燈る、2人だけの星
その瞬間、私は思い出していた。
『卒業の日。貴方の魔法で私の記憶を消してください』
私は、かつて、誰かにそう告げたのだと。
※※※
きっかけは確かにあった。
まだアカネと友人関係になる前、アカネは『ミドリちゃんはね、わたしと同じ故郷の出身なの。だから王国に来る前から付き合いがあって』と言っていた。王国の外に、人類は存在しない。初等教育で学ぶ歴史、常識――その違和感をちゃんと考えられないほどに当時のシオンは感情がほつれて、冷静ではなかった。
それに、自分には決して使えない自由な魔法を使うこと。ヒュッテとの模擬演習で、『花火』と言っていたこと――シオンの語彙には存在しない単語だった。
2回目の豊穣祭の時、ヒュッテの師であるアサギに関して、知っている素振りを見せながら話さなかったこと。そして、何より。
アカネは、ミドリ先生は、そのアサギは、共通して王国では見ない黒い髪であること。
髪の色に関しては珍しい色も確かに存在するから、黒が非常に稀な例であると、誰もが認識していた。しかし、アカネの傍に誰よりも居続けたシオンには、その共通点が確かな意味を持って立ち上がって来た。
もし、もし仮に――
「すまないね。学院ではお喋りする場所が限られてしまうから、わざわざ私の家に足を運んでもらって」
シオンは翌日、ヒュッテとダン、アレンを何とか捕まえて放課後、ロッテとヒュッテの暮らす家へやって来ていた。なるほど、確かにアカネがしようとしている話は学院内でおいそれと出来るようなものではないだろうし、ヒュッテもそれを察したのだろう。
アカネが、新しい魔法の件で話があると告げた時のヒュッテの顔は、期待と悲痛とが混ざった複雑さだった。強く印象に残る表情だったのはダンやアレンも同じで、特にアレンは普段の冷静さが剥がれ、貪欲に目を見開いていたからシオンは驚きを隠せなかった。
「いえ。わたしも多分、人がいない場所を提案していたと思いますから、ちょうどよかったです」
ヒュッテに微笑むアカネは表面上いつもと変わらないように見えるが、微かな手の震えをシオンは知っている。それほどまでに、アカネにとっては重い話が、待っているのだろう。
シオンは無理からぬことだと思う。
昨晩、アカネの決意の色を帯びた目を見た瞬間に浮かんだある仮定。それが正しかったら、きっと自分も、平静さを装いきれない。
シオンはアカネ、ヒュッテ、ダン、アレンの4人がめいめい腰かける中、不自然なほどに立ち尽くしてしまった。当事者ではない自分が、ただの仮定しかない自分がこうなのだから、きっとアカネは。
――シオンの、仮定。
アカネやミドリ先生、アサギは王国の人間ではないのかもしれないということで、すなわち、王国の外に人類が存在しているのではないかという、それは仮定だ。同時に、王国の歴史が偽りである可能性をはらむその仮定によって、シオンは決定的な考えに辿り着いた。あるいは、アカネと心を通わせたシオンだからこそ、辿り着いた可能性。
王国の民は、何者かによって使える魔法を恣意的に制限されているのではないか?
「シオン?大丈夫?」
「あ、ええ。すみません」
アカネに覗きこまれ、シオンは慌てて空いている席に腰かけた。シオンに気を遣ってか、アカネの隣の椅子が空いていたため、定位置に収まる。
アカネの隣に居るのに、出会ったばかりの頃のように、シオンは越えがたい壁を感じてしまった。
(……私の勝手な妄想に過ぎないかもしれないのに、アカネに対してこんな隔意を覚えてしまうのはいけません。シオン、貴方がすべきは、アカネの言葉に耳を傾けることです)
自分でも驚くほどに、意識が切り替わる感覚があった。
それが、シオンが身に着けてきた、自分を律する生き方で――それが変わるきっかけになった人は、今自分の隣に居る。
「迂遠な言い方をしてもしょうがないので、はっきり言います。ヒュッテさん、ダンさん、アレンさん……シオン。皆さんなら、受け止められると、判断したということをまずは知っておいてください」
