君と話をするには。

本田千秋

1-1


 日曜日、それは私が所属する深早山高校美術部の昼練時に始まった。

「そう言えば明日から教育実習の先生が来るけどさ。どんな人だと思う?」

 切り出したのはクラスメイトで同じ部活仲間である友人の衣笠愛梨。

 名前とは裏腹に愛らしさよりも闊達さが目立つ少女で、肌は小麦色に日焼けし髪も短髪であるので一見すると陸上部のように見えるが、れっきとした美術部員である。

 愛梨は私の隣で同じモチーフのデッサンをしている。精密な写実画を好む彼女が描くトイレットぺーパーはその陰影が実に見事であるのだが、なぜかその上に実際にはいない蝉を恐ろしく不気味なほど緻密にひっくり返して描いていた。剥きだしの腹が気持ち悪い。

「どうせならあまり力んでない人がいいかなぁ。一生懸命されてもこっちが疲れるし」

 そうこぼしたのはもう一人の友人である藤堂忍。

 私や愛梨とは違い容姿に絶大な注力を払う少女で、今も丁寧な手入れがされている爪を桃色のウッドスティックでさらに磨き上げている。髪も校則違反ギリギリのパーマをかけており狸顔で愛嬌のある目鼻なのだが、忍忍ばないと心の中でこっそりと呼ぶほど歯に衣着せぬ物言いをする。私達とは違い彫刻専門で、今は絶賛サボり中。

