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月曜日、私は深窓の令嬢然とした物憂げさに浸りながら、朝礼まで教室から外を眺めていた。
再開発途中の街並みを、窓越しにぼんやり眺める。
深早山高校は小高い丘の上にあり、教室棟の二階からは広がる街並みが一望できた。
私が水上という苗字を気に入っているのは、新学年の始めに窓際の席になりやすいからだ。特に一番前であるのがいい。教壇に立つとわかることだが、この位置は存外に死角になっている。いわば川における淵の部分なのだ。深いのか浅いのかもわからない、鮮やかであり仄暗い鉄色のデッドスポット。
ここで呆けながらのんべんだらりと考えるのが好きだ。
平地に密集する家々を見ていると、時々それがテレビで観た菌糸類のコロニーに見える。動物である私達は数を殖やすための器官に過ぎなく、人間の実態は拡大し続ける町であるというわけだ。私達は町の中で半無制限に増殖し続け、安全圏である町を改良、拡大させて山や平地を開拓していく。まるで菌糸類の本体が茸ではなくその下で拡がっているように。
こんなことを徒然なるままに考えるのが好きだ。
別に何の益体もあるわけではないが、この瞬間は一切の物事から解放された無為な時間に耽溺しているような気分になる。それは人間としてとても贅沢なのではないだろうか。義務として課せられたデザインに辟易としている今、このような時間は蜜のように甘い。面白くもなんともない物事に意識を割くのは曇天の空よりも気が滅入る。
昨夜、私は帰宅してすぐ義務デザインに取り掛かろうとした。
しかし、まったくもってなにも思いつかなかった。スケッチブックを前に鉛筆を持って二時間、ピクリとも指は動かなかった。考えようとすればするほど、憂鬱に思考が押しつぶされたのだ。まるで天井と壁と床がゆっくりと迫ってきているかのような幻覚すら見えた。
あまりにも嫌すぎてふて寝をし、朝目覚めてコロッケとキャベツの甘辛サンドイッチと共に突きつけられたのは梅雨入り宣言。運動と同じぐらい雨が嫌いな私は非常な現実にチャンネルを変えた。そしてお天気お姉さん目当ての兄と喧嘩をして今に至る。
おかげで気分はズンドコ。
自分を慰めるために朝礼と共にやってきた生真面目な担任に見向きもせず外を見ていた。
出席確認にもぞんざいに返事をし、全校集会で紹介された教育実習生のことなどすっかり忘れていた。
ゆえにまずその邂逅は、耳越しから始まっている。
「今日から皆さんと一緒に勉強することになりました、逢坂玲人です。現代国語を担当することになります。よろしくお願いします」
鼓膜を震わしたのは天鼎の調べ。
脳髄の隅々を澄み渡るその響きに、思わず教壇へ眼が向いた。
「僕も深早山高校の卒業生です。高校時代は美術部に所属していました。放課後は顔を出すつもりですので、美術部の方はよろしくお願いしますね。まだ実習生の身でありますから、皆さんと一緒に勉強していきたいと思っています」
鮮烈、いや戦慄?
宇宙人に目を奪われながら、身を震わす激情の正体を探っていた。
息をするのが難しかった。
しかし大きな呼吸音を聞かれたくないので、虫の息で酸素を取り込む。
「逢坂先生は主にこのクラスを担当してもらいます。みんなも快く協力するように」
うるさいハゲ茶瓶、と罵らなかったのは残った理性の賜物だ。
見飽きた初老の担任の隣に立つ、柔和の化身のような面持ちで佇む実習生を凝視する。
まるで墨を溶かしたような美しい黒の、驟雨の如きやや癖のある髪。
気持ちの良いほど個性のない綺麗で整った、雨に溶けた石灰岩のような顔立ち。
鬱葱とした木々の向こう側のような、どこまでも覗き込めそうな玄い瞳。
とても数歳だけしか変わらないとは思えない、しめやかな樹木のような立ち姿。
長身痩躯ではあるものの、頼りなさなど微塵も感じられない。
————なんだ、あれ? というか、なんだこれ?