アカネの言い回しに片眉を上げたヒュッテと、顎を撫でたダン、眼鏡を押し上げたアレンの無言の応えに頷いたアカネは、次いでシオンを見る。アカネの物言いは一見して、「希代の元風紀委員長とそれを支えていた副委員長という優秀な人間なら」、という意味にも聞こえる。
けれど、違うと思った。
ダンとアレンはヒュッテに付き合う形で。ヒュッテは自ら、「新しい魔法を作る」ことを志して。形は違えど、シオンもアカネの自由な魔法に惹かれたという意味では、全員が「設計図の魔法」を疑う素地がある。
「構わない。聞かせてくれ」
――これは、私がこの時のことを書きながら思ったことだ。
ヒュッテは私を通じてアカネに「新しい魔法」の話を聞かせ、アサギのことを引き出そうとしていたのではないか、と。アカネに直接聞いても教えてはくれないだろうし、待ち続けるのは彼女の性格とは異なる気がする。無理やり聞くのではなく、あくまで「アカネから」という状況を演出して。
ヒュッテの真意は分からないけれど、この状況を作ったことに関しては……いや、今はよそう。
アカネは、そう、確かこんな風に切り出した。
「分かりました。では、言いますが――王国の民が設計図を編む以外の魔法を使うことは、不可能です」
「……は?」
「聴きたいことは沢山あると思いますが、わたしはそうと知っています。なぜなら」
そこで息を大きく吸ったアカネは、目を伏せ、胸に手を当て、最後にシオンを見て、微笑んだ。
「なぜならわたしやミドリ先生、そしてアサギは、この王国の人間ではないからです。王国の歴史では滅んだとされている、王国の外から、わたしは来ました」
来たか、と思ったシオンだったが、それでも動揺に心が跳ねる。予想が出来たシオンでさえこの調子だ、ヒュッテたちはどうだろうと視線を投げると、
「――やっぱり、そうだったんだねアカネ。ヒュッテの言っていた通りだ」
「ああ、そうだな。最初にヒュッテが言い出した時は俺も正気を疑ったが……こうして本人の口から聴けば、さすがに認めざるを得ない」
ダンとアレンはあろうことかシオンよりも冷静に、話を受け止めていた。のみならず、信じ難い発言を零し、これにはアカネも表情が揺らいでいた。
全員の視線を浴びたヒュッテはしかし、腕を組み、なんでもないように零した。
「そうだろうと思ったよ。魔法なんてものがあるのに、王国の連中は教員でさえも誰一人、自分で設計図を作ろうという発想がない。王国の人間はこう教わるだろう?魔法とは、設計図を再現することだと。ならば可能性は2つだ。1つ、神代の時代から今までで新しい魔法を生み出す技術が失伝されたか。そしてもう1つが、王国の人間にはそれが不可能であるか、だ」
シオンと同じ発想に、ヒュッテも至っていたのだ。ただ静かに聞くアカネに、ヒュッテは構わずに続けた。
「ロッテから、君が自由な魔法を――つまり、設計図にはない新しい魔法を使ったことを、聞いたよ。その瞬間、私は思い至ったんだ。君が、王国の人間ではない、とね」
「……1年前に、既に気づいていたんですね」
「ああ。だから君にアサギのことを聞いたんだよ。同じ髪色であれば、同じ出身である可能性が高い、であれば、姿を消したアサギは文字通り王国から消えていて、外の世界のどこかに今も生きているんじゃないかと思ってね」
シオンは、ヒュッテがなぜ希代の風紀委員長と呼ばれていたか完全には理解出来ていなかったと痛感した。シオンの知る彼女は、ロッテを愛し、その気持ちゆえに不器用になってしまう、ある意味では等身大の年齢相応の姿。
王国の民にとっては自分の存在すら否定するような考え方に、ヒュッテは容易に辿り着いたのだ。その怜悧な頭脳で以て。
規則に厳しいダンなどは受け入れないだろうとシオンは思っていたが、ヒュッテが事前に話していたこともあり、すんなり受け入れている。アレンの方も、知的好奇心に貪欲になれるほどには、冷静だ。
シオンもまた、ヒュッテの言葉を聞くうちにうるさい心臓が落ち着いてきた。アカネがどこから来たとしても、アカネを想う気持ちは変わらないから。
「なら、話は早いです。詳しいことは説明出来ませんが――こればかりは了承してもらうしかありません――王国の民が設計図の再現以外で魔法を使うことが出来ないのは、神代の時代の盟約が原因です」
