1-3
それはある種、臭いのようなものだった。
一度でも気になるとどうしても意識せずにはいられない。
油絵に使う溶き油の冬の家の裏手のような鼻をつく臭いも、吸い込むと瀕死の重傷を負うがキャップを開けた一瞬は妙に気になる。そして締め直した後になんとなく開けては後悔する。
ようするに私は、逢坂先生を意識せずにはいられないでいた。
所属する美術部はこの学校の旧特別棟にある。改装が済んだ教室棟や新特別棟はともかく、旧特別棟は古の匂いに満ち満ちていた。歴史に焼けて悲鳴の上げる床板。風が吹くと怯えだす煤けた窓ガラス。そんな時代に取り残されたこの建造物を気に入っていた。
美術室にいる限り、私と四十年前の先輩は同じ空間に存在している。
親世代以上の時間軸の少女は、私と同じように絵を描きながら何を思っていたのだろう。夕食が何であるかとか、来年の受験戦争が面倒であるとか、トイレに行きたいがクロッキーに耐えなければならない心痛だろうか。クロッキーがその当時あったのかは知らない。
こんなことを徒然なるママンに考えながら描くのが好きだ。
なのに、いまはそれもままならない。
いつもの定位置、黒板に向かって後方の窓際に陣取ってクロッキー帳に向かいながらも、意識は他の部員と一緒になって作業している逢坂先生に引き寄せられている。
宣告通り部室に顔を出した逢坂先生は、OBである経歴と今も大学で絵画研究会なるサークルに所属しているという話から、新部長によって部活動に巻き込まれていた。
いま、私は先生を見てはいない。
もちろん私の南南西やや右四メートル半前に座っているのは知っているが、そんなことよりも描くことの方が楽しいからだ。義務クロッキー自体は何も面白いものではないが、縛りの中で工夫する遊びと考えれば耐えようもある。
だがしかし、どうにも両肩の先から先生を感じずにはいられない。
いつもなら十全の意識でもって指先に神経を注げるというのに、今は逢坂先生の引力に魂を引きずられている。鉛筆は真っ白な紙に点を付けたままどこにもいかないでいた。
それはもはや、恐怖ですらあった。
「玲人先生ってK大なんだあ。めっちゃ勉強できるんですねえ」
「玲人先生ってどこ住んでるの?」
「玲人先生って————」
作業が終われば初めこそ警戒していた部員達も、ひとたび逢坂先生が見事な腕前を披露し柔和に微笑んで見せればすぐに好奇心を剥きだしにした。先刻から取り囲み矢のように質問を浴びせかけている。まるで怒涛の波状攻撃だ。
別にそれは悪いことではない。優れた存在に魅入られるのは人間の性であるし、興味関心が掻き立てられるのも無理はないだろう。親しみを持つのは罪ではないし、質問の絨毯爆撃を仕掛けるのも当然かもしれない。
だがしかし、いきなり下の名前で呼ぶのはいかがなものか。
染みがついただけのクロッキー帳を片付け、真っ白なままのスケッチブックを机に拡げたまま、私は歯噛みしつつ華やいだ声の雷轟電撃に耐えていた。
「貴利花は話しかけに行かないの?」
自分の作品に取り掛かかり始めた忍が、隣でスケッチブックに下書きをしながら言った。
なにやら肉感的な男性が捩じり切られそうな体勢で描かれているが、苦悶と恍惚が同居したような顔をしているのは完全に彼女の趣味だった。
「不要ね。それになにを話せばいい? まだ質問をしたいほど知らないもの」
「知らないから聞くんじゃない? 彼女はいるんですかア? とかさぁ」
「そんなものはどうでもいい。まずは自分の中で問題を整理してから。質問をするときは、自分がなにをわかっていないのかを具体的にしておかないと相手も困るでしょう」
「そんな大げさなことじゃないと思うけどぉ。ほら、愛梨みたいにさ」
忍の伸ばした指の先、群れる美術部員の中で愛梨は好奇心の塊のような目をしていた。
「先生って美大じゃないんスね。そんなに上手いのにもったいないっスよ」
「……愛梨の尊敬できる才能ね」
「愛梨じゃないと出来ないと思うけどねぇ」
人の懐に潜りこんでも嫌味がないのは愛梨の人柄ゆえだ。
