バロン

@MurayoshiHitoki

バロン

「生きる」とはどんな事なのだろう。


出逢う事?

別れる事?

生まれて死ぬ迄の物語?


それとも呼吸を無意識にしている事?



僕はわからない。




僕は今「バロン」と呼ばれている。


バロンとは貴族などの称号で「男爵」と言う立派な呼び名だが「○○男爵」と使用されるべきで「男爵」だけで名前にしているのだから人間は面白い。


今や身体は大きいが勇ましさのカケラも見えなくなった僕には少し勿体無い名だと思うが口髭は立派なもんだ。


‘あの子’がまだ子供だった頃に流行ったアニメの主人公から取った名前で初めは抵抗があったが今となっては気に入っている。


つい最近まで此処にいた子供は少し変わっていて東京の大学に進学し獣医学を勉強してる。


その進路には何やら僕が影響を与えていると言うのだから僕も大した男爵だ。



空が桃色から群青に変わり、そこから黒に光の粒を散りばめる迄の速度が増して、庭の木が着飾った黄色い葉が足元だけを隠し寒そうにしている。


この季節の夕暮れは心臓を優しく握られた様な切なさを感じる事が多いが、何か特別に思い出がある訳でも無い。



「バロン、御飯だよ」


さぁ黄昏時は後にして家に戻るとしましょう。



玄関に敷かれた毛布が冬用に変わっていて新品の匂いが鼻をつくが食器には何時も通りの生暖かく立つ湯気が肺の中まで香を届けてくれる。



子供が居た頃は「お座り」「待て」を意味も無くされ「良し」を言うまで食事を始められなかったが大人‘三人’暮らしは「どうぞ」だけの効率的な流れになっていた。


ゆっくり噛み砕くと言っても硬い物と言うのは魚の骨くらいな物で飲み込んでしまっても問題が無い程度の米と味噌汁とおかずの余り物を混ぜた食事だが僕はこれが一番の好物である。