 この二人が私の高校の友人。

 一年からの付き合いで、益体なく過ごせる悪友である。

「教師を目指すのだから真面目な人でしょう。趣味がでんぐり返しの方が驚き」

 私は完成したデッサンをスケッチブックから切り外し提出に指定された箱へと持っていく。

 一枚も入っていない箱の中にそれを納税すると、まだデッサン中である真面目な顔した他の部員の間を縫って美術室後方、愛梨と忍のいる窓際に陣取った席へ戻った。

 今度は作品制作用に使っている別のスケッチブックを取り出す。

 冬休みに描いた作品以降のページは真っ白のままだ。

「そんな趣味の人だったら誰でも驚くって。てか面白そうじゃんその方が」

 戻っても愛梨はどうでもいい会話を続けた。

「嫌だよそんなポンチみたいな人ぉ。枯れ果てた仙人みたいな人がいい」

「そっちの方が嫌だって。てかンな人が先生になんかなんないでしょ」

「えー可愛いじゃん。顔の皺は人生だし、垂れた下瞼や離れた下顎の肌の伸び具合なんか最高でしょぉ。元気溌剌なんて吊り上がってるだけなんて萎えぽよぽよぽよぉ」

「何がぽよぽよだよ。貴利花は? どんな人だと面白い?」

 愛梨に問いを向けられ改めて考え直してみる。

 なるほど、確かに人生において教育実習生に注目したことはない。

 彼らは初夏の熱気と共にやってきて、雨と一緒に流れていくものという印象が強い。

 気づいたらいて、いつの間にかいなくなっている程度の認識でしかなかった。

「そうね、宇宙人だったら面白いかもしれない」

「どんな人だよ」

「宇宙人だよ」

「いやそういう意味じゃなくて。何星人なのさ」

「星には詳しくない。りゅうこつ座のどこか」

「りゅうこつ座なんて聞いたことないから。精々オリオン座とかだから」

「愛梨は自分が何座なのかも知らないの? 信仰は人それぞれだけれど、どうかと」

「それ抜きで話してんでしょうがい!」

「だったら愛梨はどんな先生が面白いのぉ? 聞くだけなら猿にでも出来るじゃん」

「誰が猿だっての誰が。アタシだったらそうだなあ、やっぱ蝉の物真似できる人とか?」

「キモっ」

 ツッコミを入れつつ真面目に答えた愛梨を切り捨てる忍。

 一刀両断具合は実に小気味がいい。快刀乱麻もかくやだ。

個人の趣味趣向の尊重に蟲は含まれていないので、もっと言ってその尋常ならざる腹部を描くのを止めさせてほしいものだ。無駄な光沢が実におぞましい。

「面白いでしょうが! ツクツクボウシとヒグラシの物真似したら投げ銭だってするね」

「私虫嫌いアル。萎えぽよぽよぉ」

「鳴き声の話してんだよぽえぽぇー。いいじゃん蝉、ロボットみたいでカッコいいしさ。脚の付け根の部分とかこんな感じでガチャンゴチョン! って感じで」

 熊手のように指を広げた愛梨が虚空で何かをドッキングさせる。

 忍にハッキリと顔を歪めた。

「それ以上詳しく説明したら絶交だから」

「えーイカしてると思うけどなあ。貴利花は? 蝉ってカッコいいだろ?」

「残念ながら私と愛梨は永遠にわかり合うことはできない。新人類になったしても。ジョロウグモの話なんかしたら私の内なる可能性の獣が牙を剥くことになる」

「蜘蛛の話なんかしてないんだけど。しかも蜘蛛って虫じゃないじゃん。節足動物じゃん」

「あれを私は動物とは認めない。動物とは手足が四本でなければならない。それ以上の本数は須らく蟲。いえ、蟲ではなくゲテモノ。またの名を化物、魔物」

「虫は虫でしょ」

「そんな何の解決にもならない台詞はやめて」

「ちょっとぉ、虫の話はしないでって言ったんですけどぉ」

 穏便な言葉で言うところのエキセントリックな愛梨の趣味趣向は尊重するべきなのだが、しかしこればかりは不可能である。小学生の時に父と兄に早朝拉致連行された虫取りにおいて飛んできたカミキリムシが肩に張り付いて以来、私の信仰では彼奴らはこの世界から廃絶すべき魑魅だからだ。山と人間は相いれないのである。

