6-2

 扉がざらざらと締まって、いつの間にかまた降り始めていた雨の、窓を打ち撫でる音が聞こえて外を見る。今日は降ったり止んだりを繰り返している。運動部は大変だろう。せっかく止んで活動が出来ると運動場を整備したのに、これでは徒労だ。徐々に雨脚は強まっているが、諦めきれないサッカー部員が泥だらけになりながらドリブルの練習をしている。

 それらが焦点の合わないスリ硝子のような視界の中で動いていた。

「考えろ————」

 二人の前では何とか平静を保てていたが、いなくなった途端に這うような焦りがわき上がる。

 僕のせいだ、そんな後悔が恥知らずにも駆け巡る。

 最悪だった。よりにもよって僕のせいで水上さんが傷つくことになった。自分自身の不甲斐なさにこれほどまで怒りを覚えたことはない。

ちゃんと三橋になにか言えていれば、それまでも水上さんをちゃんと手伝えていればこんなことにはならなかった。すべては僕の曖昧な態度が引き起こした事だった。

 しかしそんな自己嫌悪に酔っていたところで事態は解決しない。

「考えるんだ————」

 沸騰しそうな感情を抑え込んで、何が原因で水上さんが傷ついたのかを考える。

 水上さんほどの技術があれば、あるいは適当に描くことも可能かもしれないがどうにも僕にはそれをイメージすることが出来ない。怒っているようだったと二人は言っていたが、それが何に対してなのかもわからない。日常の雑談の中から面白さを感じそこから描いていくという水上さんが、地獄と言っていた体育祭からあのような絵を描くとはとても思えない。

 そもそも、あれが水上さんの絵だとはまるで感じなかった。

 面白いと感じてから弾けるイメージが普段水上さんの描いていた絵だ。作品にするのはそこからテーマを見つけてからだと言っていた。僕が見ていたかぎり体育祭についての絵は一枚も描いていない。注意を受けてからすぐに描き出したと衣笠さんは言っていたが、どこかから原案でも持ってこない限りいきなり描けるとは思えない。

 でも、そんなやり方を水上さんがするとも思えなかった。

 ————なら水上さんはどこからあのデザイン案を持ってきた?

 これは粗末な思いつきに過ぎない。

 水上さんを少しでも知っているなら、とてもありえないと一蹴するだろう。

 しかし僕はこの妄想に一縷の望みを賭けた。

 鞄にしまい込んでいるスマホを急いで取り出し、深早山高校のホームページを検索する。この学校は公立高校であるがネットでの宣伝にも力を入れている。過去の行事や授業風景の写真をアップし、受験者数を増やす試みは僕が受験する前から取り組まれていた。

「……これか」

 僕が探したのは去年の体育祭の写真。

 笑顔で行事に参加している生徒達や応援するご家族の写真が多くある中で、美術部員の参加を示す写真もちゃんとアップされていた。

 それは去年、三橋さんが引退した三年生の副部長と一緒に作成したという横断幕だ。それを中心にして美術部員が笑顔で並んでいる中、一番端に水上さんが億劫さをまるで隠さない無表情で写っている。衣笠さんと藤堂さんがガッチリとその両腕を掴んでいるところを見るに、逃げ出そうとしていたところを捕まえられたのだろう。

 しかし注目しなければならないのは、その横断幕である。

 かなりのアレンジを加えられてはいたが、水上さんがここから流用したのだとわかった。地獄と言いつつサラッとここから引用してくる手腕には流石だとしか言いようがない。モチーフになっている鳥や空は同じだが、覚えがなければとても元ネタだとは思わないだろう。

 水上さんはここから案を持ってきた。それはわかった。

 描いている最中に怒っていたというのは、そんなことをしている自分自身にだったのかもしれない。半ば皮肉のつもりであれを描いた。駄目でもいいと言ったのはそうだからだ。自分の描いた絵をアレンジされて出されること、遊びや冗談が好きな水上さんにとって面白さの欠片もないデザインは嫌がらせと同義だったのかもしれない。

 しかし三橋さんや他の部員はそれに気がつかず、褒めてしまった。

 提出されたものを水上さんの絵であると捉え、受け入れてしまった。

 仮に僕のような凡庸な人間であったら、もしそのような意図で出したのに褒められでもしたら笑ってしまうかもしれない。皮肉をそのまま受け取られることで溜飲を下げ、嫌な仕事を片付けたのだと胸を撫でおろしたかもしれない。