一度、茶色い硬い菓子パンを砕いた様なご飯に変えられた時は手を付けなかった。


あれは栄養食で育ち盛りの子供に食べさせるもので僕の様な年寄りは好きな物を少量でも美味しく食べたいのである。


次の日に茶色い硬い菓子パンを砕いたやつに柔らかい缶詰肉を乗せてきたが缶詰肉だけを平らげてやった事から、しゃくだとは思うが大好物の「猫まんま」で統一された。



食事が終わると食器を綺麗に舐め「美味しかった、ご馳走様」を伝える。


すると僕は呼ばれ玄関を一段上がり茶の間のホットカーペットの上で保温されると言う至福の時間を過ごすのだが、それもこの時期だけでいつもは玄関で転がっている。



秀明は晩酌が唯一の楽しみだ。


千枝がここに嫁いでからずっと晩酌に付き合い時代劇を見る繰り返しをずっとしている。


その二人の間に僕は陣取る。


この番組の流れは大体決まっていて覚えてしまっているが俳優が何度か変わっているので飽きずに済んでいる。


時代劇と言えば秀明が小学校の学芸会で侍の役を演じると言う時はカツラを被せられ悪代官の役をして斬られてやったものだ。


その秀明も今や先祖を継ぎこの香路寺の住職になって何年も経つ。


駆け出しの僧侶の時のお経は聴けたものでは無かったが今となってはテナーサックスのソロパートを演奏しているかの様な中低音が見事である。


秀明と千枝だけで切り盛り出来る程度の寺ではあるが地元に愛され根付いている。


しかし、若者の宗教離れがここ近年で増え先代の時の様な活気は無く生活は余裕な感じには見受けられないが幸せそうには見えている。



大学に行った一人息子、秀彦の学費や生活費に追われてはいるが「死」に関わる職業で「金」の事は口に出さないと昔からこの家には教訓がある。


しかも本来なら仏教学部に進学を希望していたが縮小するこの業界の事も考え秀明も息子に強い事は言えなかった。



千枝が秀彦と電話をしていて「お父さんにも変わる?」と言うと受話器を渡す事も無く電話を切る。



仲は悪く無いがそんなものなのだろう。




家族は。







雀の歌が大好きだ。


新しい朝を連れて来てくれる合唱団。


真新しい毛布の上で耳を澄ましていると今日は晴れている事がわかった。


奥から千枝が起きて来て「おはよう」と声をかけると玄関を開けてくれる。


子供では無いので走り出し庭を駆け回る事などはしないが境内を一周散策して秀明が起きて来て落ち葉掃除を終えるまで本堂前の階段を上った所で風の匂いを嗅ぐ。


それが済むと秀明は袈裟に着替えて本堂の紫の座布団に腰を据える。

その脇に僕は座る。


そしてテナーサックスの‘お勤め’が始まる。




僕がこの‘お勤め’を初めてした時はまだ「コロ」と呼ばれていた時の事だ。



秀明の先代、一秀に教えられた。


一秀が居なければ僕は本堂に入ることを許されなかったし‘お経’と言うお勤めも知らなかった。


彼から教えてもらった事はたくさんあり彼の事が大好きだった。

そして彼も僕の事を物凄く大切にしてくれた。

とは言っても秀明や秀彦だって大切にしてくれたがそれとはまた訳が違う。



一秀の父親、秀臣は軍医であり戦後に出家してこの寺院に入った。

あの過酷な戦火の中、命と言う尊いものと関わった末に終戦後、誰にも相談もなく修行僧になりこの寺を引き継いだ。


自分の息子には戦争に関わって欲しく無いと中学校を出してすぐ自分が修行した寺に入れる事にした。



しかし本当は一秀には夢があった。



彼はラジオから流れる沢山の楽器がぶつかりながら一つに混ざる外国の音楽に心を躍らせていた。


軍人だった父親には「外国の音楽が好き」とは言えず中学校卒業で修行の道へ進んだが本当は吹奏楽部のある高校への進学を夢見ていた。


ただ諦めた。


確かにあの時代で自分の好きな事を仕事にすると言う現状は無いに等しく、出来る人と言うのは貴族や華族か一部の大金持ちの子供だけであった。



夢を追える事、それが夢だった。






一秀が修行寺に入ると月一度しか会えなくなった。


僕は境内の銀杏の木に綱で結ばれて日々を過ごしていたのだが、あの頃はまだ体も大きくはなかったはずだ。


一秀が帰ると近くの湖畔まで駆けっこをする。


僕と一秀だけが止まって見え、辺りの景色だけが前から後ろに流れて行きその先に見えた小さな水溜りは徐々に近付き大きくなって湖となる。


何時もとの違いと言えば、彼の持っていた木と革でできたバックは見たことが無かったが頑丈そうで高価そうであった。

湖畔に着くと辺りをキョロキョロと見回してバックの開閉の金具をパチンと弾く様に開いた。


その瞬間、今まで太陽が水面をキラキラ光らせていた光源を根刮ぎ奪い取りバックの中の鉄製のタツノオトシゴを照らした。


「コロ、これがサックスだよ」


なんと一秀はテナーサックスを先輩から中古で仕入れたのだ。

誰かに自慢したいが誰にも言えず僕に見せたのであろう。


太陽光が反射する程まばゆい木管楽器を目を凝らして見つめた時、僕は本堂の仏像も外に出したらこの様に変身するのでは無いかと思った。


ぶぉーぶぉーとただ咥えた穴の中に息を吹き込み指をパクパクさせているが何の音楽でも無い単調な雑音を聞くたびに彼の周りをはしゃいで走り回った。


修行寺の近くの山でも練習しているとは言うが正解を聴いたことがない為、そう言うものだと思っていた。



月一の帰省の度に音色はどんどん優しく妖艶に響き湖の中の世界を想像させるくらいになった頃、僧侶としても独り立ちの許可が降りここに戻って来た。


一秀は修行から戻り父親と二人三脚でお勤めに励んで、この寺と地域の為にできる事はなんでも頑張ったが金色のタツノオトシゴの事は二人の内緒であった。



何年後であったであろうか悲劇がこの家を襲った。


一秀が初めて「僧侶」では無く「和尚」として勤めた儀式は喪主でもあった。


両親を事故で失ったのだ。



広い本堂に檀家さんが多数訪れ各々に故人の話しをしているのを見ると惜しい人を亡くした事がわかり僕も思い出に浸っていた。


そこへ亡き秀臣の紫色の座布団に正座し最高位の配色の袈裟に身を包まれた一秀が涙を流す事も無く葬儀を始めた。

その横に一秀の唯一の家族の僕は座り本堂の仏像達と大勤めを見守った。


身内ながら立派な葬儀だった。



傷は癒える事は無いが二人暮らしの中で確固たる絆が生まれて育って行った。



この頃であろうか



僕が人間の言葉を大体理解出来るようになったのは…







一番初めに覚えた言葉は「コロ」だった。


初めは何の事を言っているのか全くわからなかったが多分自分の事だと認識したのが初めだ。


その後


お座り

お手

おかわり

待て

ごはん

おいで


を覚えた後は中々覚えなかったが一秀と二人になってからは色々とわかってしまい、文法などは浅いが単語を理解する事で大体の話が伝わる様になって行った。



あの時もそうだ。


「コロ、一葉は僕の妻になる女性だよ」


一葉とは一秀と家族になる外から来た女性と認識できた。


彼女は僕までも大切にしてくれた優しい女性で心の底から「一秀と一緒になってくれて良かった」とずっと思っていた。


彼と彼女の会話は何時も幸せな空気が流れていたので「言葉」を理解しやすかった。


二人は僕に「好き」とか「愛してる」は言うのに当人同士では言わないが、その言葉を僕に発した表情で愛情に溢れている事がわかった。


三人の生活で楽しかったのはスピーカーから流れる外国の音楽に合わせて一秀がサックスを奏で、その旋律の川の上を一葉の歌がその名の通り笹舟が一枚流れる様に響き揺れる。


僕は尻尾だけでリズムを取っていたが、もし人間の声帯が有ったのであれば‘一葉の笹舟の上にもう一枚綺麗な葉’を添えたいくらいである。


「コロはリズムが良いな」


何時もそう褒められ一頻り楽しんで眠りに就く。

家族は増えた分だけ幸せになると思った。



気付けば二人きりになってしまった家族は四人になった。


僕より小さな小さな生物の名前は「秀明」と命名され先代に飼われた僕にとって二人目の後輩ができたのである。


僕より言葉を理解しておらず

僕と同レベルの声帯。


何とも可愛い生物は温めたミルクの香りに包まれていた。


僕の耳や尾を引っ張ってみたり

定期的に並ぶ牙や人の倍の長さのある舌が楽しいらしく手を突っ込んで触ってみたり…


四足歩行もままならないくせに必死に僕を追いかけて来る姿は本当に愛らしかった。


一秀と一葉の全愛情は秀明に注がれるはずだったが僕への愛情も減る事は無かった事を思うと本当に家族と言う絆で四人は結ばれたのだろう。



