3-3
「――ん――るの! あ————————め—————ッ‼」
権力の鬼と化した新部長に愛梨と二人で正座をさせられること数分、話が二週目に入った段階で私は聞くことを止めた。嘘をついた、初めから何も聞いてはいない。
そんなことよりもまだ頭の中で辛うじて咲いている線香花火に想いを巡らせることの方が大事だからだ。松葉から柳へと勢いを落とし始めたイメージの残滓。新部長は流石だ。描け描けと命令するクセに私から火を奪おうとするのだから。
「まあまあ三橋、二人も反省してるんだしそれぐらいで————いえ、何でもないです」
見るに見かねたらしい猪狩君が蛮勇にも新部長へ挑む。
しかし雌鶏のように叫ぶ新部長には無謀でしかない。一睨みで退散する。
一度頭に血が上った人間に何を言おうと無駄だ。
それを私は中学時代のゴタゴタで学んでいる。
こういった場合に必要なのは嵐が過ぎ去るのをジッと待つことだ。
悲しみを乗り越えるには時が癒すまでじっと触れないようにするしかないと言った哲学者は誰だったか。アレと同じである。傷口をほじくり返してもろくなことにならない。
「ちょっと! 水上さん聞いてるの⁉」
鶏のような金切り声が再びはじけた。
「もちろん」
「じゃあ私がなんて言ったか覚えてるわけ⁉」
よくもまあそこまで怒鳴り散らかせる。
「五月蠅かった。デザイン作れ」
「わかってるならちゃんとして! あなたも美術部員でしょ⁉」
「……どうされました?」
いい加減痺れそうな足をあげて新部長に別れを告げようと思ったその時、雑務を終えたらしい逢坂先生がようやく美術室に顔を出してくれた。初めて見る困惑気な表情は描かれたような睫毛が度々閉じられることによって見事な色気を感じさせてくれる。
途端に迸る私の脳内物質。オキシトシン、セロトニン、ドーパミン、線香花火ン。
「……逢坂さん」
実習生の前で怒鳴り続けるのは躊躇われたらしい新部長が口ごもる。
ここぞとばかりに私と愛梨は立ち上がった。
「逢坂先生、体育祭で使う横断幕のデザインについて相談していたところです」
「そうなんスよ。そうだ貴利花、ちょうどいいから玲人先生にアドバイス貰えよ。OBの意見ってのもやっぱ大事だろうからさ、一緒にやってみれば? 名案じゃん」
「え?」
「いやなんで貴利花が驚くんだよ」
いや驚くだろう。
「僕が、ですか?」
唐突なことを言われてさらに困惑する逢坂先生。
当然である。
線香花火も弾けて落ちた。そしてねずみ花火のように跳ね回る。
「大学生の話を聞く機会とかないしさ。貴利花も煮詰まってるみたいだし絶対参考なるって。三橋もそれならいいだろ? 実習生と作った横断幕ってのもいい感じじゃん」
「……まあ、それなら」
いや、なにがいいんだ? 不満そうにしているがどっちだ?
今の会話の意味がわからない。
先生とデザイン作りをする? そんなことしていいのか?
もしそれが許されるならこれから金曜まで合法的に先生とずっと一緒だ。
逢坂先生とずっと一緒? 最高の上ってどんな言葉だ? 宇宙? 森羅万象チョコ?
「どうっスか玲人先生。貴利花とデザイン作り、やってみないっスか?」
愛梨の提案に、逢坂先生はその森閑とした顔で何かを考えている。
誰かの言葉を待つことがこんなにも待ち遠しいとは思わなかった。
「……あくまでお手伝い、という形でなら大丈夫だと思います。部活動は生徒がメインで行うものですから、本当にただのお手伝い程度になりますけれど、それでもよろしければ」
ユニバース。
ねずみ花火はグルグル大はしゃぎしながら彼方へと炸裂していった。
どうしてこうなった、そう思うことは人生にして往々あることだ。
エーデルワイス激泣き事件しかり、スレンダー忍激おこ事件しかり、ビーストアイリーンの乱しかり、意図せず自分の言動が他者の激情を呼び起こし謝罪行脚をしなければならい事は私の人生において稀にある。愛梨に関しては悪くないが。
では今回はどうだ?