もちろん愛梨が逢坂先生に劣情を催しているとは思っていない。
大方、私が興味あると言ったから関心を持ったに違いない。
多少、距離が近いような気がするがそれは誰にでもそうなので、決して特別過度な好意を抱いているわけではないと窺い知れる。あまり褒められた距離ではないと思うが、それも含めて彼女の爛漫さなのである。いちいち目くじらを立てる必要はない。
「ねぇ」
「なに?」
「さっきからなんで怒ってるのぉ?」
「怒ってる? 私が? どこが? なぜ?」
「……勘違いだったかも。気にしないでぇ」
いつにも増して変なことを言い出す忍である。
「そんなことより今はデザインを考えないと。本当に忌々しいことこの上ないけど」
「そだねー」
しかし逢坂玲人という宇宙人は奇妙である。
本当にあれは現代に生きる大学生なのだろうか。
兄は先生の一歳下のはずだがあれほど鷹揚であるとは口が裂けても言えない。思い立ったが吉日と自転車で日本全国を回り始めるような人間だ。聞けば大学生とは往々にしてそのような生き物らしく、人生の夏休みは絵日記を充実させればさせるほど良いと豪語していた。だが逢坂先生からはそのような奇行性を微塵も感じない。
まるで大正時代を舞台にしたサスペンス小説に出てくる文筆家のようである。周りにたむろし纏わりつく羽虫の如き生徒たちが幼児に見えるぐらいだ。
微笑んだ時の口角など、淫靡と閑麗が共存したセクシャルの極致。
中指のペンダコは、人差し指でさすりたいほど雅。
髪から覗く耳の、秋の彼岸に日の光が地に沁み込む寂寥。
本当に、一体なんだというのか。
「……貴利花ぁ、本当にデザイン考える気あるのぉ?」
「もちろん。どうしてそんなこと聞くの?」
「だって、ずっと逢坂先生ガン見してるしぃ」
「観ていることと考えていることは違う。授業中に窓の外を眺めているからって、憂鬱に耽るわけじゃない。実際は菌糸類と人間の違いは考える茸なのかどうかなのだもの」
「なに言ってるのか全然わかんないけど、でも逢坂先生のこと考えてたんでしょ?」
「そうね」
「貴利花ってほんと拗らせてるよねぇ」
「いたって正常だと思うけど?」
私の不平不満を忍は手をひらひらさせて受け流す。
たいへんに不服である。私の論理の牙城も忍の前では形無しだ。
「なんの話してんの?」
「私は何者であるか、どこから来てどこに行くのかってはな————」
質問攻めに飽きて帰ってきたと思った愛梨の隣には、なぜか逢坂先生がいた。
突如として脊髄を迸る謎の衝撃。指先が痺れる。
とりあえず、私は口を閉じた。
「玲人先生この二人が同じクラスの水上と藤堂っス。もう知ってると思うっスけど」
「どぉもぉ」
「……」
なぜ愛梨は逢坂先生を連れて来たのだろうか。
あまりに当然の出来事に思考が追いつかない。
「こんにちは水上さん藤堂さん。クラスでも部活でもよろしくお願いしますね」
愛梨の意図がこんにちはって言ってもらえた掴めない。逢坂先生のことはゆっくり考うわ、指凄い綺麗えると言ったはずだ。いきなり紹介されてもなんて整った鼻筋なんだろう何を話せばいいのかわからない。心臓が早鐘のようとりあえず適当な雑談でお茶を濁さなければいい匂いがする。しかし初対面の人への話題はあ、目が合った多くない。
「水上さんは油絵を描くそうですね。衣笠さんから伺いました」
「……はい」
「好きな絵画とかありますか? 人物画とか、風景画とか」
「……人物画です」
「僕も好きなんですよ人物画。衣笠さんからは凄く上手と聞いています。いつかでいいので、よろしければ作品を見せてもらってもいいですか?」
「……いつかでよろしければ」
「ありがとうございます。楽しみにしてますね」
帳が降りた。
夢のような時間というものは相対性理論的に素早く進むもので、逢坂先生との三分二十四秒のやり取りはまるでいくつもの流れ星を見上げていたかのようだった。