何時の間にか僕より大きくなった秀明は学校へ行き友達ができても僕を大切にしてくれた。


幸せだった。


僕が迷子になるまでは…








僕は後悔している事がある。


一つはトラックの荷台に乗ってしまった事。

もう一つは言葉を知っている事だ。


あの日は厄介だった。

庭の柿の木から落ちた実が地面で潰れてしまう位の時期に外で遊んでいると冬眠前の熊が境内に腹拵えに来たのだ。


僕は慌てて近くにあった幌が付いた宅配便の軽トラックの荷台に隠れたのだ。


運転手が玄関から出てくると熊は木の陰に隠れたがこちらを伺っているので身動きが取れなかった。


そのままトラックは街の方に走り出したが当分熊が付いて来たところを見ると荷台の中から匂うイチヂク、葡萄、桃などの香りを追って来たのであろう。


運転手は振り切った事も知らずに街に着くと僕は荷台を降り、家の方向へ歩き出す。


これは本能と嗅覚である。



さあ、ここまで歩けば一本道だ。


そう思った時、僕はトンボやバッタを捕まえる様な網で捕まり車で搬送され檻の中に入れられた。


保健所と言う場所だ。


中に入ると両側に二段積みになった檻が幾つも並んでいて沢山の仲間が入れられていた。


この何故か寂しく冷たい感じには覚えがある。

本堂の左にある納骨堂の様であった。


職員が僕の前で会話をしている。


「大きな年寄りだな」


僕が言葉がわかる事も知らずに続ける。


「これじゃ貰い手も無いだろう。処分になるかもな」



処分。


元々は家族として向かい入れられた僕達は色んな理由で捨てられたり手放されたりしてしまうらしい。

その数が増え、野生化してしまうと事故が多発すると言うので‘殺処分’されるのだ。


素敵な人間としか付き合いのない僕には信じられない現状を見せ付けられた。


入り口から向かって右の列の一階の一番手前の檻で大人しく呼吸を続けている。


同じ列の一番奥の檻から声が聞こえ無くなって二日後その隣の一番騒がしかった声も聞こえ無くなった。


その順番で行くと後何日もすれば僕の番なのだが様子が変わったのは朝に来た白い髭を蓄えたおじさんが来てからだ。


入り口の反対の部屋に連れて行かれるとそこには「処分」が待っているのだが一頭一頭入り口の方に出されて行き、一番最後に僕も出された。


全八頭がトラックの荷台に乗せられあの時を思い出し恐怖を感じていたが車は何時間か走り、付いた場所は山の中の大草原だった。


僕達は放たれ自由に走り回る。


よく見るとそこには沢山の仲間や馬や牛や鶏がのんびりと生活をしていた。


命を救ってくれたおじさんは揺れる椅子にもたれかかりながら天国でも掛ける様な僕達を見て笑っていた。


暖かい小屋と食事を何週間か繰り返していると僕は一秀と一葉と秀明の事が気になって仕方がなかったのだがトラックの移動時間を考えたら到底帰れる距離では無い。


帰る事は諦めたが家族を忘れた日は一日足りとも無かった。


朝、雀の合唱団が目覚めを告げると太陽の方に向かい座り目を閉じ首部を垂れ、三人の幸せを祈るお勤めを毎日忘れずにした。





今此処には保健所から来た同僚は一頭も居ないし、あの時の先輩動物も誰も居ない。


白髭のおじさんも居ないが白髭の息子がこの農場を引き継いで新しく保健所から後輩を連れて来て沢山の動物達と生活している。


僕だけが死んでいない。


僕はどの位の年月を生きているのかすらわからない。


僕を一番初めに家族にしてくれた秀臣と言う名の住職は戦争経験者である。


その曽孫まで見ているところから多分人間の寿命の三倍は生きている。


そうなると勿論動物達の寿命は短いので沢山の死と向かい合って来た。

何故自分だけが死なないのかなんて何度も考え過ぎて忘れた。



この日は珍しく近所の学生達が野外授業で牧場に来ると言う事で全員が2日がかりでお風呂に入れられた。



たくさんの子供達が写真を撮ったり一緒に走ったりしたのだが子供達の笑顔を見ると秀明と言う一秀と一葉の子供を思い出した。


元気であろうか?


生きていたらもう大きくなっているのであろう。


そんな事を考えていると小さな女の子が寄ってきて僕を気に入って離さなかった。


「ねぇねぇ写真撮ってー」


撮影会の始まりだ。


「ちーちゃんより大っきいけど可愛いね」


その辺の子供に比べたら何十年も生きている僕は大きいには違いないがヒゲは人間のヒゲとは違く口の周りから下に垂れるヒゲで牧場の端にある藤の花の様なので年寄とはイメージが違う。


ちーちゃんと男の子は僕を離さなかった。


その日の自由時間全てを僕に費やしてくれ、僕も昔愛された日々を思い出した。


そんな時間もすぐ過ぎて子供達は帰って行ってしまったが人間に抱かれる久々の感覚に自分は野生の血では無いと悟ってしまう程であった。



それから一週間後再度あの女の子が両親と遊びに来た。


ちーちゃんと言う女の子は僕を指差して両親と引き合わせた。


両親は一瞬困った顔をしてちーちゃんに「この子がいいのか?」と尋ねると「この子じゃなきゃ嫌だ」とやり取りを交わした。


今の飼い主の白髭の息子が両親と話をしている内容が聴こえて驚いた。


僕を飼いたいと言うのだ。


嬉しい気持ちと此処の生活から離れる寂しい気持ちが交錯したが僕に決定権は無くそのまま車に乗ってちーちゃんの家に行った。



喜んだのは間違いないが色々と大変な事はあった。


広い庭に三角の屋根の小屋があり僕が住むと決められた場所が有ったがそこには前に住んでいた奴の臭いが強く残っていた事と新しい名前の‘バロン’と言う呼び名からか中々馴染めなかった。


ただこの家族は僕を大切にしてくれた。


朝も夜も一緒に過ごすこの感じはたまらなく嬉しくまた一秀と一葉と秀明の事もたくさん思い出したりもした。



ちーちゃんは近所の高校に通うようになり気付けば僕より大きくなっていたが優しさは冬の太陽の様に変わらず暖かく降り注がれていた。


無情な人間が世の中にはたくさんいると言うが僕は無縁だ。


年頃のちーちゃんには彼氏の存在がある事を右手の匂いで感じていた。


今まで付いた事の無い匂いが毎日すれば簡単に悟れる。

そしてその匂いは何処か懐かしく優しい感じがする事からとても良い人だとわかった。


初めて彼氏を連れて来たのはいつの事であったか、たぶんセーラー服を着て三回目の桜の時期であったと思う。


僕は驚いた。


‘しゅうめい’君と言う彼氏は間違い無く一秀と一葉の子供の‘秀明’に違いなかった。


僕は大きな老体で必死に抱き着き再開を喜んだが耳は肥えても声帯は変わらず言葉を発する事はできない。


ただ秀明はいっぱい遊んでくれた。


君は僕の事をわかるのか?

一秀と一葉は元気なのか?


この嗅覚さえ無ければこんな思いもしなかったはずだが死ぬまで忘れられない家族の香りに気持ちを左右に揺さぶられた。







四足歩行の先輩だったはずの僕は秀明に見下ろされながら何としてでも「コロ」だと言う事を伝えたかったのだが可能性が低いのは反応でわかる。

そもそも他の仲間達の寿命から計算すれば有り得ない事なのだから。


「僕が小さい時に飼っていたコロに凄く似ていて愛着が湧く」

「コロの生まれ変わりかな」


そうだよ…

そのコロなんだよ。


話せない事がこんなにも悔しく思ったのは初めてであり、むしろ何故、人の言葉がわかってしまうのかという事まで腹立たしい。


生き別れの家族と再会していると言うのに気付いてもらえない事と秀明に呼ばれる僕の名前がバロンな事に鳴かずに泣いた。



ただ、家に帰ったら一秀と一葉に僕の事を話すに違いなくそうすればちょっとのタイミングで会えるチャンスが来るかも知れないと思ったが、秀明がどう育ったかを見ていないので今の家族仲を知らない。


ちーちゃんも家族と仲は悪くないが思春期と言う‘意味も無く大人を遠ざける‘瞬間を目にする事は良くあるので秀明もそうなのかも知れない。


僕はとりあえず諦めて一緒に遊ぶ事にした。


あの頃に浸りたいのだ。



ちーちゃんの右手と秀明の左手が繋がれ秀明の右手に握られたリードが僕の首に繋がれて家の周りをデートした。


会話の中ですぐに「感謝だよね」と口癖で言うあたりは寺の子だけあるが先代達の言葉の重みに比べて軽く感じ笑ってしまう。


その他に一秀や一葉の話をしないかと今となっては垂れてしまった耳を必死に立てて伺ってはみたが出てこなかった。


月に何度か秀明は遊びに来たがコロだと言わないところを見ると家族に僕の事を話していないのか、又はそんな事はあり得ないと思っているのか、はたまた…そんな事も考えていないかであろう。


