過去へと続く道の上で

 緋色のシュシュを握りしめ、手に持っていた本を床に投げ捨て、私は寮を飛び出した。靴すらも履かずに、裸足のまま。

 明朝、誰一人としてまだこの日の営みをはじめていない静けさの中、軽く重い足音だけが虚しく響く。


「はっ、はっ――アカネッ!!」


 口に出して呼んだその名前。そこに含まれる熱は、5年前の日々と同じ色をしていた。

 あれから5年。

 すべてを忘れた瞬間の、耐え難い喪失感にくずおれたあの日から5年も経ってしまった。今更思い出して、失くしたモノの大きさに身体が勝手に動く。走る。駆けて転がる。

 空色の髪が風になびいて、あの頃よりも短くなったのに、あの頃のような感覚。


「なんで、私――!忘れたくなんて、なかった……ッ!!」


 一歩を踏み出す度に、固い道に足が傷つく痛みが奔る度に、アカネとの日々の記憶が身体を巡る、目の奥に熱を与える。その笑顔、声、手のひらの感触、におい、背中、ツインテール、足の動き、髪の滑らかさ、唇の熱。頬の赤、貴方への想い。

 全てが、溢れて来る――のに、もう、絶対に届くことはない。


「アカネっ、アカネ……!」


 触れられない、声を聞くことは叶わない。背中を追うことも隣に並ぶことも。

 その熱を感じることさえ、もはや叶わないのだ。

 こんなに愛おしくて、苦しい貴方への想いを、私はどうして忘れさせてほしいと頼んでしまったのだろう。それも、最愛の貴方の手で。それがどんなに残酷なことか、私は分かっていなかったのだろうか。だとしたら、筆舌に尽くしがたい愚か者だ。

 私の全てが過去の私を糾弾する中、それでも思ってしまう。きっと貴方のことを覚えていたら、5年もここでじっと生きていることなど出来なかった。

 ――もし、貴方のことが気に入らないままで居られたら。


「そんなこと、私は――」


 足がもつれて倒れ込むように転んで、膝や手を擦りむいて鮮血に濡れて。それでも私は走った。1秒でも止まってしまったら、どうにかなってしまいそうだったから。

 貴方に会いたい。アカネ、私の大好きな貴方に。



 もう決して、会うことが出来ない、貴方に。



※※※



 卒業の式典の日、早朝だった。

 まだ多くの者は眠りの中にいるこの時間、静寂に包まれたこの街を、私はアカネと2人で歩いていた。私から手を引いたり、アカネが先を行ったり、並んで歩いたり。

 多くの日々を共にしてきた私たちの日常に、幕を下ろすために。


「アカネ、初めて会った時のことを覚えていますか?」

「うん。もちろん。教室に入った時、素敵な子が居るなって思ったもん」

「それは、思い出が美化されていませんか?」

「そんなことないよ……たぶん?」


 あの日から少しだけぎこちなくなった時期もあったけれど、それでも私たちは2年の日々を既に共に生きていた。空の上でのやり取りだけでそれまでの関係性が壊れてしまうほどに脆くなくて。