「盛り上がってんな。なんの話してんだ?」

 益体もない素晴らしき雑談に交じってきたのは、同学年の猪狩という男子部員。

 一年の時に同じクラスで、二年になってからは別のクラスに。

 性格は明るく女子の多い美術部にも上手く溶け込んでいる。

 それ以外は知らない。中肉中背で特に語ることのない人物である。

「教育実習の話だよ。どんな実習生が面白いのかなって話」

 よせばいいのに愛梨が律儀に教える。

「そう言えば明日からだっけ。水上はどんな人が面白いと思ったんだ?」

「実習生にどんなも何もない。どうせ二週間でいなくなる」

「水上が言いそうなことだなあ。まるっきり興味なしって感じか」

 なにが面白いのか漫画であればケラケラと文字打ちされそうな笑い声。

 鬱陶しいから早くどこかに行ってほしいが、彼はなにも悪いことをしていないのでそれも言えない。人畜無害は時として虫よりも厄介だ。

 私の内心を知ってか知らずか、友人二人は顔を見合わせ肩をすくめた。

「猪狩はどんな実習生が来たら面白いと思う?」

「俺?」

 他に誰がいるというのか。

「そうだなあ、どうせなら女の人がいいよなぁ。女子大生ってそれだけでワクワクするじゃん? 大人のお姉さんって感じでさ」

 そして問うた愛梨ではなく意味ありげに私に視線を向けているらしい猪狩君。

 なんてつまらない意見なのだろう。質問に対して答えが繋がっていない。

「三人はどうなんだ? 男と女の人だったらどっちがいい?」

「どっちかっつーと、男?」「女の人ぉ」「どっちでもいい」

「ちょいちょいぃ、水上それじゃ話になんないじゃんかよぉ」

 そしてまた、なにも面白くないのにケラケラ鳴く猪狩君。

 この無邪鬼はまるでこちらの内心を汲み取ろうとしない。

 これだから男子高校生というモノはめんどくさいのである。

 こんなものにうつつを抜かす者達の気が知れない。

「ちょっとそこ、サボってないでちゃんとして。一年生にしめしがつかないでしょ」

 我慢の限界が来たらしい新部長から叱責が飛んでくる。

 細いフレームの眼鏡越しに、鶏のような瞳がギラリと光ったような気がした。

「猪狩君も、デッサンはちゃんと提出したの⁉」

「すいませぇんすぐ出しまぁす。……おぉ、こわこわ。んじゃ戻るわ」

 猪狩君はわざとらしい仕草をしてからようやく持ち場に戻っていった。

「猪狩のやつ、ずっと貴利花を見てたよな」

「バレバレだよねぇ」

 二人はからかうようにこちらを見る。その含みは悪戯な表情ですぐにわかる。

 相手にするのもめんどくさい。わざとらしく大きくため息をついてから尋ねることにした。

「……なに?」

「ちょっとぐらい相手してやれって話だよ」

「どうしてそんなことをしないといけない?」

「そりゃだって、なあ?」

 私とて猪狩君の視線の意味ぐらいわかっている。だからこそ相手にしたくないのだ。

 男子という生き物は本当に度し難い。少し話をしただけで親密になったと勘違いするし、イベントごとに相手をしなければならないのは本当に疲れる。この前もろくに話したことのない先輩に言い寄られたが、事後処理も含めて大変だった。

「私がそういうの嫌いなのは知っているでしょう」

「でももったいねえじゃん。それに何事も経験だって言うだろ?」

「その経験とやらのせいで迷惑を被ったから嫌いになった」

 あれは中学二年の秋の事である。

 クラスの中心にいた女子が好ましいとお触れを出していた男子が、こともあろうにろくに話したことのない私に交際を申し込んできたのだ。当然だが私は拒否した。中心女子の意中の相手であるし興味もなかったからだ。しかしその事件が広まると、なぜかその女子は私を目の敵にし始めたのである。まったく度し難く抗議をしたのだが、理性を失った彼女はまるで聞く耳をもたなかった。嫌がらせはエスカレートし私が答案用紙の裏に描いた無限本棚の絵を破り捨てるまでに至る。彼女とはそこで思いつく限りの報復をしてから話していない。

「私も忍ぐらい細身だったらよかったのに————」

 言い終わるや否や、忍は私の両肩を熊みたいな力で引っ掴んだ。

「……なんて?」

 そしてその瞳には、獣にはない恐るべき殺気。

「だ、だって、これ、邪魔だし……」

 私の声が震えているのは生命の危機を感じたからである。

 自分に非がなくとも、圧倒的暴威の前に人間は無力だった。

「それはね、傲慢って言うんだよ? 貴利花ちゃんは上級国民なの?」

「違います……」

「だったらそんなこと言ったら駄目だよね? 貴利花ちゃんは言っていいことと悪いことの区別もつかない馬鹿なの? それとも上から目線で私を見下してるの?」

 助けを求めようと愛梨に目配せを送ったが、薄情者は決してこちらを見ようとしなかった。

すでに描き終わっている蝉に電灯のような天使の輪をつけて提出に逃げ出す。

「ご、ごめんなさい」

 友人が当てにならないのですぐさま謝罪をし、事態の収拾を図る。

 しかし忍は人類に終焉を告げる堕天使のような笑みで言った。

「ゆぅるぅさぁなぁいぃ」

 万力の如き握力! 射殺さんばかりの眼光!

 狂気の幕が上がろうとしたその時、救いの鳴き声がけたたましく響いた。

「ちょっとみんな聞いてくれる⁉」

 雌鶏のような新部長が声をあげたのだ。

 彼女があのような声を出す時はたいてい面倒事が起こるのだが、今回ばかりは金の卵でも産まれたのかとばかりに拍手したくなった。

「ほらっ、部長が呼んでる」

「……チッ」

 忍は目の前で親の仇を逃がしたような顔で手を離した。

 普通、友人に舌打ちをかますだろうか。両肩はまだ痺れるような痛みを残している。

 とりあえずほっと胸を撫でおろして新部長の方へ眼を向けると、ぼちぼちとデッサンを描き終えたらしい部員達の中心で彼女は腕を組みながら立っていた。

「月末に体育祭があるのは知ってるでしょ。一年生に説明するけど美術部は伝統的にその年の横断幕を制作します。デザインも含めて全部を美術部で担当することになってるの」

 元々なかった興味は、砂漠に残された最後の井戸が枯れ果てるように霧消した。

 すぐに新部長から意識を切り離しスケッチブックに鉛筆を立てる。

 なんとなく思いついたのは鳥小屋で翼を広げる鶏の絵。

 別に作品として油絵で仕上げる程でもないが、暇つぶしに耐えうるぐらいの強度があった。ユニークなのは翼を広げて奇声をあげる鶏の脚である。細く頑強な肌と爪、それらがピタリと閉じられたイメージしかできないのはなぜだろうか。人間がどっしりと構えた場合、両足は少なくとも肩幅よりも広く取って構えるような気がするが、しかし鶏では恐らく肉体の構造上の問題か、歩く時ですらピタリと狭く閉じられている。するとどうにも神経質で滑稽な立ち姿に見えるのだ。