「……なるほど?つまりアカネ、君はこう言いたいんだな。王国では半ば神話のように語られている神代の時代は、王国の外では史実だと。俺は学院のあらゆる歴史資料を調べたが、『盟約』などという言葉は存在しなかった。つまり」
「……そうです。王国には、歴史を消した者たちが居る。その者たちが神代の時代、およそ1000年前の時代に王国の民にある縛りを与えたのです」
アカネは胸に手を当て、4人に反対の手のひらを見せ、告げた。彼女も口にすることが、精一杯な、それは様子だった。
「王国に生まれる民は、新しい魔法を作ることが出来ない。魔法の力を争いに使うことは出来ない。命を奪う魔法を使うことが出来ない」
一つ一つ指折り数えるアカネは、そこで言葉を切ると、ぎゅっ、と拳を握りしめた。歪む眉が、震える指が、アカネの怒りに見えて、シオンは覚えず片腕を抱いていた。
こんな表情、見たことない。
「その者たちは人の精神に干渉する魔法によって、王国の民に永劫それらの縛りを課しました。それから時が経ち、縛りは「教え」として定着しています。魔法とは、設計図の再現である、という教えとして」
さすがにここまでは予想出来ていなかったのか、ダンやアレンは目を見開いているが、ヒュッテとシオンは静かに息を吐くだけだった。それは、一度目指したことがある者の、行き場のない感情だったのだろう。
聞きたいことは山ほどあったけれど、シオンにとって最も重要なことは、一つだけだった。
「私たち王国の民には新しい魔法を作ることが不可能であるという話は、理解しました。その、正直私が知っている魔法とはかなり出来ることに違いがあるという意味で困惑はしていますが――」
設計図には、そこまで超越的な現象を引き起こす「魔法」は存在しないから。
しかし、それこそが本当の魔法であるかもしれない、ということなのだろう。
「私が聞きたいのは、アカネ。貴方やミドリ先生、アサギは、どうやってここに……王国に、来たのですか?」
「……そうだよね。王国では、外の世界なんてないって教わるから当然気になるよね。簡単に説明すると、ヒュッテさん。わたしがここに来れたのは、リーダー……アサギさんのおかげ、なんです」
「――!アサギが?」
「はい。詳しいことはこれも言えないんですが。アサギさんは、王国の外の世界でわたしたち故郷が同じ人々の組織のリーダーをしていて。そこでわたしは魔法を教わって、そして。学院に行くように、導いて貰ったんです」
詳しいことは言えない。
アカネが繰り返すその言葉の重みが、今のシオンになら分かる。アカネが王国の外から来たという事実だけならまだしも、王国の民を呪ったという者たち。今、その者たちのことを知っている王国の人間が居るのかは分からないが、もしその者たちの思想を継ぐ存在が居たら。
軽率には語れないことは、明らかだ。今のアカネに話せる限界が、
「それも、魔法で、ですか?」
「……うん。わたしの好きな、魔法だよ」
アカネは何らかの魔法で、アサギによって王国にやって来た、という経緯なのだろう。
「――アサギは、元気に、していたか?」
アサギの名前を聞いてからそれまで感情を表にしてこなかったヒュッテが初めて声を震わせた。そこに込められた感情がいかほどのものか、シオンには推し量ることしかできない。
あのヒュッテが、拳を固く握りしめて、悲痛に頬を歪めている。
「……はい。とても。わたしに魔法を教えてくれた時、よく言っていました。『アタシがあんたくらいの時、王国の学院に居てね。弟子を取ってたんだ。』って」
「そう、か。アサギはその弟子のことを、なんと言っていた?」
「もっと、一緒に居たかった、と。そう、言っていました」
「――ッ。……ふん、自分から消えた癖に何を」
語気は鋭く、険しい表情なのに、穏やかな目元。
ヒュッテの感情の起伏にダンやアレン、アカネまでも複雑な表情をしていたが、シオンは意識の内に入り込んできた違和感に、胸の奥がざわついていた。
だって、アサギはアカネと同郷で、王国の外で「何か」をしているらしくて。離れたくなかったと言っているアサギは、ヒュッテの前から姿を消していて。
――アカネも、いつか居なくなってしまうの?
