4-1
木曜日、目が覚めたのはスマホのアラームが鳴る三十分も前だった。
朝は苦手で、いつもであればここから十数分は目を閉じたままなのだが、実習が始まってからはずっと目が冴える。枕元に置いたスマホを操作して全てのアラームを切った。閉め切ったカーテンの向こう側では今週に入って続いている雨が窓を撫でている。お陰でどうにも仄暗く、くたびれた目覚めの中で寝返りを打つ。
そしてぼんやりとした視界に入ったのは、本棚にある埃をかぶった美術の参考書と画集。
そのせいで、と言うべきか。すぐさま思い出したのは昨日の夕暮れ。
五歳近くも年下の、水上貴利花という少女との衝撃の会話。
「……」
目の前で何が起こっているのか、さっぱりわからなかった。
よくわからないダジャレは回転する法螺貝になった。
朝のお天気キャスターはピーナッツを齧る梟になった。
二人の雑談は珈琲と煙草になった。
爆笑を皮切りに、水上さんは普段の楚々とした笑みとはうって変わって、好奇心を満たす童子のような眩い笑顔で話し続けた。そしてその間ずっと、手を留めることなく動かし続けた。
一昨日に昼食を共にした他の美術部員の言っていたとおり、話しだすと水上さんはとても饒舌で、そしてまさに天才と形容されるに相応しい神業を見せた。雑談に耽っているのに、まるで初めからそこにあったかのように下書きもせず精巧な絵を次々と描き切っていくのだ。触れれば本物の手触りさえ感じさせそうなものを鉛筆だけで。
目の前で繰りひろげられた壮絶な光景に、僕は圧倒されるしかなかった。
衣笠さんにデザイン制作の手伝いをお願いされた時、本当は了承した自分自身に困惑するほど口が勝手に動いていた。なぜ了承したのかは、いまになってもわからない。
よい経験になるとか、生徒からの頼まれ事は断れないとか、アレコレと理由を軽薄に後付けしては彼女の才能に押し流された。突飛な発想と才能についていくことも許されず、何の意味もない返事をするか、どこかで聞いた言葉を持ってくるしかなかった。
果たしてこれで、水上さんにデザイン制作を促すことが出来るのだろうか。
「……なにが面白いんだろう」
母が目覚める音が天井越しにした。両親の眠る和室の戸が開く木の擦れる振動が響く。
呆然としていても、時間は無情にも進み続ける。外の気配に身体が完全に目を覚ましたからか、口の中がやけに不快になってきた。頭に違和感も覚えるから強い寝癖もついているのだろう。だらしのない格好で学校に行くことは許されない。
処理できない物思いに耽るのはやめ、思考を自動化するために洗面台に向かうことにした。
されど実習は続く。
大学ならば一休みに友人と駄弁ることもできただろう。
しかしこの二週間はそんな逃避は許されない。
ここはもうある意味で研修期間、責任や立場で言えば社会人と何ら変わりなかった。
僕はあらかじめ見学の申し込みをしていた葉山先生の授業に参加していた。
「前回は古代ギリシャの時代。エーゲ文明とポリスの誕生までを勉強したね。今日はその中でも有名なアテネとスパルタについて考えていこう」
相変わらず葉山先生は教科書もノートも使わない授業をしているようだった。
生徒達はあらかじめ配られた資料を手元に、葉山先生の話を聞いている。
教室の後ろに椅子を用意して、久しぶりに先生の授業を見学する。
「この当時のギリシャにはいろんな都市国家、ポリスがあったのは覚えているね。エジプト文明ではファラオが統一して王朝が出来たって勉強したけど、ギリシャでは代わりに貴族が存在していたわけなんだよ。————金森」
「はい」
あてられた男子生徒が自然体で返事をする。
「貴族って聞いてどんなイメージがある?」
「あー、偉い、とか?」
「確かに偉い人だよね。貴族の貴の字は貴いと書くわけだし。じゃあ菅野、他には何かある?」
「えー? 賢いとか? わかんないです」
「いやいやいいね、貴族なのに勉強できないってのも、ちょっとヤだよね。なら東山、まだ何かあったりする?」
「金持ち」
先の二人と違い少しふざけつつも自信ありげに答える生徒に、教室内に笑いが生まれる。葉山先生もそれに呼応するように笑って、声が治まる頃に授業を再開する。
「それも間違いないね。皆のリーダーになのに立派そうに見えないのもなんか微妙な気がする。ここまで出た意見では貴族ってのはお金があって、勉強が出来て、だらしのなくない人なわけだ。実は当時のアテナイでも同じように考えていて、あとは戦争とかでちゃんと戦う人が貴族として認められてた。水島、どう? こんな人達だったらリーダーに相応しいと思う?」
「はい」
「だよね、カッコいいし尊敬できる。そんな人の言うことなら聞いてもいいかなって僕も思うよ。特に二千年以上も前だ。生きることももっとシビアだったはず。怪我や病気一つであっさり死んでしまうかもしれないから、自分達のリーダーにはしっかりしてほしいよね。じゃあ柳沢、自分がアテナイの市民だったとして、リーダーにはずっと立派でいてほしいと思う?」
「え? それは、はい」
「だよね。堀内、君は貴族だったとして、一生懸命努力して貴族でいようとしてるわけだけど、その成果に見合った立場に居続けたいと思う?」
「……たぶん」
「それも当然かもね。貴族は物知りでいろんなことを市民に教えてた。他のポリスがどうなってるとか、何が正しいとか、神々はどうしたいかとかね。皆も納得する。だって立派な貴族が言ってるんだし、そんなものかなって思うのが普通かもしれない。じゃあ斎藤」
「はい?」
「君は商人だ。それも他のポリスに行って大儲けしてるアテナイの商人。斎藤は立派な商人になるために必死に考えて稼ぎを増やす方法を考えた。別のポリスにも商売相手だけじゃなくて友達も出来る。ここまでオーケー?」
