2-1
火曜日、大学生になってからは久々の朝早い電車に揺られながら、僕は運転席を隔てる窓へスマホ片手に重たい体を預けていた。
まだ本格的なラッシュには早いからか、乗客はまばらで座席には余裕があったが座れば寝過ごすのが目に見えていた。教科書やらノートやら資料やらがたっぷり詰まった鞄を足元に挟み、あくびを噛みしめながら数年ぶりの景色をぼんやりと眺める。
教育実習が始まり、あれほど見慣れた景色が新鮮となったかと思えば二日目には色合いが失せていた。あんな看板があっただろうか、とらしくない興奮も今はもうない。それよりも幾度も設定した目覚ましアラームを無意味にした原因に頭がいっぱいになっていたからだ。
目をそらしていたせいで暗転したスマホに、メッセージの受信を示す黄緑色のランプがつく。
やり取りをしている友人からだ。
『てか授業って今日からだっけ?』
『そうだよ』
『玲人もついに先生かー』
『実習だって』
『でも先生じゃん。やっぱ緊張する?』
『三時間しか寝てないのに目覚まし一発で起きるぐらいには』
『だよなー。俺だったら吐くね。激さむガクブル丸』
『なんか古くない?』
『知らね。しかしそんな君に、ある名言を贈ろう』
『なに?』
『考えて、感じろ』
『やっぱ古くない? ていうか考えるなじゃなかったっけそれ』
『玲人にはちょうどいいってことだよ。んじゃ俺も家でるわ。今日サボったら単位ヤベェ』
『了解。もうなの? ちゃんと授業でなよ。レポート手伝えないんだし』
『マジメ・チャンに俺の苦労はわかんねーよ』
そんな捨て台詞とともにふてくされた猫のスタンプが表示された。
ちょうど良く乗り換えの駅に着いたので、追い越しの急行に並ぶべく鞄を取りホームに出る。
このまま各駅電車に乗っていても十二分に間に合う時刻ではあるが、身体を動かしていなければ余計なことを考え続けてしまう。どうせ学校についても待機室で同じ状態になるのだろうが、今を乗り切るためには必要だった。
乗車位置に昨日もいた女子高生がカバーに入れたラケットを背負って立っている。
大きさからそれがテニスラケットであるとわかる。制服から母校であり実習先の深早山高校の生徒であるのは一目瞭然だったが、流石にこんなところで挨拶はしない。
不安を忘れるために考えるのは、その女子高生のスカートの丈について。僕が高校生の時は一様に膝上の長さだったが、たった数年でそれは恐ろしく短くなっていた。靴下もニーソックスが主流だったが、スカートに合わせるように踝以下になっている。
一体だれがスカートや靴下の長さを決めているのだろう。いつの間にか変化したそれに合わせなければならない彼女達は大変だ。大学の友人曰く、高校時代の女性は常時流行にアンテナを張り巡らさなければならず、たとえ不満であっても周囲にあわさなければ生き残れない常在戦場の意識であるらしい。大学生になって楽だと思ったのは、制服という監獄から解放されたことだと彼女は言っていた。
個人的に何も気にしなくてもいい制服がなくなったのは億劫と感じていたが、それも性別で大きく違うのだなと思ったのを覚えている。雨風のある日はまだ肌寒いこの季節でも、素足を多く露出しなければならないと誰が提案したのだろう。もし教師に成ることが出来たなら、このような劇的な変化も潮の満ち引きのように見えるのだろうか。
一秒以上眺めているのはとても変態のようなので、一瞥だけに留めて到着する電車に目をやる。運転手は無表情に人が大勢乗る箱を操り、寸分のズレなく乗車口を僕達の前に用意した。
そう言えば、そんな流行り廃りに全く関心のなさそうな女子生徒がいた。
彼女は流行についてどう思っているのだろう。
こんなことは絶対に尋ねられないので、当てもなく思考は言葉をなくしていった。
見られている、そう感じたのは出席確認の半分が過ぎた時だった。
「豊島さん」
「はい」
男女問わず敬称をさんにするようになったのも、ここ数年での劇的な変化だ。
あだ名や男女で別の敬称をつけることがどこかの学校で問題となり、深早山高校はその教育方針としてこれを統一するようになったらしい。