新部長の説教を免れたまでは良かったが、代わりとして逢坂先生と向かい合って座るというパラダイスパラダイスな状況にいま私はいる。手を伸ばせば届く距離、つまり醤油さしを取るよりも容易く机の上に置かれた先生の雅な手を取ることが出来る。
二人の間にあるのはノートと鉛筆とねずみ花火の焼け跡のみ。
大親友の位についた愛梨や我が身可愛さに私達を見捨てた忍までもいない。
完全に私達だけの空間である。
これはもはや逢引、つまりデートと呼称しても良いのではないだろうか。
「……水上さん?」
「はい」
「その、どうかしましたか? 僕の顔に何かついているでしょうか」
「いいえ? どうしてそのようなことを?」
「えっと、ずっと見られているみたいですので」
「そうですね。でも何もついてはいませんよ」
「……そうですか」
いやしかし、告白するよりも前にデートをすることになろうとは。
しかも二人で絵を決めるなど、もはやデートを超えてすらいる。
まさに、えっちすけっちわんたっち。————え、ワンタッチするの?
「あー、それで、その、さっき衣笠さんが煮詰まっていると言ってましたけど」
「はい」
「どのあたりで煮詰まっているのでしょう。イメージを固めるところですか?」
率先して議論を始めてくれる逢坂先生の頼りがいのあること。
流石は教師を目指す道徳の徒である。声からして私を昂らせる。
「はい、初めてのことですので、どうしていいのかわかりません」
「なるほど。水上さんは普段どうやって作品を作っていくんですか?」
「そ、そんなことをお聞きなさるのですか⁉ 先生がどうしてもとおっしゃるならやぶさかではありませんけど、……照れてしまいますね」
「……僕、そんな変なことを言いましたか?」
「いえ特には」
「……なるほど」
それにしても、こうして向かい合って座ると逢坂先生がよく見える。
思春期を終え完成した肉体は、成長に伴う肌の異常を乗り越えニキビや染みがない。日差しにはあまり当たらないのだろうか。それにしては張りもあるし喉周りの肉も引き締まっている。男性らしい顎の屈強さを持ちつつも威圧感を与えるわけではなく、やはりその玄い瞳の閑かさが精神の雄弁さを物語っていた。髪も過度に整えているのではなく、最低限の身だしなみとしての範疇に収まっているがそれが先生の持つ盆栽のような気配の一助となっている。
要するに、逢坂先生は美しい。
「私はまず頭の中に浮かんでくる絵を描き出していきます。それらは一見すると無秩序でとりとめもない様に見えますけど、よくよく見てみると特定の繋がりがあります。それを見つけてから作品まで連れて行きます」
「なるほど。では今回煮詰まっていると言うのはイメージが出来ないからですか? それともその、繋がり? がよくわからないからですか?」
「前者です。話が早くて嬉しいです」
「いえいえ、ではイメージ作りからですね。その、作品の絵を描く前に色んな絵を描き出していくんですよね?」
「はい」
「それはつまり、描きたいテーマについてはもう決まっていることが多いんですか?」
「いいえ、何か面白いなと感じるとイメージが勝手に弾けていきます。一瞬で弾けていってしまうので急いで写し取っていく感じです。テーマはそこからさらいます」
こうして口にすると走馬灯のようだが、今も頭の中では絵が浮かび上がっている。
心に波風一つ、火種一つないテーマよりもそちらの方を優先したくてたまらない。
きっと何か、面白い何かがそこにはあるに違いない。
「先生はどうやって絵を描きますか?」
「僕ですか?」
「はい」
気になる。