僕は諦める事にした。


あのミルクの香る赤子が大人の姿になりこうして僕に優しく話しかけ触れてくれている事だけで充分幸せなのでは無いかと心底思ったからだった。



ある時期からパタっと秀明は来なくなった。


確かに最後に会った時の別れは何時も以上に強く抱かれ何時もの「じゃあね」ではなく「元気にしてなよ」と言われたのに違和感を感じた。


ちーちゃんは相変わらず優しく、いや、今迄以上に僕を大切にする事で秀明の居ない寂しさを誤魔化している様に感じた。



花香る時期は次第に熱を帯び虫を鳴かせ山を燃やし燃え尽きた様に葉を落とすと代わりに女性の様な白化粧をする。


季節と言うものは僕にとって目耳鼻を愉しませてくれる食事の様な幸せを届けてくれどの時期も大好きだ。


そんな遊びを二回繰り返した辺りからちーちゃんも家に居なくなった。


短大を卒業した彼女は老人介護施設に就職し此処からは遠い街で一人暮らしを始めたのだ。


両親はとても優しくしてくれるのだが何かが欠けている事は‘三人’共気付いていて寒い夜では無いのにリビングに入れてくれる様になったのだが彼女の穴は埋めれなかった。


「バロンは長生きしてね」


お母さんはそう言いながら僕の眉間のところを優しく触るが人間の何倍も生きている事は知らない。


大草原の牧場で老犬だとわかって引き取られた時から十歳は歳を経ているはずなのだから…


僕はいつ死ぬんだろう


何故生き続けているんだろう


皆そうだが生まれて歩いてご飯を食べ寝て人間の様な特別な行事も無く死ぬのだが中には美容院に行き服を着て学校の様な場所に通う仲間も居た。


僕達は人間を癒す為に存在しているのであろうか。

だが、保健所で会った仲間達の様にもぎたてを過ぎ美味しい時期を逃した果実の様に熟したあたりには廃棄されるものもいる。


そう考えると白髭牧場は熟した果実だけを集めて朽ち果て土に還る迄の自然そのものの形を当たり前に実行していた。


確かに寺育ちの僕は人間が死について大切にしている事を知っている分生命について考えている方だが何しろ中々死ぬ気配は無い。


何の為に生かされているのかもわからない。


多分ではあるがめっぽう幸せな人生を送っていると感じている。


昔の様に身体は動かなくなってきている事からいずれは朽ち果てる気はしている。


あぁ…


疲れた。


考える事をやめよう。


そう考えてただペットをし始めると僕は人間の言葉がどんどん聞こえなくなって行ったが以前の様に生死について考える事がなくなった分気持ちは軽くなって行った。






動物と言うものは人間が思っている程過酷な人生ではない。


人間より快楽が少ないだけで充分幸せだし快楽という麻薬によりそれ無しでは生きていけないのは人間だ。


寺や牧場で食べていた食事はとても優しい味付けで食材の味がしっかり感じられたが今の家の食事に感じるトゲの様な調味料に慣れてしまうとそれが無いと物足りなくも感じる。


五感が優れていれば素材を美味しく食べれるはずなのに刺激を求めた結果感覚は薄れ行くものだ。


動物人生の上で生きると言う事は業務であり飽きるとか飽きないとかでは無い。


快楽と言えば人間に愛されている事くらいである。


人間に愛される事が快楽…


本当にそうなのかわからないが僕にとってはそうだった。


ちーちゃんはお盆と正月にしか帰って来なかったが帰ってきた時はずっと一緒に居て優しくしてくれた。


少しきつい香水と都会の排気ガスの匂い以外は何も変わっていない彼女に安心を覚えるが秀明の香りはしなかった。



すっかりペットらしくなった僕は世の動物と同じくらいしか単語のヒアリングができなくなった気がする。


年に二度程しかちーちゃんに会えないのも馴れお父さんお母さんと三人の毎日変わり映えの無い生活をゆっくり楽しんでいた。


このままフェードアウトし人生が終わって行くのも全然悪く無いと思うくらい身体は重くなったが幸せを感じている。



太陽と月は何度入れ替わったのか数えてもいないが雪が降ったら一年の計算をし始めて十回目の大雪の日に事件は起きた。


お父さんは長年勤めていた仕事を終え毎日家にいる様になった。


そうなってから夫婦で何やら趣味を初め週に二度程夕方に出かけ僕は留守番をし帰ってきたら皆んなで夕食を食べるのだがその日二人は帰って来ず朝迄夕食は出て来なかった。


空腹を我慢して寝ていると初めて見る暗い顔のちーちゃんが帰って来て僕を抱きしめると大きな声で泣き出した。


お父さんとお母さんが悪天候による交通事故で死んでしまったのだ…



一秀の両親と同じだ。


こんな悲しい出来事を何故二度も経験しなければならないのか。


みんなの分僕が長生きしてしまっているとしたらとんだ罰当たりで、もし僕が死ぬ事で耐え難い悪夢が消え去るならそうしたいと責めた。


僕はずっと幸せで恵まれていると感じていたが今は全く思えない。


ごめんねちーちゃん…


その日から僕は玄関で寝た。


こっちにおいでとちーちゃんが呼んでくれるのに初めて行かなかった。


僕が近くにいる事で不幸が起きたのでは無いかと考えていた。


家出を考えたが、今家出をしちーちゃんを一人にしてしまうのは怖いし、捜索され迷惑をかけるのは良くないと感じせめてもの玄関を選んだ。


だが、明日からは呼ばれたらそうする事にする。


こうやって僕の横に、冷たい地べたにちーちゃんを寝かせる訳には行かないから…







真っ黒のお洒落着では無いスーツに白いネックレスを装着したちーちゃんは僕の首に黒いリボンを付け車に乗り二人で出かけた。


他の人以上に葬儀は見て来た方なのでその位理解しているが着いた場所は僕の知っている寺では無く葬儀場と言う場所だった。


ちーちゃんに待ってる様言われ寒さ凌ぎの為エンジンを掛けたままの状態で後ろの座席に転がった。


黒いスーツがたくさん来場し、ハンカチで目頭を押さえるちーちゃんを励ましている姿が遠くから感じられる。


寺の時の様に参列し本堂の階段横で上手に皆に挨拶ができるはずの僕なのに今はこの鉄の箱から見届けるしかできない。


参列者が建物の中に収まった時、暖房の音とエンジンの音の隙間から一台の車がゆっくり入って来くる音が聞こえてその方向を見て驚き僕は窓に鼻をくっ付けて匂いを探った。


視力はだいぶ衰えぼやけているが車から降りて来たのは一秀に見えた。


匂いが届かないので目を瞑り耳に集中して足音を探る事にした。


間違いない。

一秀の下駄の足音だ。


そう思った時また別の下駄の音が聞こえる。


この下駄の音は聞いたことが無かったのでとりあえず目を開けて見ると袈裟を纏った二人が見えた。


秀明?


秀明だ!