————コケコッコーと鳴くから烏骨鶏で滑稽? この言葉を最初に考えた人は本当に天才。

「————りか、貴利花」

 忍の声で意識を浮上させる。

 何事かと彼女を見ると、厄介事ここにありという顔で眉を上げる。

 訝し気に思っていると、辺りがやけに静かなのに気がついた。美術部員が一様にこちらに注目しており、今にも叫び出しそうな雌鶏が顎をツンと上向けて私を睨んでいる。

メンドイ事である。

「……水上さん、私の話きいてた?」

「もちろん、去年通りにしてくれて大丈夫。私は邪魔しないから」

 小学生時代に無理やり参加させられたドッヂボール大会で男子に顔面をぶち当てられて以降、私は体育というモノを忌避している。運動神経が枯れ果てている人間にクラス対抗競技などという晒上げ行為を強制する運動会はその最たるものだ。

 しかし私怨で邪魔をするのも社会生物である人間の振る舞いではない。ゆえに私は去年、すでに引退した霧島旧部長と共に一切の作業を行事が好きな旧副部長と新部長に任せたのだ。

極めて理性的で、公共の福祉に則った態度であると自認している。

「やっぱり聞いてなかったのね。今年は全員参加。美術部の皆で作業をするって言ったのよ。水上さんだけサボりなんて許されないから」

 まさかの恐るべき布告。

 新部長の死角に立っている愛梨が首を絞める仕草をした。全くもって同意である。

 しかしここで歯向かうと金切り声が響き渡るのは目に見えていたので、楚々として微笑み下手に出ることにする。

「なら背景の塗りを担当します」

 邪魔くさいことこの上ないが、それぐらいならばやむ得ない。

新部長はその座に就任してからというもの(いの一番に手を挙げた彼女の勢いに誰も何も言わなかっただけだが)、色々としち面倒くさい改革ばかり行っている。

デッサンの提出もその一つだ。霧島旧部長時代にはなかった義務だが、新部長は就任後まず初めに行ったのが増税である。顧問が幽霊顧問なので誰も指導する立場にいない我が美術部において、新部長は運動部の如き義務の押しつけこそが正しい運営だと信じ込んでいた。

「水上さんの役割はもう決めてあるから」

 ————は?

「あなたには横断幕のデザインをしてもらうから。次の金曜日までに提出して」

 意味のわからない受胎告知に呆然としていると、新部長はなにやらノートを取り出しその他の作業日程と役割分担を割り振り始めた。

慌てて立ち上がり詰め寄る。

「どうして私がしないといけない? 去年のようにあなたがすればいいでしょう」

 あんなにも前のめりで旧副部長と考えていたのだ。行事には率先して参加したい好き者のはずである。期限を超えても考え込むほどなのだから、また自分でやればいい。

「……去年水上さんサボったでしょ。だからよ」

 新部長は目も顔も上げずに言う。人と話す態度とは思えない。

「それがデザインをしなければならない理由にはならない。他にもデザインしたい人はいるでしょうし何なら部員全員で公募すればいい。それが公平というものでしょう」

「そうしたらどうせあなたはサボるでしょ」

「……」

「三年生の引退式も手伝わなかったよね」

「……」

「その前の写生会も霧島先輩と抜け出して全然関係ないところにいたよね」

「あれは霧島部長が誘ってきたからついてっただけ」

「その霧島先輩は時間になったらちゃんと帰ってきたけど? 水上さんだけ夢中になって戻ってこなかったよね。引率の近藤先生に探すよう言われたのは私なんだけど」

「……」

 旗色が悪いのは明らかだった。

 すぐに愛梨に助けを求める。

(諦めろ)

 ただちに忍に助けを求める。

(ぽよぽよぉ)

 恐るべき友人達だった。

「それで? どうするの?」

 私に反論の手札がもうないと気がついたらしい新部長が勝ち誇ったように言う。

 それから十分間沈黙して睨めつけたのち、しぶしぶ白旗を振るのだった。

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