「……僕は、そうですね。尋ねておいていざ自分が答えるとなると難しいですね。強いて言うなら、大枠を決めてその中に必要な物を詰め込んでいく感じ、でしょうか」
「理論的なんですね」
「そう、なんですかね。……なんだか気恥ずかしいですね。水上さんの言ったことがよくわかりました。すみません」
二度目、いや三度目の宇宙誕生である。
照れた逢坂先生は恥じらうように微苦笑し、僅かに首を傾げた。
それを永遠に脳裏に刻み込むようにしっかりと見据える。
先生はもしかして神話で人間を堕落させるために舞い降りたという堕天使なのだろうか。
それにしてはどうにも眩しくて仕方がない。凝視はしているが瞬きをしていなければ網膜は先生で焼けつき、炸裂する無限の光景で脳が焼け焦げてしまうだろう。あるいはその逆か。
辛うじてこびりついていた理性がなければ、この激情に身をまかせ踊り狂っていた。
猥褻とは二人にだけ通ずる私的な繋がりだと言った文学者は誰だったか。
私達だけの恥じらい。私達だけで作り上げる絵。これを猥褻と言わずになんと言うのだろう。
まさしくエッチである。
「話が脱線してしまいましたね。今回は体育祭がテーマなわけですから、そこから広げていくのがいいでしょう。水上さんは体育祭と聞いて何を連想しますか?」
「地獄です」
「は? あ、いや、すみません。聞き間違えたようですね。いまなんと?」
「地獄です。私は体育祭を嫌悪しています。特に球技は人類が産んだ最悪の発明です」
「……そうですか。なら、難しいかも、しれません、ね。うぅん……」
ああ、困り顔の先生も狂おしい。
この短時間で様々な顔を見ることが出来るなんて、愛梨には万雷の拍手と祝福を贈らなければならない。きっと私一人では、このような顔を引き出す機会を作ることはできなかった。何の面白みもないデザインなんぞよりも先生との対話の方が果てしなく面白い。
先生を好きだと叫びたい。
だが我慢だ。
今はまだその時ではない。
強いては事を仕損じる。
いま告白しても間違いなくフラれてしまい、この淫蕩的な時間は線香花火よりもあっけなく終わってしまうだろう。そんな贅沢な話はない。時間はたっぷりあるのだ。
もっともっと時間を共有して先生と一つになった時、その瞬間こそが最もふさわしい。
「先生」
「はい? なんでしょう?」
「新部長に宣告された期限は金曜日です。それまで時間は沢山ありますから、ゆっくりと考えてもいいのではありませんか?」
「それは、そうかもしれないですけど。……大丈夫なんですか? 間に合いますか?」
「はい。デザインなんて弾けて混ざるものですから先生とお話しする中であっさり解決するかもしれません。何事も楽しんだ方が心にもいいでしょう?」
「……水上さんがそう言うなら構いませんけど」
「私、もっと色々とお話ししたいです。愛梨も言ってましたけど、大学生のお話を聞く機会なんてありませんから」
「それでは部活動にならないのではありませんか? お手伝いは構いませんがそれで水上さんの活動の邪魔になるのは良くないと」
「心配してくれるんですね嬉しいです」
「……まだ実習生ですけど、一応は先生の立場なので」
まったく、先生はどれだけ私を悦ばせるのだろうか。
自信なさげに落ちる睫毛の雅さったらない。
「大丈夫です。絵を描くときはいつも雑談から始まりますから」
「雑談?」
「はい。雑談は描くのと同じぐらい面白いでしょう? 発言も発想も自由ですから」
雑談も描くのと同じぐらい好きだ。絶えず変化する話題。瞬間に浮かび上がる言葉。益体も意味もない冗談。そこにあるのは興味深さだけだ。
常に新鮮で感じ入ることばかりの雑談は本当に心躍る。
「……あの絵もそうなんですか?」
あの絵どの絵?