自分がなにを話したのか、なにを聴いていたのか断片的にしか思い出せない。部活時間が終わるころにはスケッチブックに逢坂先生の尊顔の模写が複数描かれていて、無視していたらしい愛梨や忍は呆れてものが言えないという顔をしていた。
だがこれではっきりしたことがある。
私は逢坂先生の造形が好みなのだ。
明瞭にして明察、明快な真実だ。
なぜなら私がもし仮に先生個人に好意を持っていた場合、会話は一言一句覚えているはずだからである。しかしやり取りのほとんどを覚えていない。そして手元には先生の似顔絵。これ以上の証明はあるだろうか。疑いようのない哲学的解答である。
満足して机の上に転がっていた鉛筆を筆箱に戻し鞄にしまう。
立ち上がり凝り固まった関節を鳴らすのは、新鮮なきゅうりと同じぐらい小気味が好かった。
疑問が解かれた後の解放感はなんとも気持ちがいい。
まるで夏の夜、月の銀の光の中を泳いでいるかのよう。
安らぎと爽快感の同居するエモーショナル。
私はまた、天国への階段を一つ登ったのだ。
「今日は本当に素晴らしい一日だった。小躍りしたいぐらい」
「何がぁ? こっちはさっぱりなんだけどぉ」
どこかやけっぱちに聞こえる忍の言い草。愛梨もげんなりしながら同調している。
時間の流れはやはり個々人で違うらしい。
未だ彼女達は私の問いが解決していない時間軸に生きている。
「先生の造形美に好意を持ったと自覚した」
「……まだそんなこと言ってるのぉ?」
「信じらんない。ここまでいくと天然記念物だわ」
二人は何を言っているのかさっぱりわからない戯言を述べる。
全くもって遺憾だが、しかしこれは仕方がないと言わざるえない。
これはあくまで私の心の問題だからだ。
感情などという形のないモノは視ることも触れることも出来ない。
そして心とは私の脳髄の海にあるのだから、二人が知りえないのも無理はない。
「好きに言っていなさいな。とにかく問題は解決した。明日からは平常運転」
顔をあげると、部員に交じって逢坂先生が片づけを手伝っているのが見えた。
男子が少ない我が校の美術部では、キャンパスや画材を準備室に運ぶのもちょっとした労働だ。教室の端に寄せた机や椅子を戻すのも男手が増えるだけで大いに助かる。
問題が解決し自分の心を正しく理解したので、わざわざ帰りの挨拶をする必要もないように思われたが、しかし先生はうちのクラスの担当だ。一定の礼儀は必要であるしそうした態度が好ましいだろう。
解き放たれた快楽にスキップでもしそうな軽やかな脚をなんとか踏みしめて、理性生物たる人間の所作を維持したまま先生に近寄った。
「先に失礼します先生。明日からもよろしくお願いします」
見てほしい、この自然な立ち振る舞いを。これのどこが恋する女子高生というのだろうか。
中学時代、まだ恋模様が身近にあった暗黒の世紀では熱に浮かされた同級生を幾度か見てきた。彼女達の好意を持つ異性に対する挙動はまさに奇妙。上気した頬も、跳ねるような声色も、少しでも良く見られようとする努力も今の私にはない。
あくまで誠実に、公共の福祉に反さない礼節。
淑女然とした、理想的な人間の所作である。
「お疲れさまでした。気をつけて帰ってくださいね」
先生もにこやかに返事をする。
完璧だ。
先生の声に心臓が高鳴ったが、それは意識しすぎたからだろう。
砕け過ぎず、さりとて慇懃無礼にならぬように会釈して帰路につこうとした。
「————おっと」
「…………」
なにが起こったのかありのまま説明すると、私が躓き転びそうになったところを逢坂先生が助けてくれた。私の左腕上腕部を掴み、転倒しそうになった身体を支えてくれたのである。
掴む力はまったく痛くはないのに、確かな逞しさと温もりを携えて。
「大丈夫ですか?」
逢坂先生の森閑とした声が落ちてくる。
つられて私の顔も、必然的に先生の近くに寄る。
「水上さん?」
目と目が合う。
玄い瞳。
破裂する心臓。
永遠とも呼べる刹那。
私は確かに気づいた。
「……先生」
「はい?」
ぽえぽえぽぇ。
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