第2話 願いは決まっている 

 俺がこの家に来たのは、まだ朔太郎が生まれる前だった。

 俺は一歳になる前で、初めての修行だった。何の修行かって?それはつまり、家猫のさ。俺たち猫は、人間に飼われなければ自然の中で生きて、勝手に死んでいくんだ。誰も死ぬとこなんか見ない、そんな死に方だ。だが、人間に飼われたら修行が始まる。人間と一緒に居るってのは、或る意味楽だが大変なことも多い。例えば悲しさだ。

 俺たちは、もともと悲しさなんか知らない。野良で腹が減ってようと、悲しいんじゃない。なんにも持ってないからだ。いいか?生き物ってのは《無くすこと》が悲しいんだ。無くす物のない者は悲しくない。得ていないものを無くせる奴は居ない。だから、野良は悲しくなんかない。そこへいくと家猫は――。得てしまっている。だから悲しいも知ってしまう。人間には、たまに凄くイヤな奴が居る。乱暴で、勝手で、俺たちにとっては有り難くない――そんな連中だ。そんな連中と縁が出来ると、それが終わるのは凄く有難いんだ。だが、中には優しい奴が居る。そいつに当たったときが修行開始さ。なに、特別なことをするわけじゃ無い。ただ傍に居るんだ。抱っこされたり撫でられたり、エサを貰ったり、たまに爪を切られたりもするが、修行の一環だ。俺たちがちゃんと家猫になるための、な。猫として生まれてるんだから《猫になる》ってのは妙な言い方だ。それでも、そうなんだから仕方ない。野良のままでも猫は猫だ。が、修行じゃないんだ、それは。ところで、猫の世界には〈ななどの猫〉――って言葉がある。いや、滅多には無いことなんだが、ある条件が揃うと俺たちは《最初の買い主》から離れずに、死んでもまたそいつの傍に現れることがあるんだ。そしてこれも滅多に無いことだが、それを繰り返すときがある。何が条件かは教えない。知ってしまえば狙って出来るからだ。そう、朔太郎はその条件を満たしたんだよ。六度全てで。え?七度じゃ無いのかって?ああ、六度だ。朔太郎が猫を飼ったのは、生涯で六度。この俺が六匹目だ。じゃあ七度目って何だ?って言うんだろう?それはな――。


「ジージ!」


 話の途中で朔太郎が咳き込んだ。それは、ひどく弱々しいものだった。


「順番が近づいたんだ。心配ない。苦しそうに見えるだろう?実際、苦しいんだ。だが、苦しんでるのは身体だけだ。朔太郎の心は、苦しみの中にはもう居ないから安心しろ。その順番に並ぶと、心というものは一切から自由になるんだ。それでも、誰もその順番を二度も経験した事はない。だから、何が起こるのか並ぶまでは不安もある。それでも順番は全員に来る。並んだ朔太郎は知っているんだ。苦しそうだが怖れるな――朔太郎もそう言っている」

「え?ジージの言ってることが分かるの?」

「あぁ…。分かる。朔太郎はこう言っている。怖くない――明音は怖がらなくて良いんだよ――順番なんだよ――って」


 明音は朔太郎の顔を見た。口は動いていない。咳は止まったが、相変わらずその胸は息をしているような動きを見せない。朔太郎の鼻に付けられている管を、明音は見た。


「本当に苦しくないの?〈こころ〉って」


 クロは項垂れた。


「本当だ」

「〈こころ〉が苦しくないって、痛くないこと?」


 項垂れたまま、クロは朔太郎を見つめて首を振った。


「痛みは痛みだ。誰だって辛い。いつだって。だが、本当の苦しみは痛みそのものじゃない。痛みの最後には大好きな者達と離れねばならないのか――という、つまりは無くしてしまうことへの悲しみだ」

「ジージは、ずっと明音と居たいっていつも言うよ」

「そうだな。それは本当だ。では訊くが、明音はジージがいつまでも苦しんでいても良いか?」

「そんなのいや!」


 叫んで布団を握りしめた。朔太郎は、いつもの穏やかな表情で眠っている。


「なら並ばせてやれ。並ばずに目を開けて――と頼むな。朔太郎は、明音を大好きだが、いま別の世界へ行こうとしているんだ」


 明音の瞳が涙で揺れるのを、クロは伏し目勝ちに見ていた。


「そこって、苦しくないところ?」

「ああ、そんなものは無い。それに、そこは朔太郎にとって特別な場所なんだ」

「特別?」

「特別だ。そこには人間は滅多に行かない。いや、行けない――と言うべきだな」


 クロは、話を続けた。


「そこは、とても静かで、暖かく、何もかもが柔らかな世界だ。空気は澄み、空はいつも春のようだ。少し見るとあたりには何も無いようだが、触れる場所触れる場所、踏む先々に花が咲く。緑が茂る。水の湧く泉も、澄み切って底まで見える。そんな場所だ。そして何よりもそこが特別なのは、そこでだけ、願いが本当に叶うからだ」