 けれど、そんな関係を私は、これから大切な人に忘れさせてもらおうとしている。


「……本当に、行ってしまうのですね。せめて、式典だけでも参加はしないのですか?」

「――うん。あまりぐずぐずしてると、ほんとに行きたくなくなっちゃうから。気持ちが変わらないうちに、行くよ」

「そう、ですか」


 肩が触れ合う距離にいるというのに、もうきっと私たちは遠く、遠い場所に居るのだ。元より、出会うはずがなかった私たちだから。

 きっと、こうするしかなかったと。


「シオンは、卒業したら何をするの?」

「私ですか?私は、昔から変わりません……むしろ、今はもっと強く思っています。学院で、教員になりたい。ミドリ先生のように、誰かを導けるような、そんな存在に」

「……応援してる」

「――ありがとうございます。アカネは?卒業したら……」

「わたし?わたしは、そうだなぁ。誰にも何も言われずに、おもいっきり、わたしの好きな魔法を使いたい、かな。卒業した後じゃないと、出来ないしね」

「ふふ、アカネらしいですね」


 本を書きながら、私は自分の気持ちを整理したかったのだと思う。最後の一行にあんなことを書いてしまうくらいには、揺らいでいた気持ちも大きかったけれど。

 アカネが、別れを知っていたのに私に近づいてきたことへの苛立ちが滲んでしまった瞬間もあった。それでも結局、この選択をしたのは私だ。そこまでする必要はないと、忘れてしまっては二度と手に入らないのだと、分かっているし、冷静になる自分も居る。

 でも。


 たとえ忘れなかったとしても、アカネに会うことは、もう二度と叶わないなら。


 綺麗なまま、閉じ込めて、いたかったのだ。


「シオンは、学院での一番の思い出ってある?」

「ふふ、それはもう、決まっていますよ。恋人になった日のキス、ですよ」

「……っ!?ちょ、ちょっと!だ、だってあの時は、なんか、いつもよりも、気持ちが昂っちゃったから……って何言わすの!」

「あの時のアカネ、可愛かったです」

「~~~!シオンの方だって、夢中になってたのばればれだよ!」

「うっ、そ、それは……!」


 歩きながら、顔を見合わせて笑うこの瞬間も、もう長くはないのだ。

 そう思えば思うほど、愛しさが込み上げてくる。2人で何度も歩いたこの街、豊穣祭の日のこと、授業を抜け出して2人で街を回った日のこと。

 アカネとの一瞬の積み重ねは、どれも色褪せずに私の心に刻まれている。


「……ねえ、そういえばさ。ハンナとアイリから付き合ってるって聞いた時、シオン泣いてたよね。ハンナがぎょっとしてた」

「――ええ。あの2人には、本当に助られましたから。2人の幸せの報告を受けて、感極まってしまったんですよ」

「そうだね。わたしもほんとに嬉しかったし」


 会話を交わせば交わすほど、2人で歩んできた時間の長さを痛感する。

 これから、私はこの日々を手放すのだ。


「ああ、それからロッテとヒュッテさんですが、放課後ロッテの元を訪ねると執務室にヒュッテさんが居ることが多かったのが思い出深いですね」

「ふふ、そうだったね。ヒュッテさん、ほんとに溺愛してたから……」

「ダンさんとアレンさんが卒業しても尻ぬぐいさせられて困るって、笑っていましたね」

「ね、ああ、あの2人にもいろいろお世話になったなぁ」


 私が忘れても、私たちが関わってきた人たちはアカネのことを覚えている。ヒュッテやハンナにこのことを告げたら、きっと殴られるだろうなと苦笑する。

 私の寮の部屋に、私たちのことを良く知る人たちに宛てた手紙を用意してある。寮の部屋は今日で引き渡しだから、寮長さんに手紙のことを頼んである。めったにわがままを言わない私の頼み、卒業の日ということもあって引き受けてくれたが、ちゃんと説明出来ないことが少し申し訳なかった。


「――ミドリ先生には、お別れ出来ましたか?」

「うん。ミドリ先生は、事情を知ってくれてるから。シオンのことも、言ったよ。悲しそうだったけど、わたしたちに任せるって」

「そう、ですか」

「あと、何も出来なくてごめんなさいって……言ってた」

「――!そんな、ことは……ないのですけどね」

「そう、だね」


 寮を出て街を進みながら、を避けてきた私たちだったが、ミドリ先生の話題になって、触れざるを得なくなった。シオンのこと――それは、記憶を消すことに、ついてだ。

 ミドリ先生に話したのはアカネだが、私も直接お礼をした。その時、ミドリ先生が浮かべていた表情を、私は覚えていられるだろうか?