(……大丈夫。アカネは、私がずっと傍に居るから。アカネたちと同郷でもミドリ先生は王国に何年も居るし、アサギさんが、例外だっただけ)
シオンの内心を知ってか知らずか、アカネは軽く手を合わせて視線を集めた。
「まず、ヒュッテさん。アサギさんのことを伝えるのが遅れて、すみません」
「気にするな。事情があったのだろう?それに、結果的に教えてくれた。それで、十分だ」
「……ありがとうございます。そして、皆さん。今のわたしに伝えられるのは、これまでです。新しい魔法は、王国の民には決して作ることが出来ない。今や王国の民の縛りのことを知っているのは、歴史だけです」
――王国の外、滅んだとされる世界だけということだろう。すなわちそれは、王国だけが、知らないということ。
「だから、試みとしてそれを実践しても、ヒュッテさんたちが暗殺されるとか、そういった心配はありません」
「確かに、私が秘密を守りたい立場ならこの場の全員を消していてもおかしくはない、いやきっとそうするだろうな」
「はい。だからせいぜい、1年を無駄にして、教員になれない。ここまでの影響しか、ないと思います」
「ふむ、言うな、アカネ。だが、それは事実なのだろうな。いくら俺やヒュッテが努力しても、最初から出来ないのでは意味がないから」
「そうだねぇ。僕も、アレンの夢は叶って欲しいから、無理に続けて欲しくはないかな」
アカネにしては厳しい言い方だったが、それはアレンの言う通り事実だった。この場にはアカネの言葉を疑う者は居ない。程度の差こそあれ、王国の常識を疑っていた者たちだから。
このまま「新しい魔法」の試みを続けても、永遠に辿り着くことはないが、王国の民に縛りを与えた者たちの思想を受け継ぐ存在も居ないため、圧力がかけられることもない。試験騒動の時のアカネのように、「異端」のレッテルを貼られ、教員になれず、1年を無駄にするだけだ。
――だけが、こんなにも、遠い。
「……ありがとう。私としては自分の限界を知ることが出来てむしろすっきりしている。もともと、違う研究の片手間にやろうとしたことだから、アカネ、そんな表情をしないでくれ」
「ですが、ヒュッテさん……」
「それに、アサギのことを知れた。私にとっては、十分すぎるほどだ」
「俺もヒュッテに誘われた側だからな。以前から疑問に思っていたことが氷解して、今は清々しい気分だ」
「同感。僕も、アレンに付き合わされて散々議論してきたからね。答え合わせが出来てよかったよ」
口々にアカネに礼を言っていく3人に続き、シオンも何か言わねばと思ったが、胸に渦巻く違和感や不安で言葉が詰まり、ただ微笑むことしか出来なかった。しかしアカネにはそれでも伝わったようで、こくり、と頷き返してくれた。
「アカネ、それからシオン。今日はありがとう。正直、咀嚼しきるのにかなり時間を使いそうだが、大方は想定通りだった。答え合わせが出来たと思えば、とても有意義な時間だった」
「いえ、私も、聞きたかったことが聞けましたから」
「――すみません、すぐに話せなくて。わたしに決心が、足りなかったんです」
「ふむ、アカネ、無理もない。私が逆の立場だったら、きっと話す決心はつかなかっただろう。それほどに、これは――重たい事実だ」
ヒュッテはシオンとアカネの肩をそっと抱き寄せた。頭2つ、3つぶんほどの身長差のあるヒュッテに抱擁されて、シオンはおおいに戸惑う。ああ、ヒュッテはこれほど存在感が強かったのだ、と今更ながら思う。
風紀委員に誘われ、断り、模擬演習で戦い、そして今。
「君たち2人のこの先に、幸があること祈っている」
頼れる先輩は、シオンたちの行く末を案じてくれる存在になったのだった。
~~~
アカネの話を聞いて、取り乱さなかった。シオンを含め、あの場に居たアカネ以外の4人が平静でいられたのは、アカネの話が答え合わせになったからだ。
だから、シオンは新たに芽生えた違和感にこそ、心を絡め取られた。アサギがヒュッテの前から消えたように、アカネも消えてしまうのだろうか、と。
以前のシオンなら、そんなことはないと。アカネはそんなことをしないと。
言い切ることが出来たかもしれないのに、今は。
(私は、アカネのことを……まだ、何も知らないのかも、しれない)
夜の帳が降りた王国を歩く。寮への帰路が、2人で綴ってきた日々へ戻るこの道行きが、シオンとアカネに同じように見えているのか。それが、
(私は、)
断言できないことが、不安だった。
~~~
いつもなら寮の部屋で2人静かに過ごしている時間に、学院に続く道を歩くのは新鮮だった。そもそも規則で寮生はこの時間に外出出来ないから、既にいくつかの規則から外れている。
ダンには渋い顔をされたが、事が事だと今回は見逃してくれたし、
「まあそもそも僕はもう学院生じゃないしね」
と笑っていた。
街の中心に向かえばこの時間でもまだ賑わっているだろうが、そもそも学院があるのが街のはずれであり、ロッテたちの家が学院に近いために、喧騒は遠い闇の彼方だ。ただ、真っ黒な空にちりばめられた星々に見下ろされるだけの道。
そういえば、アカネは昨日の真昼の流れ星と思しき光についても何か知っているようだったけれど。
「シオン、今日はありがとね」
「何が、ですか?」
「わたしの話、ちゃんと聞いてくれてさ」
