやり取りがなぜか懐かしい。
逢坂先生との対話は官能的で愉しくて仕方がなかったが、この二人との益体のない会話も楽しい。萎え切っていた心が癒されていくのを感じる。
「そもそもさ、貴利花、体育嫌いじゃん。それで描けってのが厄介だよな」
「ホントにそもそもなんですけどぉ」
「だってさぁ、忍だって木で蝉、彫れるか?」
「死んでもヤダ」
「だろぉ? アタシだって汗でしっとりしたオッサン描くのヤだよ」
「マッチョは別にしっとりしたオッサンじゃないんですけどぉ」
「え? だってジムとか通ってるマッチョって汗でぬたぬたじゃねぇの? てか忍って激ヘコみしたダルダルの皺が好きなんじゃなかったっけ?」
「本物は丸くて張りがあるんですぅ。絶望設定は好きな設定であって創るのとは別なんですぅ」
「歪んでるなぁ」
「愛梨に言われたくないんですけどぉ」
————ああ、これだ。
描く時はこれに限る。
雑談は使う言葉が自由だ。
散逸した言葉の中から、遊びを感じるのが面白いのだ。
「んー、てことはアタシと忍の好みを反映させるとさー」
何か思いついたのか、愛梨が自分のスケッチブックにサラサラと何かを描いていく。
正直、嫌な予感しかしないが、さりとて私が何か描けるわけではないので待ってみる。
「これでどうよ!」
大喜利番組のように出された一枚には、蝉のような顔した二足歩行のマッチョがいた。
「……なにそれ」
忍は心底不気味そうに顔を歪めて言った。
同感である。
「宇宙人」
「どこが逢坂先生か。化物じゃない」
「玲人先生じゃねぇよ。知らね? バロタン星人。仙人みたいに鳴くんだよ」
「仙人は泣かないから仙人でしょう? それにバロタンって、チョコレートじゃないんだから。仙人からほど遠い俗世の象徴じゃない」
「でもカッコいいだろ?」
「気持ち悪い」
「変態みたい」
「んでだよー、視ろよこの口元から胸元にかけてさ、変形合体したみたいだろ?」
しかし、口では反射的に気持ち悪いと切って捨てたが、なかなかどうして面白いかもしれない。私にとって体育祭とは地獄だ。地獄では罪人が苦痛の叫び声をあげているが、体育祭も阿鼻叫喚の叫び声に満ちている。それが学校という区切られた領域の中で鳴り響き、汗を掻き感情を振り回し勝敗を決めてチョコレートのようにドロドロになる。
「そのバロタン星人は、何をするの?」
「え? いや、アタシもよくは知らね。宇宙人なんだし地球に攻めてくんじゃねえの?」
「なにそれテキトぉ」
「世代じゃねえっての。アタシらの爺ちゃんとかの世代だっての」
宇宙人が地球に攻めてくる理由は移住か支配が相場だ。
移住先の支配的原生生物である人類を滅ぼすか、地球内でも行われている国盗りが宇宙規模の星盗りになるか。そうなるのはどうしようもない生物の性だ。体育祭も、勝ちを欲する生物の欲求で成り立っている。
急に静かになったので顔をあげると、愛梨と忍がニヤニヤしていた。
「なに?」
「いぃやぁ? なんか調子出てきたと思ってさ」
「ツッコミも出てたしねぇ。その調子ならいけるんじゃない?」
恥ずかしいところを観られた気がする。
だが興味を持てたのは事実だ。
まさかこのような魑魅に面白さを感じるとは思わなかった。
話してみなければわからないことは多いのだと実感する。
二人のにやけ顔は流すとして、洗濯機の中のような思考を形にするべく鉛筆を手に取った。
「ちょっとッ、何やってるの⁉」
せっかく上向いたやる気がイメージごと闇に消えた。
お腹の底でとぐろを巻いていたナニカがまた鎌首をもたげる。
スケッチブックに立てられた鉛筆はそのまま向こう側へと倒れた。
「あー、締め切り今日だろ? ちょっと手伝おうと思ってさ」
「それで逢坂さんが邪魔しかしなかったって昨日言ったでしょ⁉」
「いや、でも貴利花も調子出てきたみたいだしさ」
「遊んでるだけじゃない。なにそれ、それのどこが体育祭に関係あるの?」
馬鹿の一つ覚えとはこのことだ。車酔いにも似た倦怠感が再び襲い掛かってくる。
「これ? いや、これは確かにアタシの遊びなんだけど————」
「いい加減にしてよ! 水上さんに遊ばせないでって何度も言ったでしょ。どうして邪魔ばかりするの? 今日決まらないとみんなに迷惑かかるんだけど!」
「いや、そういうわけじゃ————」
「そうなってるって言ってるの!」
「みっちゃんさあ、ちょっと落ち着いてよ」
「なに? 私が邪魔してるって言いたいの? 私は部長として水上さんに部活に参加させようとしてるだけじゃない」
「そうかもしんないけどさ。少しはこっちの話も聞いてよ」
「なんで聞く必要があるの? 聞いてないのはそっちじゃない。デザインを考えてくれるだけでいいのにサボってるのは水上さんでしょ? だいたい、元はと言えば二人が水上さんを甘やかすのが悪いんじゃないの? このままじゃいつまで経っても水上さんが成長しないじゃない。友達なんだったらちゃんとさせてよ」
イラっとした。
私にアレコレ言うだけならどうでもいいが、二人にまで文句を言うのは許せない。
元はと言えばなどと言うが、それこそ元はと言えば新部長が私にデザインを描かせると勝手に言ったのが全ての始まりだ。美術部としてどうのこうのも新部長の勝手な欲望である。それを勝手に押し付けておいてその言い草はないのではなかろうか。
「……わかった。少し待って」
倒れていた鉛筆を拾い上げる。
先生のことを考えて描きに描きまくったスケッチブックを捲り、また真っ白なページにその筆先を落とし怒りに身を任せて動かし続ける。
「ああ、やっとやる気になったんだ。じゃあ私は後輩の面倒見なきゃだから、完成したら教えて。愛梨と藤堂さんも、ちゃんと部活やってよね」
————気持ち悪い。
初めの線を入れたその瞬間から嫌悪感があった。
吐き気が治まらない。それでも完成させなければならない。
「貴利花?」
「大丈夫なの?」
「————ええ」
こんな鬱陶しい時間はもうウンザリだ。
早くなにもかも終わらせて、いつもの日常に戻りなにも気にせず愛梨や忍、逢坂先生と話をしたい。そうすればダラダラと億劫な梅雨のようなこの時間も過去になってくれるはずだ。
夜は夜明け前が一番暗いとはどこの国の諺だったか。
暗澹たる夜の雨が早く止んで、また小気味の良い朝が来てくれることだけを願った。
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