それが良いことなのか悪いことなのか僕にはわからないが、少なくとも学校側がそれを推奨している以上は倣うべきである。年下の男子高校生をさんで呼ぶのはまだ違和感が残るが、実習が数日も経てば慣れるだろうと漠然と思っていた。
それよりも気になるのは、まるで半身だけ日光を浴びているかのようにチリチリと感じる視線の正体。教室中の視線を一点に浴びているというのに、それはまるで触れられているかのような肌触りすらある。
その名前を呼ぶまでの間、逸りそうな点呼を必死に抑え続けた。
「水上さん」
出席確認の意義は、その日の生徒の様子を確認するためでもある。
名前を呼び、返事をするだけの作業であるが、それでも効果的であると聞いた。
まだ出会って二日の生徒の状態を確認することは不可能だと思っていたが、身をもって体験できるとは思っていなかった。
「はい」
名簿から顔をあげて返事をした生徒を伺う。
水上貴利花さんは楚々として丁寧な返事で、そして恐ろしく端正な顔で僕を見ていた。
まるで精巧な写実主義の油絵に描かれていそうな、無駄や余分のない美貌はとても少女とは思えないほど大人びて見える。しかしだからと言って成熟的というわけではなくこの年頃特有の無垢さが絶妙に際立っているので、非現実的な美しさがそこにはあった。
人物画を好む絵描きならば、彼女をモデルにとなるのは想像に難くない。
だがしかし、昨日とはまるで違う眼差しの意味はわからなかった。
変化の理由に心当たりがない。水上さんとは会話らしい会話をしていない。美術部でこの教室にもいる衣笠さんに引っ張られるようにして紹介された時に二言三言話しただけだ。その時も話していたのは主に衣笠さんで、三人組として連れ立っているらしい藤堂さんが次点、水上さんとはほとんど挨拶程度の言葉しか交わしていない。
————もしかして、腕を掴んだことを怒ってるのか?
下校間際に挨拶に来た水上さんが転びそうになった時、僕は思わず手を伸ばして彼女を支えた。後になって思えば余計な気遣いで、手助けがなくとも水上さんは大丈夫だったかもしれないと反省した。
昨今、男性教師の女子生徒への接触は犯罪的だ。流行に乗らずほとんど肌を露出していない水上さんは、あるいは関心がないのではなくそういった事柄に特別な嫌悪感を持っているのかもしれなかった。
————けど、敵意とも違う気がする。
支えられた水上さんの反応は普通だった。感情的になるわけでもなく平然として礼を言い帰っていった。今もほとんど無表情でなにを考えているのかわからない。
ただ異常に意識せざるえない迫力があった。
「森本さん」
「はい」
引きはがすように水上さんから視線を切って次の生徒の名前を呼ぶ。
実習に伴っての注意事項の一つに、特定の生徒に対して贔屓も無視も感じさせてはならないとあった。指導教員として教室の後方に椅子を用意し、何やらクリップボードに書き込んでいる新島先生にも再三意識するように言われている。異性にはとりわけ細心の注意をはらえとも。
もし何か問題が生じていたならば、それとなく調べて新島先生に相談しようと決めて、水上さんの視線については頭の片隅に置いておくことにした。
「————皆さん、出席されていますね」
名簿をぱたりと閉じて、まるで授業でも始めるかのように教室全体に視野を広げる。
そして昨夜から授業とは別に練習していたモノを披露する。
「先ほども言いましたが今日から二週間、朝礼と終礼は僕が担当することになりました。なのでせっかくですから何か小話でもしようと思います。朝のニュース番組のワンコーナーぐらいに思ってください。一応いろいろと用意してありますが、皆さんから何か聞きたいことがあれば何でも気軽に言ってください。大学の授業の事でもサークル活動でも何でも大丈夫です」
新島先生から出された課題の一つに、朝終礼時のスピーチがあった。
教師は人前で話す仕事であり、また生徒から何の気ない質問や雑談を受けた時に流暢に返すことが出来るようになるのが狙いらしい。
授業だけが学校教師の役割ではないと、課題を出された打ち合わせの時に教えられた。