「ねえ、シオン。お願いが、あるんだ」

「なんですか、アカネ」


 私たちは街のはずれにやってきていた。学院から、この場所まで、街を横断して。

 この先に見える草原地帯にはいくつか小さな町があって、そのさらに先には山々が連なっている。小さな王国の、それが全体像だ。

 私たちはこれが世界のすべてだと教わるけれど、実像は違う。あの山の向こうには、アカネたちの住んでいる外の世界があるのだと、今は知っている。


「まず、これなんだけど」

「――!これは」


 アカネはツインテールのひと房を丁寧にほどき、2つある緋色のシュシュのうちの1つを差し出して来た。

 不揃いの髪型が、風に揺れる。


「わたしの大切なシュシュ。シオンに持っていて欲しい」

「いい、のですか?」

「うん。わたしのことを忘れても、大事にしていてね」

「……はい。必ず」


 私はアカネからシュシュを受け取った。空色の髪と対になるこの緋色を。


「それから――最後の、お願い」

「はい」

「わたしが二度と忘れられないようなキスを、して」

「……はい、アカネ」


 街の舗装された道と、剥き出しの土が埃を立てる道との境界で、私はアカネの唇に触れた。彼女が言う通り、今までで一番激しくて、長くて、深いキス。

 私の感情の全てをぶちまけて、アカネの想いの全部を受け止める、そんなキスを。

 朝焼けが私たちを包む。アカネの緋色も、私の空色も全部、朱に染める朝の陽の光。その光から目を逸らして、私たちはお互いを求め続けた。息継ぎすら忘れて、立ったまま、これまでで一番長いキスを。

 どれくらい経っただろうか。背中に回した腕が少し疲れて、顎もちょっと痛い。足も何度も動かしたから、最初に立っていた場所から少し離れている。2人で踊っているみたいだった。


「……アカネ」

「――シオン」

「私は貴方を愛しています。だから……お願いです。貴方を、忘れさせてください」

「……うん。わたしは、今から、大好きなシオンの中のわたしを、消すよ」

「アカネ、もう一度いいですか?」

「……っ。うん」


 それから何度も続いたもう一度のせいで、時間はあっという間にすぎていった。

 ずっと、ずっと考えていた。

 最後に何を言うべきか。けれど、最後の最後まで言いたいことは何も浮かばなかった。お礼、謝罪、告白、冗談、別れの言葉。

 どれも、浮かんでは消え、浮かんでは消えていくのだ。その分の想いの丈を、私はキスで伝えたし、アカネからも伝わって来た。

 だから、私は何を言うべきか、何を言いたいのか、気づくことが出来たのだろうと思う。


「いってらっしゃい、アカネ」


 その言葉に目を見開いたアカネは、ぼろぼろと、大粒の涙をこぼしながら、笑った。


「うん、行ってくるね、シオン」


 刹那、私の身体が藍色の光に包まれる。アカネの顔が遠ざかって、意識が藍の紗幕の向こうへと滑り落ちていく。

 ああ、魔法を使ってくれたんだな、とどこかで私が考えて――



 ――。

 ……、――。




 風が、吹いた。



※※※



 私、シオンは高等部に入ってから、ミドリ先生を目指してより一層励むようになった。それでいて、それまで作ってこなかった友人も出来て、大切なものも知って、中等部の頃よりも人間的に成長できたと思う。

 だから、こうして卒業の日を迎えられて、嬉しく思う――


 