 だが水上さんはそうはならなかった。

「……でも僕に、なにが言えるんだ?」

 天性の才覚を持つ水上さん。

 凡人でしかない僕。

 気にする必要はないとか、それほどの才能があるならばきっと将来プロの画家になるからその予行練習だとか、そんなどこにでもありそうな言葉はいくらでも思いつく。

 しかし水上さんには届かないだろう。

 むしろ彼女をより深く傷つけてしまう可能性の方が高いような気がする。

 断定できないのも、否定できないのも情けなかった。

 そもそも、この想定も真実であるかどうかもわからないのだ。

 水上さんの僕に向けられる好意。

 すでに教師としては過干渉の範疇に至っているかもしれない。

 一つ間違えれば、更なる問題に発展しかねない。

 自分の無力感に思わず椅子に座ろうとすると、机の上に拡げたままの指導案が目に入った。

 生徒には決して見られてはいけないそれに気を割く余裕も失われていた。

 どうにかしてわかりやすく伝える為のメモ書きが、滑稽なもののように見えた。



時間というのは残酷で、どのように思い悩んでいても猶予などまるで与えない。

部活時間終了を告げる予鈴が鳴った後、僕はひとまず実習生としての業務に移らなければならなかった。生徒が残らないよう見回り、戸締りが済んでいるのか確認する。

その後にあるのは、新島先生との反省会である。

「失礼します」

 金曜日と言えど、やはり職員室にはまだ多くの先生方が残っていた。

「お待たせしました。本日もよろしくお願いいたします」

「ちょっと待ってください」

 新島先生はやはりこちらに目もくれず、業務を切りの良いところまで進めていく。

 僕はそれをただ待ち続ける。

「————はい、では行きますか」

「お願いします」

 また一歩近づいて指導日誌を手渡す。

 先生はそれを淡々と受け取り、足早に出口へと向かう。

「では失礼いたします。本日もありがとうございました」

 職員室を出る前に再度先生方に挨拶をする。

「お疲れ様ー」

 新島先生は僕を待たずに先へ行っていた。


「じゃあ今日の反省点をお願いします」

「はい。授業は少しずつですが時間配分と生徒への意識づけに注力を割けるようになったと思います。まだ完全に生徒の自主性を促すまではなりませんが、初日との違いは自分でも感じられるところです。来週の研究授業までに生徒達に書いてもらったアンケートを参考して、退屈にならない授業を心掛けるつもりです」

 どうしても空寒しいと思ってしまう。

 ほんの数時間前には本気で書いていたそれが、今となってはなんら力を持っていない。

「そうですね。一週間でここまで変われるなら充分かと。これなら最初の打ち合わせ通り来週からは読解に入っても大丈夫そうですね」

「————ありがとうございます」

 一昨日までの僕ならば素直に喜べていたのに、今はできなかった。

「どうかしましたか? やはり何か気になることが?」

 僕自身の葛藤が返事に出ていたのか、新島先生が指導日誌から顔をあげる。

 僅かばかり逡巡して、僕は遠回しに水上さんの事に触れる。

「少し、思い悩んでいる生徒がいるみたいで」

「誰ですか?」

「……水上さんです」

「水上さんが? 彼女にも悩むことがあるんですね」

 意外そうに新島先生は眉を上げた。

 普段の水上さんは無表情ながらどこか飄々としていて、手のかかる生徒という認識ではないのだろう。成績もよいと聞いている。この問題は僕が当事者だから知りえた話だ。それがわかっているのに先生の反応がどこか冷たく感じてしまう。