 不意にアラームが鳴り響いた。その意味を明音は《大変なこと》と聞かされていた。それが鳴ると、医者にも報せが入る仕組みだとも聞いていた。明音は朔太郎の手に触れてみた。起きさえすれば握り返してくれる優しい手だ。皺だらけだが、温かい手だ。だが、いま握り返してはくれない。


「ジージ…?」


 クロは目を閉じて居る。


「ジージ?ジージ!」


 明音は叫んだ。だが、朔太郎の目が開くことはない。深く穏やかな眠りの中にいる――そんな風に見えるが、ただの眠りで無いことは明音にも分かった。

 明音は脱兎のように部屋を走り出た。


「バーバ!バーバ!ジージが!」


 明音の足音を遠くに聞き、クロは呟いた。


「さあ、俺も行かなきゃ」


 クロは朔太郎を見つめた。


「覚えているか、朔太郎。俺は今もハッキリと覚えているぞ。小さかったお前が、初めて俺の頭を撫でてくれた日のことを。お前が、あの日俺に願ったことが全てだった。小さなお前は俺に言ったな?ずっと僕のクロでいますように――って。俺も思ったよ。この子供と、ずっと一緒に居られますようにって。その時、俺とお前に因果は生まれたんだ。どんなに離れたくないほど仲良くなろうと、必ず遠く離れる日が来る。家猫になったことで知った悲しみだ。悲しみを知るのは、悲しまない――を捨てることだった。ありがとうな、俺に悲しまないを捨てさせてくれて」


 遠くから足音が近づくのが聞こえた。クロは静かに目を閉じた。


「最初の俺が年取ったとき、お前はまだ十歳だった。俺は楽しかったんだ。本当に楽しかったんだよ。最初の俺がお前から離れるとき、お前の涙が俺の頬に落ちた。あれが第一の条件だった。あのとき、俺は必ず戻るって誓ったんだ。そして最初の俺は消えた。それからお前は親に〈せがんで〉二度目の黒猫を飼った。それにも同じ名を付けてくれた。それが〈ななどの猫〉の第二の条件だった。何度飼おうと、同じ名を付けることさ。だから俺は戻って来られたんだ。お前のお蔭だ。二度目も楽しかったよ。またお前の傍に居られたんだからな。だがそれだって終わるときは来る。身体の終わりだ。そしてまたお前も俺も願ったんだ。何度も何度も俺が、お前が、出会えますように――って。そうしてその願いを六度成就させた人間は、選べるんだ。次に人間になるか、猫になるかを。ただ、猫として生まれ変わるなら最後の条件がある。それは、六度目の猫に看取られることだ。その条件もクリアして、猫を選べば、それが《ななどの猫》だ。《ななどの猫》は何に生まれ変わるかを選ぶことが出来る。人を選べば人として死ぬ時に人の天国を選ぶことが出来る。猫に生まれ変わればその生涯を終えたあとで六度目の猫の待つ猫の天国で永遠にともに過ごせる。そして六度目に飼って人を看取った猫は、願いが叶う。俺の願いはとうに決まってるんだ。ただ、お前がいまから何を選ぶのか俺は判らない。それでもな、朔太郎、俺とお前は――」


 貴子と明音が駆け込んできた。


「さあ、俺ももう行かなきゃ」


 クロは、最後にもう一度朔太郎の顔を覗き込んだ。眠っているような顔には、微かな笑みが浮かんでいる。クロは目を閉じ、朔太郎の頬に自分の頬を擦りつけ、鳴いた。


「ニャア…」


 朔太郎の名を叫びながら、貴子は救急車を呼んだ。その様子を見てから、クロは縁側に出た。

 柔らかな陽が庭の草木を温めている。朔太郎と何度も遊んだ庭だ。今年も同じ花が咲いている。クロは庭に下りると、ユッタリ尾を振りながら草陰に入っていった。

 よく昼寝をした木の根の上に寝そべると、庭を眺めた。自分と遊ぶ小さかった朔太郎が見えた。幼い自分も見えた。どちらも笑顔だ。前足に顎を乗せ、目を閉じかけたとき、一匹の猫が庭を歩いてくるのが見えた。それは透けていて、まだ頼りないものだったが、クロの前で腰を下ろし、クロを見つめた。クロは目を閉じた。


「順番だ」


 クロは待った。願いはもう決めてある。クロは自分から力が抜けていくのが判った。


 何時間か、慌ただしいときが明音の家で過ぎた。大人達も泣いていたが、明音も泣いていた。その明音が、クロの居ないことに気づいたのは夜になってからだ。泣きはらした目の明音は庭にクロを探した。クロは木の根に頭をもたげていた。呼んでも動かないクロを抱き上げ、明音は泣いた。ふと、自分の足下に何かが動くのを感じた。葉陰から顔を出したのは、黒い猫の子供だった。

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ななどの猫 宝力黎 @yamineko_kuro

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