秀明の下駄の音は聞いた事が無いが一秀と似た様な音がする。

人間は代々歩く姿が似て来ると言うが下駄の音にそれがしっかりと反映されていた。


僕は嬉しくなり大きな声で呼ぼうとドアの取っ手に手を掛け準備をしたが辞めた。


この悲しき日に僕の快楽を満たす様な事があってはいけないと思いもう一度座り直し左右に転がる心臓を宥め葬式に集中する事にした。


遠くから空気の隙間を真っ直ぐに抜けガラスを突き抜けた仏鈴の音が三度聴こえる。


そしてテナーサックスの調べが車を揺らす様に響いて来た。


懐かしい…


その中低音に少しだけ音の高いアルトサックスが何とも言えない調和を図る。


秀明だ。


あの時彼に会わなくなったのは修行寺に行っていたに違いなく立派な姿になっていた。


二人のお経を聴きながら嬉しく思ったのは思い出もそうだがこの優しく温かい調べで贈られる故人は間違い無く良い処へ導かれるはずだと感じていた。


僕はお勤めが終わるまで黙って冥福を祈った。



お経が静まった後、確か親戚のおじさんがちーちゃんの代わりに僕を車から降ろしお水とトイレに連れて行ってくれたのだが一頻り済ませると僕は葬儀場の玄関の方にリードを引っ張りおじさんを誘導した。


「お前も参加したいよな…玄関まで行こう」


手綱が緩み一緒に玄関まで行くと少し離れているが白黒帯の四角い写真が二つ並んでこちらを見ていた。


自動ドアの前で僕は座り手を揃え首を垂れて祈った。


やっぱり悲しい。


一秀が一人になって自らの両親の葬儀をした時を思い出した。


「コロ。二人きりになっちゃったね…」


そう言うと一秀は自分の父親の席に座り僕を母親の席に座らせた。


「これから二人で生きていこうな」


だがそこに一葉が現れて僕たちは三人になり秀明が生まれ四人で幸せに暮らしていた。


僕が一秀の時の様にちーちゃんを支えなければいけないのだ。


何か謎が解けたかの様に僕は気持ちの整理が付きおじさんがリードを引く前に車に歩き出した。

ここに居たらまた悲しみと寂しさに苛まれる気がする。



後ろから四足の下駄の音が似た様に聴こえ少しだけ振り返って二人を確認したのだが一秀は歳を取り秀明は立派になっている様感じられる。




「コロ?」




聴こえた。


一秀の声で確かに聴こえた。


思わず振り返りそうになった時


「お父さん、あの子はちーちゃん家のバロンだよ。似てるでしょ?」


「そっくりだな。」


そう聴こえた時振り返るのを諦めた。



今は孤独と戦うちーちゃんの側に居る事が一秀の時と同じ様に大切でその時が過ぎれば必ず幸せが訪れるはずだ。


一秀、秀明、多分一葉も家族で幸せにしているはず。

でもちーちゃんは一人だ…


車に戻った僕は二人が去って行く音が聞こえなくなる迄ガラス越しに見送った。


元気でね。







仏教には輪廻転生という言葉がある。


生あるもの全てが生まれ変わるという考え方であるがもしかしたら僕の前世は人間だったのかもしれない。


他の動物とやり取りはできるものの人間の言動の方が理解できたししっくり来た。


だが人に寄り添う為に四足歩行にされた意味とは何なのだろう。


しかも会話のインプットは許可されているのにアウトプットは許可されてない。


後、人間や動物と比べたってこの生命の電池の長さは我ながらに異常な事に気付いている。


お釈迦様は何を僕に求めているのであろうか。


二度も大好きな人達を事故で失い悲しい思いをしたしたくさんの葬式や仲間達の死も見て来た。


トンボや雀、蛙や猫。


牧場にいる時は何十と言う仲間と白髭のおじさんも見送った。


でも何故その時はこんな悲しい気持ちにならなかったのであろうかと考えていると一つの事を思い出した。


本堂の灯りだ。


基本的に蝋燭は火が足元まで辿り着き消え煙となって天井に上がる迄使い切るのだが急な予定が入った時など稀に手をうちわにして仰ぎ消す事がある。


僕はアレに違和感があったのだが今ならその違和感の正体が何なのかわかった気がした。


蝋燭という物体が生態だとして長さが寿命だ。


そして芯の細さ太さは性格で、火と言う赤黄青等は大小を変えながら個性を生む。


自然燃焼した蝋燭はほぼ全て残らず煙となり絵の描かれた天井で少しの余韻を残した後瓦屋根を突き抜け天に向かいあの大きな雲になる。

途中で煽り消されると煙は出るものの白い胴体は強制的に残されてしまう。


僕は毎回自然燃焼し雲になる迄を見送るのが大好きだった。


あの人生を全うし燃え尽きた感じでは無く途中で強制終了させられる事に違和感があったに違いない。


事故死は正にそれなのだ。



僕の蝋燭はどんなに大きく太く、細くて長い芯で小さな火なのだろう。


葬儀場の横に在る火葬場の煙突から強制終了された煙が二つ上がるのを見ながら考えていると僕には目標が生まれた。


ちーちゃんが途中で風に煽られ消されぬ様にそばに居続け火を燃やし雲になる迄ずっとずっと見届ける事だ。


一通りの儀式が終わりちーちゃんと一緒に家に向かう車内で彼女は涙を見せずずっと僕に話しかけてくれたがそれは寂しさを振り払う様な行動にも見えた。


大丈夫。なんでも言ってくれ。


僕はそんな気持ちでちーちゃんの話を延々と聞いた。


家に着き玄関でお清めの塩を振る。


その後久しぶりに二人で風呂に入り茶の間で向かい合って食事をした。


僕はちーちゃんの隣に行き執拗に甘える。


膝枕の形のままお尻をポンポン叩かれていると僕の頭にポツポツと雫が落ちて来たので立ち上がりちーちゃんの瞳からこんこんと溢れ出る雫を一滴残らず舌で拭い続けた。

彼女は笑いながら大丈夫だからやめてと言ったが僕はやめなかった。


その後二人で抱き合い彼女は大きな声で泣き僕は何年振りかの遠吠えで沢山鳴いた。


気が済むまで泣き続けるつもりが外で車が止まり扉の閉まる音がしちーちゃんと玄関へ向かった。


玄関の扉が開くとそこには袈裟から私服に着替えた秀明が立っていてちーちゃんと僕は裸足のまま彼に抱きついて三人で泣いた。


何十分寒空の下抱き合っていたのか覚えていないが合わせた様に三人で茶の間の席に着き泣いて痛めた声のまま献杯をした。


あぁ、やっぱり秀明だ。

彼が来た途端に雨空の雲の切れ間から少しだけ陽が刺した。


あの時の様な感じだ。


一秀が両親を失い僕と二人になった時に現れた一葉の様な温かい感じ…


流石二人の血を引く秀明だ。


その後三人はテーブルで寝てしまうまで両親の話をしながら酒を飲み僕はナッツや乾き物のおこぼれをたらふくもらった。


この二人で居れば、この不幸はいずれ消え失せ幸せになると信じきれた。







「愛」とは何の素材でできているのか?