「……待っていて、と言ったのはアカネの方じゃないですか」
「ふふ、そうだったね」
アカネがわずかに先を歩く今、互いの顔は見えない。それなのに、なんとなくどんな表情か分かってしまうのが、シオンは嬉しいのに痛かった。
シオンの知るアカネが大きいほどに、シオンの知らないアカネの影が濃くなるから。
「でも、皆意外なくらいすぐに受け入れていて、わたしの方がびっくりしたくらいだよ」
「それは……アカネが思わせぶりだったのもありますが。ヒュッテさんが言う通り、注意深く見れば、綻びは確かにありますから。私も気になっていました。最初に設計図を作ったのは誰か、私が自由な魔法を使えないのは何故かと」
「……そうだよね。わたしも、すぐに話せればよかったんだけど。ここでの時間が長くなればなるほど、真実を告げて、大切な時間が失われることが、どんどん怖くなって」
だから言えなかったんだ、とシオンを振り返って笑う彼女はけれど、泣きそうで。
受け入れられず、否定され、再び異端とそしられたら。そう考えたら、告げる勇気も出なかった、と。
「でもヒュッテさんが新しい魔法を作ろうとしてるって言っていたからさ。本当はわたし、シオンにだけ話すつもりだったんだけど……ヒュッテさんたちは、信頼できるかなって」
「そう、ですね。あの方たちは……良い人たち、ですから」
シオンはアカネが自分にだけ話してくれようとしたことが素直に嬉しかったが、同時にそれが、ある可能性を示唆しているように思えてならなかった。アカネはヒュッテたちにさえまだ話していないことが、あるのだ。
あるいは、「シオンに伝えたいこと」は、まだ何も話せていないとしたら。
「――アカネ。本当は私にまだ、話したいことがあるんじゃないですか?」
「ふふ、ああ、シオンはほんとうに、わたしのことをよく分かってるね……。うん。むしろ、シオンに言いたかったこと、全然話せなった」
「あれで、ですか?」
「うん。あんなに話したけど、ちょっとも」
腰の後ろに手を回し、アカネはシオンに一歩踏み出してきた。シオンを見上げるアカネのその腕がそっと伸びて、シオンの手を絡めとる。
突然のことに心臓が跳ねて、たたらを踏んだシオンをぐいと引き寄せて。
「わたしが、シオンに星を見せてあげる」
きらめく笑顔で、アカネは宣言した。
「あ、アカネ?ええと……」
「――魔法はね、本来もっと自由なものなんだよ。王国の設計図に固執する思想は、その可能性を摘んでいるんだ」
――刹那、シオンにとって永遠に忘れられないだろう時間が訪れた。
アカネに手を引かれたシオンは最初、なぜ地面が遠のいているのか理解出来なかった。隣のアカネの顔を見ると、楽しそうに笑っていて、ああ好きな表情だって。
視界がアカネで満たされて、ふいに、それまで周囲にあったはずの建物の姿が消えていることに、気がついた。推量はこの状況の答えを弾き出しているのに、理性がそれを認めない。だって。
「あははっ、ねえ!シオン!わたし、空を飛ぶの久しぶりだよっ」
「わっ、ああっ、ああああアカネっ!?わたっ、私っ、おちっ」
「はははっ!シオン、落ち着いて。これは、わたしの魔法だから。王国に来る前は、空を飛ぶ魔法が一番得意だったんだから。絶対に落ちないし、安心して!」
「えっ、えっ、あああああ……!?」
空は、人類の領域ではない。
魔法でさえも到達できないその場所に今、シオンはアカネと共に立って――否、飛んでいる。鳥というよりも水中を舞う魚のように、空を優雅に揺蕩っている。肌で風を切る感覚が、脚が何にも触れていない感覚が、街を見下ろす感覚が、その全ての未知がシオンの心に刻み込まれていく。
何よりも、アカネのこの躍動する心を一番傍で感じられることが、シオンは嬉しくて。
「魔法はねっ、わたしのどんな想像にも応えてくれる!わたしを、わたしで居させてくれる特別なんだ!」
「アカネっ、空を!私、今空を……!」
「そう、こうやって――大好きな人と一緒に空を飛ぶことだって、出来るんだ」
アカネが脚を絡めてシオンの身体を固定し、空いた両手でその頬を挟んでくる。こつん、と額を合わせて、込み上げる愛おしさのままにシオンに告げたアカネの言葉は、シオンにもじくじくと伝わってきた。
同時に、シオンは知る。
今まで、アカネの魔法だと思って見てきたものが、彼女のやりたかったことのほんの一部でしかないことを。そして、自分がやはり、アカネのことを何も知らなかったのだ、ということを。
「あ、アカネ……誰かに見られたら、大変なことになるのではないですかっ?」
「ふふっ、大丈夫!今のわたし最高に調子がいいから、姿を隠す魔法も同時に使ってる。誰にも、わたしたちは見えないよ」
「そ、そんなことまで……」
シオンはアカネの魔法の可能性が眩しかった。自分に到達できなかった理由が自分にはままならない歴史上の出来事だと分かっても、なお、憧れてしまうほどに。
「私は、シオンの魔法を何も知らなかったのですね」
「シオン……」
「いつも2人の部屋で見せてくれるものが、アカネの魔法でした。私は、自由な魔法の可能性の大きさを考えもしなかった。今だって、アカネが言いたいことが何か、何も分からないんです」