「水上さんが去年受賞した絵です。応接室の近くに飾られているでしょう? 昨日観させてもらいました。あれも雑談の中で思いついたんですか?」
先生の言っているのは去年に旧部長が勝手に応募したものだ。描いた時は面白くて仕方がなかったが、公になったせいでとても面倒な結末になった。わざわざ全校集会で禿げ頭の校長に賞状を手渡されるハメになり、幼稚園以来の受賞に大はしゃぎになった父に展示場で写真を撮られに撮られた曰くつきの絵である。だからあまり絵を発表するのは好きではなかった。
「そうですね、霧島旧部長とホラー映画の話になった時に面白いと思ったんです」
「……ホラー映画で?」
「はい。映画だと幽霊は基本的には女性で、主人公を直視しますね? でも呪われる主人公はあまり幽霊と因縁がない場合が多い。それがなんだか交通事故みたいで面白かったんです。笑い話じゃないのに冗談みたいで。本来命を産み出す女性が殺して、しかも本当なら間断なく連続する人の命が、瞬きのようなカットの連続の中でぽつっと死ぬ。その様子を怖がりながらも座って観ようとする私達。それが不変の絵の中で連続してたら冗談みたいでしょう? だからみんな好きなんでしょうけど」
「……題名は? あの題名はどういう意味なんですか?」
「あれは霧島旧部長に聞かれて適当につけただけです。有名な幽霊の名前の母音が同じだったのがダジャレっぽくてそのまま。特に意味はありません」
正直なところ私の話よりも先生の話を聞きたいが、先生が私の絵に興味を持ってくれるのも嬉しい。恋愛とは一方通行ではないとネットにも書いてあった。
いま逢坂先生は私のことだけを考えてくれている。
あの絵については誰にも詳細を話していない。つまりこれも二人だけに通ずる私的な共有と言えるだろう。まるで睦事、とても猥褻で耽美的である。
物理的な前に観念的なスケッチをタッチするなんて、本当にエッチである。
「……ホラー映画を冗談と思ったことはありませんでした」
「そうなんですか? 先生はどう捉えているのでしょう」
「僕には悲しいジャンルのように思えます。幽霊になったキャラクターもなりたくて成ったわけではないですし、なのに怨霊になって人を呪うことしかできないのは悲しいと思います。ホラーは最終的に完全に解決する話も少ないですし、無力感のようなものを覚えます」
「————————ぷ、アハハハハ! アハッ、アハハハハハハハハハハハハ‼」
はしたなくも声に出して笑ってしまう。
お腹が痛くて仕方がない。
先生の前で大口を開けて笑うのは恥ずかしいが可笑しさは我慢できるものじゃない。
「はぁはぁ、ンンッ、ぷ、ンフフフ!」
「……僕、そんなにおかしなこと言いました?」
「すみませんッ。————くふふ、でも、先生もわかってて言ったんでしょう?」
「あー、えっと、何をでしょう?」
なんとイケずなことを言うのだろう!
まさかツボった冗談の解説を求めるなんて、先生でなければ恥ずか死んでしまう!
「だって、冗談じゃないって言ってるのにホラーと無力感でかけるんですもの! 悲しいもそうですよね⁉ ああ! 呪いもそうなんですね⁉ 遅い遅い。まさかこんなに複数の言葉で冗談を言ってのけるなんて流石は逢坂先生です。後悔先に立たず、だから無力感なんでしょう? 映画は一方的な情報発信で、でもホラー映画は約束事のオンパレードで、私達はそれをすでに知っているんですもの。主人公側も幽霊側もどうしようもなくて、最後にはそう言うしかありませんものね。ほらぁって、————くふふふふ、アハハハハハハハ‼」
考えれば考えるほど面白い。
真面目そうな逢坂先生がまさかこんなにもウィットに富んだ冗談を言うとは、四度目のビックバンである。予想外のボケに人は弱い。実直そうな先生が真面目な顔して笑い話をすればそれはもう抱腹絶倒なのだ。口にしても可笑しさでお腹が捩じり切れそうになってしまう。笑い過ぎて目の奥がチカチカし始めた。
————描こう。
ホラーでほらぁ、この感動はきちんと法螺貝にしなければならない。
「はぁ、はぁ、————凄いです先生。こんなの久しぶり。もっとお話ししましょう? 私、先生とお話してるだけでたくさん描けそうです。やっぱり先生は凄い。母に感謝しないとですね」
「……それは良かったです」
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