無形の存在に人間が勝手に付けた名称は人々を惹きつけ突き放し掻き乱し大切なものになる。


亡くなった人が仏になるならば過去の存在により無形になった後に継がれるものの様な安易であり難しいものの様な存在なのか。



物事の初めを好きなのは恋で

終末を見届けるのが愛なのか。


そう考えると数々の死を見届けて来た僕は悲しみの塊では無く「愛」を沢山知る為に生かされているのかもしれないと思うと光栄にも思えた。


一秀と一葉も好きとか愛してるとか言わなかったのは多分「愛してる」では無く「愛したい」と言う事が正しいとわかっていたのかもしれない。


僕は存在する限り全てを見届ける為に生まれて来たと信じる事にした。



「おはよう」とちーちゃんは雀の合唱と共に僕を起こし玄関を開け遅れて秀明は目覚め境内を竹箒で掃除をする。


僕は本堂の階段を登った横で風の匂いを嗅ぎながらそれを見守り一日の始まりを感じる。


桜の季節に僕とちーちゃんは寺に住んでいる。


そう、あの僕が育った香路寺で


一秀と一葉

秀明と千枝


そして僕の五人の生活が始まったのだ。


決して大きくはない寺だが本堂向かって左側には納骨堂が在り右側には住居、後ろの階段を登ると沢山の墓石が並んでいる。


秀明とちーちゃんと言うには歳をとった千枝の間には秀彦と言うミルクの香りのする声帯の整っていない四足歩行が生まれて僕を追いかけている。


耳を引っ張り口からはみ出たベロを掴み尻尾を振り回し、僕が歩く場所を下手な四足歩行でついてくる。


秀明の時と同じだ。



そう言えばこんな事があった。


ちーちゃんと僕がこの寺に初めて住んだ次の朝、無意識に境内の階段の上に座り秀明が竹箒で掃除をするのを見届け、朝のお勤めが終わるまで一秀の横に座った。


昔一緒に住んでいた時のルーティンを無の境地で行ってしまったのだ。


秀明が驚き何故コロと同じ事をするのかと聞いた時一秀は顔色ひとつ変えずに言った。


「この子はコロだよ。おかえり」


わかっていたのだ。


秀明はまさかそんなはずはないと疑っているが百年位生きていると考えればその方が自然である。


一秀はそれ以降秀明にコロだとは言わなかったが彼と一葉は僕をコロと読んでいる。

秀明とちーちゃんはバロンと呼んでいる。


これでやっと「コロ男爵」と言う正しいバロンの使い方になったと勝手に二つの名を掲げて生活をしている。


呼び名なんてどうでも良いのだ。


幸せな時間は続いた。


雀の合唱と共に朝目覚め

階段の上で風を嗅ぎ秀明の竹箒を見る

朝のお勤めでサックス二重奏のお経を聴く

化学調味料の味を感じない食事をし

歩く様になった秀彦が学校に行くのを見送る


階段上で昼寝をしカラスや蝶々と遊ぶ


秀彦のお迎えをするあたりから夕方のお勤めの準備が始まる。


お勤が始まると本堂に入り一秀、秀明、僕、秀彦の順番に座り合唱が蝋燭の炎を揺らす。


全ての行程が終わると僕は週一度だが四人は毎日風呂に入り夕食だ。


食事が終わると時代劇を皆で見る。


そして僕は玄関に置かれたクッションに潜り込み目を閉じる。


事件と言えば空腹で冬眠し切れなかった熊が畑を荒らす位で後は大体毎日そんな感じで時間は流れて行き、秀彦の成長だけが時間の経過を教えてくれた。


小学途中から秀彦は野球の部活が始まりお勤めに参加しなくなったが相変わらず僕と仲良くやっていた。


ある雪の振る日秀彦が帰って来ない。


雪の夜、嫌な思い出が蘇る。


ちーちゃんは学校や部活の友達に帰宅したかを確認すると確かに皆で帰った所を見たと言う。


友達と別れて一人で歩く時間は二十分、車で五分と言うところだ。


山道ではあるが一本道の私道は外部の人は通らず来客用に街灯もしっかり焚いてある。


雪が積もるこの辺りでは三十センチ位の積雪は当たり前でわざわざ迎えに行く事も今迄では無かった。


ちーちゃんが車で探してくると出かけ、秀明は雨様のカッパ姿になり懐中電灯を持ち歩いて探す準備をし、年老いた一秀と一葉が電話番をする。


身体の中に虫が這っている様な嫌な感じが止まず秀明が玄関を開けた途端に僕は外に走り出した。


「バロン、待て。家にいなさい。」


そんな声が聞こえたが僕は初めて秀明の言う事を聞かなかった。


私道は蛇の様に六回畝っているが寄り道する場所なんてない。


アスファルトの上は誕生日ケーキのクリームを指ですくった様にちーちゃんの車のタイヤ二本線のみが引かれて居る。


僕は生クリームで塗りつぶされる前に秀彦の足跡を見つけ出さないと人間では何十分も耐えられない寒さだと察知した。


一つ目のカーブを曲り二つ目のカーブを下る。

三つ四つ五つ六つ…いなかった。


はっはっと白息は風呂場の煙突から出る煙位出ているが無理矢理口を閉じ鼻に集中させる。


悔しい事に足跡は上塗りされていた。


僕が人間より長けて居るのは耳と鼻。


冷た過ぎる空気が嗅覚を邪魔する。


足跡が無いが秀彦の匂いを探しながら今度はゆっくり戻る。


一つ目のカーブを曲り上り二つ目から坂が急になる。

走っていて気付かなかったが三つ目の真ん中あたりで微かに何かが匂った。


黒い鼻先には雪が積もり冷え痺れはっきり秀彦だとはわからないが確かに此処にずっとあった木々では無く新しい匂いがする。


僕は一度体を震わせ纏わり付く雪を振り払い匂いのする方へゆっくり向かう。


ガードレールとガードレールの隙間から斜面を降りて行くと秀明の帽子を見つ付けたので大きな声で鳴いたが寒さで声が出ない。


僕は死なない大丈夫。


そう言い聞かせながら凍える体をもう一度奮い立たせ一つ遠吠えをし折れている耳を立てた。



バロン…


聞こえた!