「水上さんもまだ学生ですから、悩むことはあると思います」

「それはそうですね。逢坂先生はどうして悩んでいるのか知っていますか?」

「何が起こったのかは彼女と親しい生徒から相談を受けて少し。けれど水上さんがどう悩んでいるのかまではわかりません」

「それはいつ知ったんですか?」

「今日です」

「逢坂先生は水上さんの友達、衣笠さんと藤堂さんかな? ————にはなんと返事しましたか?」

 新島先生が生徒の交友関係まで頭に入れているとは思わなかった。

 しかし水上さんは目立つ生徒だ。そんなこともあるかもしれない。

「考えます、とだけ。具体的にどう指導するのかは言えませんでした」

「懸命ですね。自分が解決するなどと言ってたら注意しなければなりませんでした」

 その言葉の意味がわからなくて先生の顔をまじまじと見つめる。

 先生は日誌をぱたりと閉じて差し出してくる。

 僕はそれを見ずに受け取った。

「そもそもですが、逢坂君はその悩んでいる水上さんを自分で見たんですか?」

「いえ。ですが部活も途中で帰られたみたいですし、衣笠さん達も本気で心配そうでしたから」

「帰宅した理由は?」

「体調不良だと」

「なら、悩んでいるというのが本当のことかわからないでしょう」

「ですが二人の顔は真剣そのものでした。彼女達が嘘をついているとは思えません」

 意図せず口調が強くなってしまう。

 まさか教師としての心構えを説いた新島先生がこんなことを言うとは思わなかった。

 葉山先生とは別に少なからず尊敬していたのにと、裏切られたような気になる。

「ああ、二人が嘘をついているとは言ってないですよ」

「水上さんが嘘をついていると?」

「逢坂先生、少し落ち着いてください。生徒とは冷静に向き合わなければならないと最初の打ち合わせの時に伝えたはずです」

 冷水をかけられたような寒さが全身を伝った。

 誤魔化しながら話すつもりが、いつの間にかカッとなっていた。

 黙った僕を見ながら、新島先生は続ける。

「私は誰も嘘をついているとは言っていません。悩んでいるのが本当なのかわからないと言っただけです。水上さんの悩みというのは例の体育祭の横断幕制作ですか?」

「……そうです」

「その事で水上さんに何かあったんですね? わかる範囲で教えてください」

 僕は新島先生に二人から伝え聞いた範疇で、事のあらましを説明した。

 三橋さんと水上さんの対立、デザインについて水上さんが消極的だったこと、最終的に自棄になって出したデザインが受け入れられてしまったこと。

「水上さんは絵を描くということに特別な価値観を持っているようです。その信条を破る絵を描いたから、傷ついたんだと思います。ですから僕は————」

 話しているうちに舌がまわって、いらぬことまで言おうとした時に新島先生は手で制した。

その視線が、かなり真剣身を帯びていることに気づく。

「たった数日で生徒をそこまで見れるのは感心します。もしかしたら逢坂先生は間違っていないのかもしれません。しかし君は、水上さんを特別扱いし過ぎている」

「どこがですか? 目の前で困っている生徒がいたら助けるのが教師ではないんですか」

「違います。困っている生徒が助けを求めてきたら手を差し伸べるのが教師です。小学中学ならばまだしも、高校教師に至っては逆ではありません」

 まるで冷徹な裁定者のように、新島先生は断言した。

 そこまでハッキリ言い切るとは思ってなかったので動揺してしまう。

「よろしいですか逢坂先生。高校生は確かに子供ですが、ただの子供ではありません。法律上はもう働くことも可能な年齢です。そのことについてもう少し考えなければならない」

「……どういう意味でしょう。よくわかりません」

「彼らは既に自立した精神を獲得しているということです。それが未熟かどうかではなく、自己決定権を持ち、程度はあれど判断基準を持ち合わせているということです。結果がどのようなものであれ、彼らは既に社会的に生きていると言ってもいいでしょう」

「しかし彼らは未成年です。まだ将来に悩む年です。むしろ多感な高校生の時期こそ、教師が積極的に道を指し示すべきなのではないですか?」

「なら君は、その生徒の将来に責任を持つということですか。保護者でもない、たった数日、教師になっても三年しかかかわらない君が、生徒の人生に干渉するのですか? 自分の考えが最善であると君は断言できますか?」

 なにも言い返せなかった。

 新島先生の言葉が正しければ、つまり僕は過干渉の範疇などとうに超えていたのだ。

 蝋燭の火が消えたように、目の前が真っ暗になったような気がした。

「私がさっき高校教師を範囲にしたのはそういうことです。小学中学教師の役割は半ば大人になるための人格形成を促すためにあります。しかし高校教師は将来に向かって歩き出す子供達の後押しをするためにいます。より専門性を持ち、幅広い知識を必要とされるのは生徒に活用してもらうためです。自主性の育成や自己実現を促すとは、教師が主体ではなく生徒が主体です。絶対に、そこをはき違えてはなりません」

 この僅かな数時間でどれほどの間違いがわかったのだろう。

 僕は教師にはなるべきではないのかもしれない。

 そこまで思ってしまうほどに。

「……申し訳ありませんでした。考えが浅かったようです」

 そう言って頭を下げる。

「……いえ、本来は実習生にここまで言う必要はありませんでした。逢坂君が優秀だったので、少しばかり熱が入ったようです」

 新島先生も少しきまりが悪そうにしている。しかし先生の言ったことはすべて正しい。

 全ては僕の無知ゆえだ。

「水上さんに関してですが、逢坂君の対応は間違ってはいません。成長という視点から見れば、いま悩むことは彼女にとって良いこととも考えられます。画家の悩みについて門外漢の私が的確なことを言うのは難しいかもしれませんが、彼女のような人達の悩みは一日二日で解決するようなものなのでしょうか」

 ハッとさせられる。

 確かにそうだ。

 古来から芸術家は人生を懸けて悩み続けているという。

 ぽっと出の才能のない僕が横から何か言えることではなかった。

 何も知らない僕は、初めから水上さんにかける言葉などないのだ。

 でもそれは、僕はもうすでに知っていたはずだった。

「私の方でも注意して見ておきます。逢坂先生は来週には実習が終わりますから、その後は請け負います。そうして生徒のために考えることは間違ってはいません。むしろ美徳と考えてください。それも教師に必要な技能ですから」

 優しく言われたその言葉は、とても甘美で身を任せたいものだった。

 このまま新島先生に全てを委ね、正式な教師に水上さんを託す方が絶対に正しい。この件は素人の僕ではなく経験も知識もある新島先生が取り扱うべきなのだ。衣笠さんと藤堂さんにもそう伝えるべきだ。僕の手には余ると、本職の先生が対応してくれると伝えるべきなのだ。藤堂さんの言ったことを踏まえても、僕がこれ以上干渉するべきではない。

 ————でもやっぱり、そんなことは既に知っている。

「ありがとうございます」

「……あー、一応聞いておきますが、まさか逢坂君は水上さんに懸想をしているわけではないんですよね?」

 酷く言いづらそうに苦虫を噛み潰したような顔で尋ねる新島先生。

 何も反応することが出来ない僕を見て、先生は溜息をついて顔を横に振った。

「……やはり葉山先生のようにはいきませんね。忘れてください」

 そこでようやく、新島先生が冗談を言ったのだと気がついた。

 僕は笑うことすら出来なかった。

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