抱き合って、空を舞いながら告げた弱音は、アカネと友人になる前に内心を吐露した時以来の本心で、口にしてからシオンは悟った。もっと早く、アカネに本心を打ち明けていればよかったのかもしれないと。
待っていて、と言われた時、もっと話し合うべきだったのかもしれないと。
「今の私には、アカネ……貴方が分かると、胸を張って言えないのです」
ずきずきと、アカネの言葉が胸を締め付けていくのが分かった。アカネは、王国の外から来た子。そもそも、住む世界が違ったのだ。
私では、アカネのことを何も分かってあげられない。
「……それで、いいと思うよ」
「え」
「だって、わたしも時々シオンの知らない一面を知れて、びっくりするもん。さっきだって、あんな風に笑う姿、初めて見た。わたし、シオンのことまだまだ知らないことだらけだなって」
「そ、それは……アカネが私を空に引っ張って来たからですよ。私が言いたかったのは、貴方の悩みとか、内面とか、恋人ですから……貴方のことは、何でも分かっていたいから」
「……シオンは、わたしのこと十分分かってくれてるよ。わたしの過去を知らなかったのは、わたしが、話していなかったから」
風に揺れるシオンの前髪を、アカネはその手ですくった。
「わたしの今を、シオンは一番よく知ってくれてる。それと同じくらい、わたしもシオンの今を、一番知ってる自信があるよ。それでもまだ知らない部分があることは、わたしは少し嬉しいんだ」
「……悲しい、ではなく?」
「うん。だって、たった2年でここまで知れた。こんなに好きなシオンの、まだまだ知らない魅力があるんだって、そう思えるから」
その言葉を聞いて、シオンは己の勘違いに気が付いた。アカネを知らないことが、痛かったのではない。シオンの知らないアカネが、遠くへ行ってしまうのではないかと、その可能性が、怖かったのだ。
分かってあげられないことが痛いのではない。アカネが何を抱えているのか、その正体を知るのが怖かったのだ。
「――わたしね、シオンに出会えて本当に良かったと思っているの」
ああ、だめ。
アカネ、その続きはだめ。
もう、分かってしまったから。自分の気持ちの過ちも、痛みの所在も。
貴方の言葉の続きも。
「口にしてしまったら、その瞬間に何もかも終わってしまいそうで、怖かった。でも、わたしはシオンにこれ以上隠しすべきじゃないと思ったから、だから、言うね」
待っていると言ったのに、聞きたくなくて、シオンはアカネから逃げたくなる。けれど、空の上では離れることは出来なくて。
ああ、風に踊るツインテールが綺麗だな、と現実逃避にも似た感想が、頭に響いた。
「わたしは、学院を卒業したらわたしが居なきゃいけなかった場所に戻らないといけないんだ」
夜、果ての見えない黒い空の向こうで光を放つ星々の遠さよりも、シオンは今、こうして一番近くで触れている最も大切な人との距離の隔たりを、強く感じた。
「これは、アサギさんとの約束なんだ」
「……アカネ」
街の燈からも離れた空の中、月光すらその背で遮った暗がりでアカネの顔も覚束ないことが、何かの暗喩にさえ思えて。シオンは声を絞りだすのがやっとだった。
「アカネが居なきゃいけない場所は、私の隣では、なかったのですね」
「――シオン。それは……わたしは、」
「私は、貴方の隣にずっと居たいです。貴方が居なくなるというのなら……私を、一緒に連れて行ってくれませんか」
手を取り合って見つめるこの距離で、シオンは首を緩く横に振りながら続けた。
嫌な予感が当たった現実を否定するように。
「私にこの気持ちを教えてくれたのは貴方です。今の私には、貴方が居ないと……私は、貴方と生きて、いきたいんです」
「――それは、わたしだって同じだよシオン」
「えっ?」
「わたしだって、同じなんだ。戦いから逃げて、学院に来て、ただ現実から目を背けようとしていたわたしに、生きる希望を与えてくれたのはシオンなんだよ。シオンの傍に居たいと思えたから、今のわたしがいるんだよ……だから、」
夜の闇に溶けて、ああ、大好きなツインテールも少し見えにくいのに。頭の後ろから、緋色のシュシュの輪郭が少しだけ覗くのだ。
一番最初にアカネの姿を見た時は、後ろ姿だった。ミドリ先生と並んで歩いて、学院の中へと消えていくその様子が、今、自分の手から離れて遠くへ行こうとしているアカネと重なって、痛い。
だから、
「だからわたしだって、本当は行きたくない。でも、わたしは戦わなきゃいけないから」
だから、アカネの葛藤なんて聞きたくなくて。
「――なら、離れないで」
「それは……出来ないんだよ」
「どうしてですか?」
「……ヒュッテさんたちには話していなかったんだけどね。わたしや、アサギさんは、視られているんだ。〈死んだ意志〉たちに」
「――〈死んだ意志〉?」
「そう。王国の民から、魔法を奪った張本人たちだよ」
「――!思想を継ぐ者は、誰も居ないという話ではなかったのですか?」
「うん。居ないよ。継ぐ者はね。〈死んだ意志〉たちは、1000年前の王族だから」
「な……ん、それは。それも、魔法、なのですか?その、歴史に消えたはずの者たちが、今なお、アカネを監視していると?そんなの、信じられるわけ――」
感情のままにアカネを睨んだシオンは、彼女の顔に浮かぶ諦めの色を見て、語気から勢いが削がれる。なんで、そんな表情をするの、アカネ?