人前で話すのはゼミでの発表でも経験しているが、あれはあくまで同じ学問を共有する仲間内でのことだ。ほとんど初対面の、しかも年下の生徒を相手に話すのはわけが違う。
変な汗が背中を伝う。まるで泣くのを我慢するかのように、喉の奥に詰まりがあった。
「では今日は大学生活についてにしようと思います。深早山高校は公立ですから、ほとんどの生徒はこの地域が出身だと思います。しかし大学にもなれば全国から学生が集まってくるので、中には遠く離れた地方出身の人もいます。今の時代、他の都道府県との違いはあまりない様に感じられますが、それでも似ているようで結構違うことがあります。例えば方言の違いで略語が違う、なんて話が————」
努めて平静を装ってはいるが、膝は今にも震えだしそうだった。
本当に自分が話しているのか、それすらもはっきりしないほど言葉が軽く感じる。
それでも生徒一人一人の表情をなんとか観察する。
真面目に耳を傾けようとしてくれる顔、好奇心を持ってくれている顔、義務として真摯な表情を作ってくれている顔、退屈そうにそっぽを向いている顔。
三十人もいれば三十色の表情がある。
教壇に立てばそれらの意識をつぶさに感じ取れる。
スーツを身に纏い、特に笑えるわけでもない話をする自分はなんだか滑稽に思えた。
「————このように、同年代の学生でも生まれ育った環境で驚くほどの違いがあります。言葉遣いやそれを受け取る心象も、様々ということですね。これを研究する学問もあり、文化人類学と言います。進路先の一つとして、関心を持ってもらえると嬉しいです」
拍手をするほどでもないので、生徒達からはただ話が終わったという弛緩した空気が流れた。
なんとか乗り切った、そんな思いで小さく息を吐く。
たった数分のスピーチでこれだ。これから二週間も続くのかと思うと気が重い。
そしてなんとなく、また視線を件の女子生徒へと向ける。
件の彼女はどのような反応をするのだろうか。
そんなちょっとした好奇心だった。
「……」
水上さんは僕と目が合うと、たおやかな小首をかしげて窓に頭で五回ノックして、まるで車のブレーキを踏むかのように机の下で足首を曲げた。
まるで意味がわからなかった。
「……では、今日も一緒に頑張りましょう」
引き攣りそうになる顔を堪えて、教室全体に向き直り軽く会釈し名簿を持って教室を出る。
扉を閉めると中から生徒達の歓談の声がうっすらと聞こえだし、すぐさま後方の扉から指導教員の新島先生が出てくる。
新島先生は僕と同じ国語科を担当する壮年の男性教師で、あまり表情が顔に出ず何を考えているのかが読み取りにくい。実習が始まる前に学校への挨拶へ来た時に校長から担当として紹介された。打ち合わせの時も淡々としており、指導案の再提出を求められた時はどのくらい駄目なのか掴めなかった程である。良くも悪くも、あまりこちらに関心がないように感じる。
「お疲れ様です」
「ありがとうございます。あれで大丈夫でしたでしょうか?」
二人で並び先生は学年職員室へ、僕は実習生用にあてがわれた部屋へと向かう。
「正直かなり堅苦しい話し方だったと思います。言葉遣いも興味を引くには不十分でした。相手が高校生であることをもう少し踏まえた方がいいですね。授業ではもっと意識してください」
「はい」
しっかりと突きつけられる至らなさ。
実習授業の想定が早くも崩れる。
「けれどあー、とかえー、とかを繰り返すことはなかったので、その点は良かったと思います。口ごもると自信がないと生徒に受け取られますからね。詳しくは反省会でしましょう」
「わかりました。よろしくお願いいたします」
新島先生は返事をせず、あっさりと別れ職員室へと足早に去っていった。
ひとまず、水上さんへの動揺は隠せたと自分に言い聞かせる。
授業は四時間目でそれまで他の先生方の授業見学は予定していない。
これから三時間分も空き時間があるが、それまで考え直さなければならないことは山積みだ。
水上さんについては後回しにして、教室棟の端にある待機室へと向かった。
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