「うっす」
「商売は上手くいって君は財産を増やす。アテナイでは聞かないような話も耳に入れて、貴族も知らないような話も知る様になるだろう。ギリシャはエーゲ海にあって商売には船を使うって前の授業で学んだね。なら海賊もいるかもしれない。時には君自身も戦わなければならない。きっと二の腕も腹筋もバキバキだろうね。どう? ない話ではないだろ?」
「かもっすね」
「よぉし、なら君の今のスペックを改めて教えてくれないかな」
「え? ……金持ちで、物知りで、マッチョ?」
「間違いない! ところでそれは皆で想像した貴族のイメージと同じじゃないかい?」
「……そうっすね。あれ? オレ貴族?」
「いやいや君はただの市民だよ。財産があって知識があって戦える立派なだけの平民さ。貴族は君をただの平民としか扱わないし、政治にも参加させてくれないよ。たとえもっと国が栄える方法を知っていたり、周りから尊敬されてたりしてもね」
「なんか、ムカつくっすね」
「どうして?」
「え? だって、オレと同じじゃないっすか」
「そうだね。貴族と市民に違いや差がないなら、貴族だけが政治を独占する理由がないし、そもそも貴族ってなんだって話になる。でもさっき堀内と一緒に考えたけど貴族はその地位を失いたくない。けど柳沢とも同意したけどリーダーにはより立派な人にやってほしい。水島が相応しいって言ってくれたリーダーの条件に当てはまる人が増えていくと、斎藤みたいに俺がやってもいいじゃんって人も増えるかもね。だって貴族の皆がみんな本当にその立場に相応しい立派な人物なのかどうかもわからないわけだしね。中にはちょっとどうかなって人もいたかもしれない。間宮、君も市民だとして、なら誰をリーダーにすればいいと思う?」
「え? ……わかりません」
「だよね。だってそんなこと言ったって間宮にも毎日の仕事があるし、当時のアテナイには何万人も選挙権を持ったアテナイ人がいた。誰がリーダーに相応しいのか一人ひとり調べて回るのも面倒だし、学校の生徒会長だって誰を推薦していいのかわからないよね。じゃあ間宮、貴族と平民に違いがないなら、どうやってリーダーや政治を決める人たちを決める?」
「……選挙、ですか?」
「いいね。今から二千四百年以上も前にアテナイ人も同じように考えた。いきなりは変えるのは無理だったから色々な問題を乗り越えてだけどね。その辺りはプリントに書いてあるから後で見直していこう。面白いのはね、アテナイだけじゃなく古代ギリシャではこの立派な人間っていうのを重要に考えた結果、現代の感覚にかなり近い考え方をするようになったんだ。例えばオリンピックもこの頃のギリシャで生まれた。戦争ではなく体育、スポーツで国の優劣を決めるやり方はラップバトルが生まれたのにも似てるね。他には論破もギリシャで流行った。何が良くて何が悪いかわからなくなったアテナイ人は、説得力のある言葉で説明できた人が政治家に相応しいと考えた。論破、弁論術って言うんだけどその先生もいたぐらいさ。でも間宮も言ったけどそれが本当かどうか僕達にはわからない。皆それらしいことを言って、相手の言論の穴を突くのに夢中になった。すると次に誕生したのが哲学なんだ。ただの論破に嫌気がさした人達は本当に正しいのは何か、何が本当に良いことなのかを考えるのが大切なんだと考えた。こうして流れを観てみると、今まで僕達が話し合ったように、あれ? って誰かが思うところから人間の歴史は進んでいくと見ることも出来るってことだね。金森達が考えてくれたようなリーダーが生まれる。でもどんどん国が栄えて、斎藤みたいに俺でもって考える人が現れる。元々いた貴族も悪くないような気もするし、斎藤もいいやつだ。そこでまた間宮みたいにじゃあ誰がリーダーに相応しいかまた考えようとして、そこからまた進んでいく。けどこれは決して、二千四百年後の僕達と関係ない話ではないわけだ。こういう風に考えると、古代ギリシャ、とりわけアテナイは歴史を学ぶ上ではとても重要だと、ぼくは思うんだよね」
「逢坂先生、どうかした?」
「……え? すみません、なんですか?」
葉山先生の問い掛けに、僕は咄嗟に答えられなかった。
見学した授業は二限目だったので廊下を移動しているのは教職員か、教室移動をする生徒達だけだ。たまたま並んで歩く廊下は僕達だけだったので、完全に気が抜けていた。
「もしかして僕の授業はつまらなかった? だとしたら面目次第もないなぁ」
「とんでもないです。相変わらず先生の授業は刺激的でした」
「本当? なら安心だ。なんだか心ここにあらずって感じだったからね」
本当だ。
この立場になって、自分で授業をしてみて改めて葉山先生の凄さがわかる。
先生の授業は、いまの僕にはまるで曲芸のように見えた。
「申し訳ありません。自分の授業との違いに圧倒されていました」
「照れくさいこと言ってくれるねぇ。お世辞でも嬉しいよ」
先生はおそらく、尋ねかける生徒がどのように返事をするのか把握しているのだろう。そうでなければ、あれほど流暢にやり取りをしながら授業を進められるはずがない。
授業前は水上さんのことばかり思い悩んでいたが、始まれば今度は葉山先生の凄さを目のあたりにして僕のキャパシティは限界を超え呆然としてしまっていた。
「じゃ、ここで。あんまり思い悩まないようにね」
それ以上は言及することなく、葉山先生は階段を足取り軽く昇って行った。
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