「〈死んだ意志〉たちによって力を貰ったわたしたちは、王国の民とは別の呪いを受けてる。それは、王国の地を踏み続ければ、命が奪われるという呪い。何十年も前は、わたしみたいに王国に来ることは例外的ではなくて、3年の間、学院で学ばせる仕組みだったみたいで。アサギさんが言うには、形骸化した今は、わたしたちが王国に居られる時間を、3年に縛る呪いになってるの」
「命を――?で、ではミドリ先生は?彼女も、アカネたちと同郷なのでしょう!?なぜ先生は、ずっとここに……!?」
「ミドリ先生は、〈死んだ意志〉たちが学院に必要だと判断したんだ。ミドリ先生は――外でも教師だったから」
「……外、でも」
ああそういえば、知らないことがもう一つあるな、と。
情報の波に混乱する頭が弾き出したその疑問が、受け入れ難い現実から顔を背けさせた。
「ねえ。アカネは、外で、何をしていたの……?」
「わたし、は。ああ、シオンには言いたく、なかったんだけどなあ……」
「――お願い、アカネ。私、貴方が分からないの。知らなくていいなんて、思えないから」
「……そっか。ううん、ごめん。今まで話せなくて。わたしは、わたし、は……戦ってた。大好きな魔法を、大嫌いな使い方で利用して。地上を取り戻すために」
アカネが何を言っているのか、シオンには理解出来なかった。アカネが外から来た事、王国の民にかけられた縛りのこと。それが、アカネの居た世界のほんの一部でしかないことだけが、痛烈に頭を割るようだ。
1000年前から生き続けている何者かが、アカネを苦しめていて、王国の外では、アカネが身体を張って何かと戦っている。
「――分からない。分からないですよ、アカネ。そんなこと、急に言われても」
「……ごめん」
「なんで、アカネがそこまでしなくちゃいけないのですか?アカネはもう十分――戦った、そうでしょう」
「……っ。シオン、シオン……ありがとう。でも、これは、決まった、こと、だから」
闇に目が慣れて来て、正面から見つめ合うアカネのその顔が、ようやくはっきり見えた。涙1つすら浮かんでいない弱々しい笑みが、そこにはあって。
あの日の――アカネが学院に来た日の、表情にどこか似ていた。
「アカネは、いつか別れが来ると知って、私と恋人になったのですか」
「――うん」
「……どうして」
「シオン?」
シオンは、頬を叩く雨に差す傘もなくて、相対する恋人の乾いた頬に、怒りが込み上げてしまった。
どうして、貴方は泣いていないのですか――
「どうして最初から無くなると分かっていたのに、私に……私に、こんな大切なものを、教えたのですか!」
言ってはいけないと分かっているのに、ぶつけるべきではないと分かっているのに、言葉は次々と溢れて止まらなかった。
目を見開くアカネの姿に、痛む胸すら押しのけて、口は勝手に動く。
「私には、耐えられません……アカネが居ない日々など、想像出来ない。したくない。私にこんな風に想わせて、貴方は、貴方は――最初から、終わりを知っていたなんて……ずるいですよ、アカネ……」
「――っ、シオン、わたしっ、わたしも嫌だよ、離れたくない!ずっと一緒に、居たいよ……でも、出来ないんだよ」
「だったら」
この一言を言ってしまえば、全てを否定することになる。
それでも、私は犯してしまったのだ。最悪の過ちを。
「卒業の日。貴方の魔法で私の記憶を消してください」
「……し、シオン?」
「貴方に会えない日々を過ごすなんて、私には到底耐えられない。だったら、貴方との日々を――覚えていない方が、いい」
「ま、待って。シオン、あのね、そうじゃなくて、えっと、わたしは、最後の日まで2人で楽しく……」
「――楽しめませんよ、二度と会えない別れが来ると知っているのに、私には」
「――し、おん」
空が飛べて、姿が隠せて1000年にわたって王国の民から本当の魔法を奪い、そして、アカネたちの命を奪い得るだけの、魔法。
それが魔法の可能性だと言うのなら、記憶を消すくらい造作もないと思ったのだ。
「わた、わたしは、忘れたくないよ……」