「……あれ、私」


 今日は卒業の式典のはずだ。

 実家から学院に向かうのとは正反対の方向、街の草原側のはずれに、なぜかぼうっ、と立っている。それ以前の記憶が全くない。

 そう、昨日は確か――


「昨日、私、は……」


 自分が何をしたか、なんとなく思い出せるのに、ほとんどの光景の大半を靄が覆っていて、覚束ない。それに、胸を衝くこの喪失感は、なんだろう。

 貧血とも違う、何か、自分から失くしてはいけないものが、抜け落ちてしまったかのような感覚が、あって。


「私、どうしてしまったのでしょうか」


 少し不安になって、私はだらん、と下げっぱなしにしていた手で胸に、触れて――


「え」


 緋色のシュシュを、握っている手が見えて。


「え」


 止めどなく涙が溢れて。


「え」


 腰に力が入らなくなって、地面に頽れて。


「え」


 息が上手く出来なくなって、うずくまって。


「え」


 頭が割れるように痛くて、胸が裂けるように苦しくて。


「え」


 今すぐ、あの草原の向こうに走らないと一生後悔すると分かったのに、身体が動かなくて。


「――あああああああああああああああああああああああッ!!!!!!」


 私は、慟哭で喉を絞った。



※※※



 5年前を思い出しながら走って、ようやく辿り着いたこの場所。

 あの日、アカネと別れた街はずれ。


「はぁ、はぁ、わた、しは……」


 あの時と同じように緋色のシュシュを握りしめて、顔中涙で汚して、身体を血に濡らして走って来た。ここまで来たとて、永劫届くことなどないというのに。

 私は、そうせざるを得なかったのだ。


「ごめんね、アカネ。ごめん、ごめんなさい……」


 貴方がどんな思いであの日魔法を使ったのか、どうして私は考えられなかったのか。大好きな魔法で、私の記憶から自分を消すことが、どれほど苦痛を伴うことか、なぜ想像できなかったのか。


「私は、救い難い愚か者だ」


 後悔したところで、もう何も出来ない。

 アカネは行ってしまった。あの山の向こう、王国の外に。


「私も外に行けば、いつかアカネに会えるのかな」


 そんなことをする気力もないくせに、口だけは立派なことを言う。

 だってもう、走れない。貴方のことを思い出してしまったら、私はまたここで、腰が抜けてしまった。一歩も、動けない。

 もう、この先の生を歩むことは――


「貴方がいないと、私は……」


 緋色のシュシュを抱きしめて、私は嗚咽を零した。

 こんなことなら、あんな本なんて書かなければよかった。書きたくないと言っていた私に従えばよかった。そもそも、アカネに頼むべきじゃなかった。つらくても、覚えていれば。

 ――いや、もし覚えていたら私は抜け殻になっていただろう。

 ミドリ先生の同僚として、ヒュッテやアレンと共に、学院生のお手本になって教員として働く今の自分は、夢だった生活は、実現できなかった。


「……そんなものッ!!!」


 それが、なんだっていうんだ。

 隣にアカネが居てほしかった。

 縛りだろうが何だろうが、どうにでもして、私もアカネについていくべきだったんだ。そうすれば、アカネの隣に居ることが出来た。


「王国に生まれる民は、新しい魔法を作ることが出来ない。魔法の力を争いに使うことは出来ない。命を奪う魔法を使うことが出来ない……ふふ。今思えば随分偏った縛りですよ。こんな恣意的な……1000年前の王族は、よほど魔法の力を恐れていたのですね」


 この狭い王国で、魔法を使った争いが起きれば、は一瞬で破滅していたことだろう。それを思えば、魔法という手放しがたい力の制御という意味でその縛りは効果を発揮していたのかもしれない。

 だが、その縛りのせいで私はきっと、外の世界でアカネの隣に立つことはできない。何と戦っているのかは分からないけれど、魔法を使って戦うことの出来ない私では。


「――それでも。それでも、だ」


 それでも、やるべきことを、やるべき時にしなかった事実は変わらない。

 私は、アカネの傍から離れるべきではなかった……。


「アカネ」


 脳裏に木霊する、あの日の自分の慟哭。

 突然の喪失感に混乱して、ただ叫ぶことしか出来なかった。後から手紙を読んで駆けつけて来てくれたハンナとアイリに抱きしめられて落ち着いたが、その目に宿った怒りとも悲しみとも取れないあの表情の理由が、今なら分かる。

 アカネから離れるしかなかったのなら、私はどんなに痛くても、覚えているべきだったのだ。


「アカネ……ごめんなさい」


 そんなことを今更言っても、もう届くことなどありえないというのに。


「……アカネっ」


 私はあの日と同じように、私とアカネとを隔てる境界線の上で、声が枯れるまでその名前を呼んだのだった。

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