言葉にもならない疑問が泡沫のように弾けては浮かんでくる。
困惑は当惑となって、心をかき乱した。
とにかく時を止めて、逢坂玲人という人物を隅々まで観察したい。
胸を裂くような痛みは酸欠ゆえか。
とにもかくにも、意識は凍りついたように逢坂玲人という人物に釘づけだった。
「ではSHRは以上。次は数学ですね、みんなちゃんと準備するように」
聞くに堪えない台詞を吐いて予鈴と共に担任は出て行った。
麗らかな午後の日差しのような微笑みで会釈すると、逢坂先生も追随する。
その一挙手一投足を見逃さないように、いや本当はどこに注目していいのかわからず視線は上下左右に乱舞しながら、優美な後姿を眼で追った。
見るべきは柳のような腕なのか、それともその先の新品の鉛筆のような指か。
しなやかな動きの中、僅かに垣間見える倒錯的な徳利の足首。
襟と襟足の隙間にある首の、細くて逞しさを醸し出す頸椎。
————ああ、行ってしまう。
ザルでこしたような音を立てる引き戸がその後姿を隠してしまう。
その僅かな瞬間まで、先生を視界に収め続けていた。
その間もずっと、脳髄では法螺貝が響き続けていた。
昨今では珍しくこの学校では屋上を生徒が利用することが許されている。
昼休みはここで設置されたベンチに愛梨と忍の三人で座り、吹き抜ける風を浴びながら昼食をとる。発起人は誰だったか覚えてはいないが、ここは他の生徒の数も少ないので気に入っていた。風が強い日は落ち着いて食べることも出来ないが、梅雨入り前の物憂い空はギリギリのところで踏ん張っている。さっそくお天気お姉さんは予報を外したのだ。
いつもであれば空を眺めながら、よくよく思うとあれほどの大量の水の塊が浮いているというのは幻想的ではないかとか考えるのだが、今の私はそれどころではなかった。
「なんか普通に優しそうだったよな実習生の人」
「ねー。絶望設定も持ってなさそうだしぃ、なんか真面目そうだったしつまんなさそう」
「蝉の物真似もしなそうだしな」
「そんなの誰だってしないから」
「りゅうこつ座からも来てなさそうだし。な、貴利花。……貴利花?」
朝からずっと胸に渦巻くこの感情がわからないでいる。言葉に出来ないモノは好きではない。
それはつまり私がその事象について無知ということであり、無知は可能性を縮小させる。
可能性の縮小とは不幸そのものだ。
「おーい、貴利花ー」
であるならばつまり、私は現在不幸ということになる。不幸とは不快を伴うはずだ。
しからば何故、私は不快ではないのだろうか。
矛盾である。
水上貴利花は矛盾に陥っている。
不快で不幸ならば、この小躍りでもしたくなるような岩打つ波の如き興奮など起こるはずもない。私には今、お箸で卵焼きを振り回しながら奇声を上げたい欲求があった。
「これ、どうしちゃったわけ?」
「知らない。なんか面白いことでもあったんじゃないのぉ?」
面白い、ユニーク、滑稽、————烏骨鶏?
