ななどの猫
宝力黎
第1話 クロと明音
「ママ、早く来ないかな」
縁側に腰掛け、足を揺らして明音は呟いた。
庭の向日葵は先週よりも背を伸ばし、微かな風に揺れている。
「園のホゴシャカイ、まだ終わらないの?」
振り返ると、祖母の貴子は居間のテーブルに突っ伏して寝息を立てている。明音は溜息を零した。
「つまんないなあ」
膨れた明音だったが、不意に笑顔になった。
「そうだ!クロ、遊ぼうか!」
見回したが姿が見えない。母の実家で飼う黒猫は、明音と仲が良い。先刻までソファーに寝そべっていたはずの、そのクロの姿が見えない。
「あれ?クロ?クロ、どこ?」
日の当たる庭に下りていることはあるが、呼んでも姿を見せない。
「どーこー?クロちゃーん!どこですかー?」
祖母の近くにも、その隣のリビングにも居ない。明音は廊下の先へ向かった。あと居そうな場所と言えば、《そこ》しか思い当たらない。見ると、奥の間の襖が十数センチ開いている。
「ジージ…?入るよ?」
「ジージは眠っていないと疲れちゃうから、あんまり無理言ってはダメよ?」と、常日頃言われていたが、明音は曾祖父の朔太郎が大好きだった。
襖をそっと開けると独特な香りがした。明音は目を閉じてそれを吸い。目を開けた。クロは、朔太郎の枕元にいた。
「あ、クロ、やっぱり!」
漆黒に見えるが、陽に当たると黒虎模様が浮かび上がる黒猫だ。普通、黒虎模様は子猫時代にそうであっても、年齢を重ねるごとに薄くなる場合が多い。が、クロはハッキリとそれを残している。明音は老いた黒猫の傍に行った。朔太郎は静かに眠っていた。
朔太郎が何の病気か、明音は知らない。母と祖母からは《お胸の》とだけ教えられていた。だが、そもそも《お胸の》病気がなんなのか、明音には分からなかった。それでも、いつ部屋を覗いても静かに眠っている朔太郎の横顔を、クロと一緒に見ているのは好きだった。
そんな朔太郎だが、稀に起きていることもあった。そんな時の朔太郎は明音に話をして聴かせてくれた。古い昔話のこともあれば、朔太郎が自分で作った――という話もしてくれた。
息が続かず、途切れ途切れのこともあったが、優しい声で話す朔太郎の布団に顔を当てていると、明音はいつの間にか寝てしまうこともあった。そんな時も、クロは傍に居た。
「ジージねんね?クロっていっつもジージのこと見てるよね?なんで?」
いつもの椅子に腰を下ろして朔太郎の布団に顔を乗せた。朔太郎は息をしていないのでは無いか――と思ってしまうほど静かに眠っていた。
「夢見てるのかな」
「いや」
「え?」
顔を上げて見回した。誰も居ない。朔太郎の部屋にテレビは無い。明音は聞き間違えたのだと思い、もう一度布団に顔を埋めて言った。
「お話聞きたいなぁ」
「いまは無理だな」
ギョッとして顔を上げると、深い緑色の瞳と目が合った。
「クロ…」
「なんだ?」
「喋ってる…」
「変か?」
「だって…」
「まあ気にするな。そんなこともある」
明音は目を瞬いた。クロの口は、喋るとき確かに動いている。
「静かだろ。いつもよりも」
クロの目は朔太郎をジッと見つめている。
「うん。ねえ、夢見てないの?明音はいつも見るよ?」
「見ていない。今はただ、順番を待っているんだ」
「なんの?」
クロは目を細め、明音に笑った。
「とてもいいことの順番さ」
「ふうん?美味しいお店?」
「もっといいものだよ」
「わかんない」
「そうだな。分かるのはずっと先だ」
老猫はそう言うと、溜息を吐いた。
「もう少しで俺の務めも終わる」
クロは明音を見ると、また目を細めた。
「明音とも楽しかったぞ」
「へんなの!」
朔太郎のベッドには宮台がある。その上に座り、クロは朔太郎の顔をジッと見下ろした。
「朔太郎とも、ずっと楽しかった」
「いつも一緒だもんね?」
「ああ、こいつが」
細めた目は何を見ているのか、明音には分からない。ただひたすらに優しげだった。
「こいつが、生まれた時から知ってるが、本当に優しい奴だった」
明音は首を傾げた。
「でも、ジージはおじいちゃんだよ?」
クロはククク…と笑った。白くなりつつある髭がふるふると震えた。
「そうだ。いつの間にかこんなに年をとったな。だが、最初は赤ちゃんだった」
「明音知ってるよ!ジージは、はち…はちじゅ…はちじゅいくつだよ!クロは幾つ?」
「俺か?俺は…今回は十五だ」
「今回は?」
「あぁ、今回は。その前は十六で、その前は十七で…」
明音には訳が分からなかった。クロは、明音に話し始めた。自分のことや、朔太郎のことを。
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