近い。


その方向へ走って行くと木の根元に雪を被って横たわり足の辺りを怪我している秀彦が居た。


僕は両手で雪を払い、傷口と顔を舐めるとアイスクリームの様に冷え切っていて慌てて覆い被さり暖を取ろうとした。


そろそろ秀明が降りてくるはずだ。


道路からもそう遠く無い。


僕は秀彦を暖めながら全力で泣き続けているとこの寒さよりも冷たい気配が背中に刺さった。


熊だ。


秀彦は熊と遭遇して逃げ落ちたのか。

それともこの騒動で冬眠から覚めてしまったのか。


今はどちらでも関係ない。


この状況を何とかしなければならない事には変わりはないのだ。


僕は過去に記憶が無いが本能であろう、鼻に皺を寄せ前傾になりバリトンの低音で唸りを上げ威嚇した。


熊は立ち上がり応戦体制になり小さく痩せ細ってはいるが黒い凶暴な爪を立ててこちらを睨んだ。


絶対勝てないことはわかっているがもう少しで必ず秀明がちーちゃんが来てくれるはずなのでそれ迄秀彦を守るのだ。


秀彦は木に頼りながら立ち上がり野球のバッドを持っている。


睨み合いは続き隙を見せたら飛び付ける体制だがその時下の方からちーちゃんの車が上がって来たので熊は一瞬気を取られた。


僕は唸り声から大きな声を出し、威嚇ついでに助けを呼び振り返り秀彦に逃げろと合図をした。

伝わったか伝わらなかったかは別として秀彦は足を引き摺りながら道路の方へ動き出す。


車に怯んだ熊を秀彦の方から遠ざける様にじりじりと僕は十センチ、いや五センチづつ詰め寄って行く。


そのまま何処かに行ってくれと祈る。


だが、ちーちゃんの車が僕達に気付かずゆっくり通り過ぎてしまうと熊は体勢を立て直して僕を睨みつけた。


秀彦の匂いが遠ざかった事から多分道路迄辿り着いたであろう。


後は秀明に必ず助けてもらえる。


先程までとは違い熊は僕のみに照準を合わせている事からも秀彦の事は完全に諦めたに違いない。


良かったと油断したところを熊は見逃さなかった。

襲いかかって来る爪を左右に動き避けたはずが左腕を負傷してしまった。


寒さと恐怖で痛みを感じないが地面に着くと力が入らず転んでしまった。


遠くで秀明と秀彦が出会えた喜びの声が聞こえる。


うずくまった僕は警戒しながら近づいて来る黒い物体の鼻息を感じ人生の終わりを思うと走馬灯が流れた。



熊に遭遇しトラックに乗り込み離れ離れになってそれでもまた此処に戻って来たのに、最後も熊で迎えるのか…


あの時は怯えて隠れた。


でも今回は違う。


僕はちーちゃんが一人になった時に守ると決めた。


だから何も臆する事なく戦えた。


香路寺の家訓は「傷を強さに、涙を優しさに」なのだが守りたいものがあるから強く優しくなれるのだと本当に感じた。


此処で熊に喰われてしまっても後悔は無い。


生物の何倍も何倍も生きたくさんの幸せをもらって愛するものの為に召されるなんて素敵じゃないか。


これは事故なんかじゃ無い。

僕の蝋燭の完全燃焼だ。


自慢の耳が聞こえない。

鼻は凍って役に立たない。


身体より雪の方が暖かい…




僕は煙になり天に昇るのだ。







意識が無い中僕の身体はゆっくり中に浮き揺れている。


暖かい。


僕は煙になったのか。


僕がずっと見続けて来た大好きなあの雲に乗っているのか。


一秀と秀明のお経で送ってほしい…



あぁ皆んなの優しい声が聞こえる。


癒しの様な精神的な助けでは無くちゃんと物理的に秀彦を助けられたのか。



…あぁ思い出した。



僕は軍用犬だったんだ。




秀明のお爺さん秀臣が軍医だった時僕は日本軍の通信犬として働いていた事を思い出した。


爆撃の中走り回り首に下げた手紙を日本軍司令部に届ける役目をしていたんだ。


そう秀臣の同期で前線で戦う第二師団の常田少将の伝令だった。


ある時第二師団、第三、第四と大勢と言っても敵軍より随分少数で立ち向かう事になり司令部のお偉いさんまで参戦せざるを得ない危機を迎えた。


少将は僕の首に下げられた伝令入れに手紙を突っ込み抱きしめ「秀臣によろしく頼む」と言われ尻を叩かれ走った。


無我夢中で司令部のテントを目指して走っていると後ろで大きな爆発音と何百の人の悲鳴が聞こえたが訓練通り振り返らず走る。


まだ若かった僕は脚にも自信があった。


司令部に辿り着いたがほとんどの人が前線に駆り出され本来ならば腕章のある指揮官クラスの人に手紙を渡すのだが見当たらないのでテント式の野外病院の秀臣のところへ直接走った。


秀臣と常田少将は友人で二人共僕を大事にしてくれていたので直ぐわかる。


疾風の如く駆けた僕はテントに入ると生きてるか死んでるかわからない人の様なたくさんの物体の間をすり抜け迷わず秀臣に手紙を渡した。


走る様に右に左に看病していた彼は手紙に目を通すと一時手を止め天を仰いだ事から何やらよく無い状況だと感じた。



その後すぐ戦場から引き上げる事になり衛生兵と共に何時間も船に乗り結果今住む香路寺に辿り着いたのだ。



あの時死んでいてもおかしくなかったのに僕は永く幸せを感じて過ごしたではないか。


もう思い残す事は無い。


温かい…


歌が聞こえる。



ねんねんころりよ

おころりよ

坊やは良い子だ

ねんねしな


いつも秀臣が寝る時に歌ってくれていた。



そうだ。

軍犬は一丸ニ丸三丸と言う様に番号で呼ばれていたのに秀臣が名を付けたんだ。


ねんねん「ころり」から付けられた「ころ」と言う名だった…



僕が懐かしくも温かい思い出とねんねんころりに浸っていると歌の合間に逆の言葉が混ざって来た。



「バロン!起きて。バロン!」



誰かが呼んでいる。


秀臣か?


いや、秀臣が呼んでいるなら「ころ」だ。




「起きて!」



僕はコタツの予熱の様に心地良い空気を振り切り思い切って目を開けた。


するとそこには心配そうに見守る一秀と一葉、秀明とちーちゃんと秀彦がいた。


僕はまだ生きているのか。


これも先程の走馬灯の一部なのかと疑ったが僕の左手には手当をした傷痕がある。


秀彦が泣きながら抱きついてそれを皆で囲んで喜んでいる。


僕はまだ生きていたのだ…



あの天に昇る煙の様に暖かい感覚は秀明が抱きかかえて救ってくれた時の感覚だったのかも知れない。


その日はゆっくり休み翌朝もいつものルーティンに参加せず遠くでお経を聴いた。


一週間位経つと左手を着いても痛みはほぼ感じず日々のルーティンに参加できる様になり朝の勤めの席に着いた。


御本尊様に問う。



何故僕は生き続けているのでしょうか。

まだやり残した事があるのでしょうか。


何故夢で秀臣に遭ったのでしょう。



鈍く光る釈迦像は幾つもの蝋燭の火に揺られ瞬きをし何か話している様に見える事がよくある。


目を閉じて耳を澄ます。


お勤めが終わる辺りに僕は秀臣との思い出が蘇って来た。



軍医を辞め修行をしこの寺に帰って来たあの日の事だ。


彼は僕を本堂に座らせ戦死した仲間の弔いをし何度も御本尊様に頭を下げ、先程の僕の様に釈迦像に話しかけた。



「何故私は生きているのでしょうか」

「まだやり残した事があるのでしょうか」


軍医には戦争でも銃は向けられない事になっていると言うが仲間がたくさん死んだのに生有るまま帰省した自分に問うているのであろう。



お釈迦様と会話を終えた秀臣は軍医の時に着けていた赤十字の腕章を何処かに埋めた。


何処だ?