いやいや待てそうではない。
私が烏骨鶏になっている場合ではないのだ。
しかし私にはこの正体不明の出来事に対する解決策がない。
だって、何が問題なのかもわからない。
「……わからないことがある」
「あ、やっと動いた」
弁当箱から卵焼きをくすねようとしていた愛梨の手を払う。
「ケチ」
「泥棒を懲らしめることをケチとは言わない」
「で? なんで今日ずっと固まってたわけ?」
「……そんなに黙ってた?」
「黙ってたってか、心ここにあらずって感じ。朝からずっと」
「授業で当てられてもガン無視だったもんね。数学の伊藤先生、半泣きだったよ?」
「……全く記憶にない」
「そりゃずっとぼおっとしてたんだから、記憶にないでしょうよ」
迂闊、いや失態だ。
感情に身を任せて公共の福祉を失念していたなど、武士の恥である。
「あとで謝っとかないと」
自分の失態を知らされて、頭が急速に冷えていった。熱と疑問はいくら考えても払われず、さりとて無視が出来なかったせいで他者に迷惑をかけた。これは許されざることだ。ひとまずこれからすべきことは、退屈な数学のノートの写しである。
ちくわのきゅうり詰めを食べながら意識をはっきりさせる。こうしてすべきことが決まっていると言うのはやはり気分がいい。きゅうりも新鮮さを保ち、シャキシャキと小気味の良い音が口腔より頭蓋へ響く。理性人間たるもの、このきゅうりのように引き締まっていなければな
らない。午後の異様に甘く気怠い湿気の中では、居住まいを正すぐらいが丁度良いのだ。
するとおもむろに愛梨が私の頭にチョップをかました。
「待て待て待てぃ、わからないことってなんなのさ。勝手に完結するなよ」
「今はいいことにした。あとでゆっくり考える」
「こっちが気になるって言ってんの! 黙ってたかと思えばわからないことがあるって言って、喋りだしたかと思えば今はいい? アタシは良くないっての!」
愛梨の唾から弁当を守りつつ、しかし私は答えに窮していた。
だからひとまず今でもわかることを素直に口にした。
「端的に言えば逢坂先生のことを考えてる。でもその理由がわからない」
「……へ?」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔、実際にはそんな顔見たこともないし鳥類に表情があるのか知らないが、おそらく愛梨はそんな顔をした。烏滑稽である。
忍もまた、片眉を吊り上げ怒っているのか信じがたいのか理解の難しい表情をしていた。
二人が珍妙なのはいつもなので先を続ける。
「一目見た時から、正確には声を聴いた時から頭が先生一色。ノッキングオンワタシノドアァ」
「……意味不明なんだけど」
「そう言ったでしょう? だから口にしなかった」
語りえぬものについては、沈黙せねばならないと言った哲学者は誰だったか。これはある種の形而上学的感情なのだ。私の思考の限界を超えているのだから、私の言語の限界を超えていると言わざるえない。つまり沈黙とは、そういった哲学的態度による理性の所作なのである。
自分の論理的な態度にうんうんと頷きながら、今度は卵焼きを箸で摘まんだ。
「好きになったんじゃないの?」
「————なんと?」
忍の奇天烈な意見に卵焼きは弁当箱へと帰還した。
「だから、好きになったんじゃない? 逢坂先生のこと」
せせら笑う。
「ありえない。昨日もその手の話は嫌いだって言ったでしょう?」
忍とは一年以上の付き合いではあるが、やはり人と人とが理解し合うことには時間がかかるものらしい。随分と素っ頓狂なことを言うものである。
「だって、逢坂先生のことばかり考えてるんでしょ? 朝からずっと」
「そうね。けれどだからと言ってそれが好きに繋がるものでもない」
これだから恋愛脳は困る。
気になることや夢中になることがすべて恋愛に結びつくわけがない。
そう思ったのは愛梨も同じらしく、私の代弁者として反論した。
「そうだよ忍、貴利花に限ってそりゃないって。きっと何か気になることがあったんだよ。顎の下に剃り残しの髭が一本あったとか、喋る度に左目が痙攣してたとか」
「いや、そんなことには気づいてない。気になったのは声、あと顔、指と足首首周り」
「めっちゃ恋じゃん」
「笑止。容姿だけで恋する理由にはならない。私はまだ先生を何も知らない。なら好意を持つはずがないのは自明の理というもの」
だからこそ、なぜあの人が気になるのかわからないのだ。
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