少女とピアノ

蒼鷹 和希

少女とピアノ


 ある駅の構内で、少女がピアノを弾いていた。

 この地域にしては珍しく、ストリートピアノがある駅だ。そこそこ人だかりができている。

 緊張する様子もない少女の真っ直ぐな歌声と演奏に惹かれたのだろう。

 少女が盤上の手を止め、立ち上がるとともにまばらな拍手が沸いた。

 塾のテキストの間に楽譜を隠すように仕舞い、彼女は立ち上がる。

 夜空には飛び散った飴の欠片のように星が煌めいている。ところどころにある黒雲が、夜空を台無しにしていた。

 少女はよくこの駅のピアノで弾き語りをする。ピアノは友達に教えて貰って弾けるようになった。家にピアノはないし、彼女の母親は彼女がピアノを弾くことを許してくれない。

 でもきっと、お母さんだって私の演奏を聴けばピアノを弾く事を応援してくれる。

 少女はそう信じている。


 玄関先に立った少女は緊張していた。今日はだいぶ遅くなってしまった。

 少女は恐る恐る扉を開き、そうっと中を覗いて目を見開いた。

 内玄関に母が立っていた。険しい顔で腕を組んでいる。

「美香」

 扉がばたんと閉まり、静寂。

「…………ごめんなさい、お母さん」

 途端に恐怖で涙が出そうになり、少女は俯いた。

「あんた、昨日分かったって言ったのはやっぱり嘘だったのかよ。何回言っても分からない馬鹿だな。今日もピアノか?楽譜隠してるだろ」

 娘のバッグを母はひったくるように取り、乱暴に開けた。

「あっ、やめてお母さん。もうしません。だからやめてってーーあっ!」

 母は力任せに楽譜を破いた。床に落ちた楽譜のなれの果てに雫が落ちる。

「これでもうしないね。懲りずにまたやったら家に入れないから」

「はい……はい、分かりました、もうピアノは弾きません」

 破れた紙をかき集めて床に蹲った少女に踵を返しかけた母が言う。

「分かったらそれで良いのよ。塾どうだった?今日の夕食は美香の大好きなグラタンにしたのよ」

「そうなの?やったあ!」

 急いで片付けるね、とぱたぱたと母の横を通り過ぎて自室へ行く少女の表情は暗かった。

 少女は唇を噛んだ。

 楽譜はまた友達にコピーを貰うからそれで大丈夫だ。でもせっかく貰ったのに。今度はどこに隠せばいいだろう。

 お母さんはいつもこうだ。私のやりたい事をさせてくれない。私がお母さんの言う事を聞けば機嫌が良くなるけど、ちょっとでも気に食わないとすぐ怒る。だから家に居たくない。

 友達に言っても、みんな私のお母さんを怖がって誰も助けてくれない。誰も頼れない。

 いつまでこのままなんだろうと、少女はため息を吐いた。



『お母さん、学校でね、さきちゃんにピアノ教えてもらったの!それでね、駅でピアノひいてきたんだあ」

 娘からその言葉を意味聞いた時、心臓が止まるのではないかと思う程驚いた。

 実は私も昔、そのピアノを毎日のように弾いていたからだ。同じ駅の同じピアノ。そのことを娘に話したことは、一度たりともない。

 娘まで同じことをするなんて、これは私たちの運命のようなものなのだろうか?

 毎回楽しみにしてくれる人がいた。弾き終わったらその人とクラシックの話で盛り上がった。

 だが数ヶ月それを続けて気づいた。帰路で自分を尾けている人がいる。

 その正体はいつも自分のピアノを待ってくれているうちの一人だった。ある日帰宅すると家の前で待っていたのだ。

 叫びたくなるほどぞっとした。今でもピアノを見ると怖くなる。

 だから、娘には同じ思いをしてほしくないのだ。楽譜は破いたがどこからかまた入手して来るのだろう。正直、毎回娘を叱るのは辛い事だ。

 つい言葉遣いが悪くなるのもどうしようもない。ピアノを思い出すたび、ストーカーのあの恐ろしい笑顔に満ちた顔を思い出してしまうのだ。

 きっと美香も、私が伝えたい事を理解してくれる日が来る。だからそれまで、辛抱しなくては。

 夕食の準備をするため、彼女はキッチンに向かった。

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少女とピアノ 蒼鷹 和希 @otakakazuki

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