思い出した!



お勤めを終えた一秀と秀明の間をするりと抜けて本堂の階段の下を掘った。


一秀と秀明は何時もと全く違う行動をする僕を興味深く見ている。


左手の多少の痛みを忘れながら三十センチ程掘った所に土とは違う柔らかい感触がありそれを咥えて自慢げに二人に見せた。



二人は腕章を手に取り裏に書かれた「秀臣」の字を見付けると秀明は僕を見て言った。


「何でバロンが爺ちゃんの腕章の場所知ってるんだ?」



「コロだからだよ」


一秀は僕に“ねぇ”と目配せをして当たり前の様に朝食の香る方へ歩き出したのでその横にくっ付いて歩いた。


秀明はまだ納得いかない様な顔をして立ち止まっている。



皆での朝食が始まると、何時もなら生命に感謝し黙食なのだが秀明は先程起きた事が信じられない様子でルールを無視し興奮しながら演説をしている。


ちーちゃんと秀彦は興味津々で聞いていた。


僕はコロ男爵の名に相応しく悠然と猫まんまを食していた。








雀の合唱団は新人が入り先輩たちが歌を教えている。


後何ヶ月もすれば立派なコーラスグループになれるであろう。


階段の横に寝転び僕は雲を眺め風の匂いを嗅ぐ。


秀明の庭掃除の埃。

千枝の朝ご飯の支度の香り。


秀彦は東京の学校に行ってしまって僕と遊んでくれるのは虫や野良の動物だけになった。


美しくも一秀と一葉は同じ年に安らかに眠りに着いた。


僕には無縁の老衰と言う何とも綺麗な蝋燭の終わりを見せてくれた。


初めに迎えが来たのは一秀でその夜僕だけ布団の横に呼ばれた。


「コロ、私は迎えが来ている。

でも悲しくは無い。

少し寂しいけどね。


湖の横で吹いた下手なサックスを覚えているか?


父と母を亡くして一人になった後お前と二人で過ごした日々を覚えているか?


私は一度も忘れた事は無いんだよ。


千枝の両親の葬式で再開した時に君はコロだと迷わず思った。


そしてこうやってまた一緒に居る。


一葉、秀明、千枝、秀彦を宜しく頼むよ…」



そう言った次の日に一秀は意識が無くなり病院に行き、後二日後に温かい煙となり天に昇って行った。


一秀を贈る秀明の別れのお経は途轍もなく美しく釈迦本尊様も涙を流した程だった。


その後を追う様に一葉もふわっと煙になった。


とうとう「コロ」と呼ぶ人がいなくなってしまった事に少し寂しさを感じたがその分秀明の南無阿弥陀十念に合わせ遠吠えをした。


大好きな人達の終末を見届ける度に“愛する”と言うぼやけた輪郭が綺麗に縁取られて行った。


東京の大学に進学した秀彦が獣医学の道に進んだのは僕の寿命の長さを知りたいからでは無く熊に襲われた時この街に獣医がいない事にびっくりした事がきっかけになっていた。


そして軍医の秀臣の存在も大きな理由になった。


この家の人々は“誰かの為”に生きる性の持ち主だと身に染みる。


春の優しい花

夏の生命の祭り

秋の燃ゆる木々

冬の凍て付く白夢


四季が香る路がたくさんの思い出をくれ、その全てを時と言う蝋燭が刻み温もりを帯び刻む。


生と愛は対なのだと気付いた。


愛無くして生は無いのだと気付いた。




檀家さんが集まって本堂の儀式では珍しく楽しいお茶会が行われた。


秀明の右隣には僕が座り、その隣にはいつもは黒子役のちーちゃんが珍しく座る。


秀明は冒頭の挨拶をする時「バロン」をネタに話し出した。


残念ながら一秀の息が掛かった年老いた檀家さん達は僕を「コロ」と呼んでいる事も知らずに映画監督の宣伝の様に武勇伝を語る。


皆が笑顔で僕の話を聞いた後順番に御本尊様に線香を上げその帰りに僕を愛でてくれた。


家族以外のたくさんの人達に触られるのは初めてではないだろうか。


僕も偉くなったもんだ。


全員の焼香が終わるあたりに東京から慌てて帰って来た秀彦がドタバタと煩い足音で駆けて来て焼香の前に僕に抱きついた。


寺の子らしく順番を守らないと秀明とちーちゃんに叱られるのによっぽど僕に会いたかったに違いない。



秀彦だけが泣いている。


どうした?東京で何かあったのか?

この家族を守るのはコロ男爵の勤めなのに何か事件でも起きたのか?


茶会の参列者は秀彦を円で囲み慰めている。


秀明とちーちゃんも上からでは顔が見えないが泣いているのか?


ほら、ちゃんとお釈迦様にご挨拶をしてから遊ぼうよ。


大丈夫。


秀臣、一秀、一葉、秀明、ちーちゃんをしっかり見守って来た僕がいるじゃないか…


仏鈴の重くも澄んだ音が本堂に響き渡り秀明とちーちゃんがお釈迦様と対面し南無阿弥陀十念を唱えると参列者皆が遅れない様にと後を追った。


やっと秀彦も焼香をし手を合わせている。


初めてお釈迦様と目線が揃った時、実は人々を見下ろしているのでは無く真っ直ぐ前を見ている事に気付いた。



僕は戦後、香路寺に来て本当に幸せだった。


長い長い普通の日々の中で小さな小さな幸せの種をたくさん掻き集めた。


この場所から見る大きな雲が好きであんな風になってみたいと思っていた。


そう、この優しいアルトサックスの調べは目を閉じれば雲に乗っている様な思いになる。


あぁもう皆んなが小さく見える。


本堂の絵の描かれた天井はもう少しだけ此処に留まらせてくれるみたいだ。



今まで本当に有難う。



そこに在る抜け殻の僕は皆んなと同じ場所に入れたら嬉しいな…


天井を抜け

屋根裏を抜け

瓦屋根を抜けると雄大な景色が広がる。


雲は何時もこの景色を見ていたんだ。



この地で

この場所で


たくさんの想い出が生まれた。



僕は愛し愛されたと心の底から思う。


本当に僕は幸せものだ。


輪廻転生してもこの地の何かに生まれ変わりたい。



これからは大好きな雲になり空から見守るよ。




さよなら。


また、逢おうね…







         おしまい


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バロン @MurayoshiHitoki

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