「ええ。ですから、私の、記憶だけを」
「そんな、シオン……忘れてもいいの?」
「――いいわけ、ないじゃないですか!忘れたくない!でも、アカネ……覚えていたら、私は貴方が居なくなった後のこの王国を、どうやって……生きればいいか、分からないのですよ……だったら、愛おしい日々のまま、終わりに、したい」
その一言が、決定的だったのだと思う。
本当なら、アカネに寄り添えたはずなのだ。2人に残された時間を、大切に過ごすことが出来たはずなのだ。
それでも、私は言ってしまった。
「……分かった。ごめんね、シオン。卒業まで――よろしくね」
涙の一滴さえ流さないまま、柔らかく微笑んで見せたアカネの表情に、胸が締め付けられた。結局、最後までアカネは泣いてくれなくて。涙だけが悲しさや後悔の証明ではないなんて分かり切っていたのに、シオンは言ってしまったのだ。
「――はい。大好きな、アカネ」
シオンも、アカネも、互いを心から想っているというのに。
シオンの言葉に小さく頷き、シオンに背中を向けたアカネの頬に、雫が燈っているように見えた気が、した。
※※※
手のひらで顔を覆って、私は声にならない声を上げた。
「うう……ッ!!ん、くああああ――ッ!!」
喉の奥から吐き出すように唸る私の脳裏には、はっきりと映し出されている。
大好きな恋人に、終わりにしたいと告げられた時のあの顔が。
雫こそ落ちていなかったけれど、確かに泣いていた、あの顔が。
「私が……ッ、アカネを――」
閉ざされている私の記憶の扉が、ほんの少しだけ、動いて――
※※※
アカネと空を飛んだ日から1か月経つころには、あの日のことが遠のいて、普段通りに接することが出来るようになった。私は卒業の日のこと、あの日のことを、必死に考えないようにした。
一時の気の迷いで告げてしまった言葉だと思いたかったのに、日を経るごとに確信が強くなっていくのが分かった。私は、アカネに二度と会えないのに、アカネとの日々を覚えていることが、出来そうにない。
模擬演習で「花火」という単語を聞いた。それは恐らく、私の知らない王国の外の何かなのだろう。豊穣祭でアサギの名前を聞いた。アカネに魔法を教え、学院にアカネを連れてきた人物。ヒュッテたちと話して、王国の民にかけられた縛りを知った。アカネの運命を知った。
そして私は、アカネに言ってしまった。
『貴方の魔法で私の記憶を消してください』
今、卒業まで幾ばくも無い。
事は、1か月前に遡る。卒業の式典のための準備が始まり、にわかに浮足立つクラスメイトたちの中、私は吐き気に耐える日々だった。あと1か月で、アカネとの日々を忘れてしまう。
――いやだ、とはっきり思った。
でも同時に、これでいいのだとも思った。会えないまま記憶に縋るように生きるよりは、忘れてしまうほうが楽だから、と。
それでも、いやだと叫ぶ心のままに、私は書き残す事にした。忘れるために、忘れないために、アカネとの出会いから、別れが決定的になってしまった日までのことを。
書きたいことは、これで全てだ。
私の愛おしいアカネ。
矛盾まみれの私を、どうか許してほしい。そして、わがままだけど。
私を、忘れないでほしい。
〈たったそれだけの終章〉
※※※
本を読み終えた私は力なくうなだれた。
一番知りたかったアカネの行方を明言することもなく、本の中の「シオン」の醜いわがままで、一方的に記憶を消させたことへの顛末。救いがたいことに、自分で頼んでおきながら、アカネに対しては、忘れないでくれと願うその姿。
もし、これが「自分」が書いた一行なら、私は、「お前」を決して許さない。
「私だったら、絶対に――」
その時、本を閉じたその手に付けていた緋色のシュシュがふいに目に入る。
――刹那。
『大好きだよ、シオン』
私は、
「あ」
本の出来事が、自分の記憶になる感覚に眩暈がして。
「思い、出した……」
届かない日々に、追いついた。
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