コレカラのユメガタリ

真昼の流れ星

 アカネが、他の誰からも疎まれるような視線を投げらた時。ロッテに言われるがまま何も答えられなかった時。まだハンナとアイリとまともに話してすらいなかった時。

 ――の、事を。

 書いていたころ、私はある1行を書いて、黒く塗りつぶした。あの時から、いや、それよりも前。アカネとの別れを知った時から私は思っていたのに。

 言いたいことを、結局口に出すことが出来ないままなら、私はこの3年で何も変われなかったのだろうか。


『こんな本、書きたくない』


 あの時塗りつぶした1行を、私は今ここで、だから、はっきりと言う。

 こんな本は、書きたくない。



※※※



 アカネとの別れ。

 書きたくなかったのに、今こうして私の手元にあるこの本。

 全部、もう少しで知れる。



※※※



 3回目の春が来た。高等部での生活も、これで最後の年を迎える。学院を卒業すれば、街での仕事が始まるか、あるいは既にシオンのように、教員を目指している者は学院での更なる学びが始まる。

 もっとも教員になろうとするものはそう多くはなく、シオンたちのひとつ上の学年ではヒュッテとアレンのみがその進路を選択している。ダンは、学院での研究に励むアレンを支えながら実家の仕事を引き継いだそうだ。学院内でダンとアレンを目にすると、シオンは少し懐かしくなる。


「ダンさんとアレンさんが卒業して忙しくなったのではないですか、ロッテ?」

「……はぁ。それでなくても姉さまの抜けた穴は大きいのにね。ねえ、シオンも入ってくれない?」

「私は――アカネが嫌がりますから。たまのお手伝いで手を打ってください」

「ふん。冗談よ、冗談」


 ヒュッテ前風紀委員長と恋人であるロッテは、ヒュッテが現役だったころから風紀委員に復帰し、贔屓目なしに能力を買われて風紀委員長となった。副委員長には中等部から所属している学院生が高等部1年目でありながら抜擢されている。

 副委員長はアカネやミドリと同じ黒い髪の学院生で、アカネが少し驚いていたのが印象に残っている。


「ヒュッテさんは元気ですか?」

「うん、元気元気。またアカネさんと試合したいって言ってたよ。でももうちょっと私だけを見ていて欲しいけど」

「ふふ、仲良さそうで何よりですね」

「……はぁ。まあ、否定はしないよ。春から2人で暮らしてもいるし」


 寮は2人1部屋ではあるものの、基本的には集団生活であった。その点、実家を離れて街で2人暮らしをするロッテとヒュッテが、実は少し羨ましかったシオンは、今この場所にいないアカネを思う。

 今朝、寮を出る時のことだ。


『ちょっと、今日はミドリ先生に呼ばれているから先に出るね』


 そう告げたアカネは、どこか浮かない表情でシオンに手を振った。


(あの日……ヒュッテさんから、という名を聞いてから、でしょうか)


 話せる時が来たら、とアカネは言ったが、あれから数か月。はまだ来ていない。アカネと恋人になる前の、1年目の豊穣祭の時のような、2人の関係に不和が生じる事態は起きていないが、シオンの中では違和感の芽は摘まれないままだった。

 アサギ、ヒュッテに魔法を教えた存在。そのアサギと魔法の癖が似ていて、かつ同じ黒髪。

 アカネは、自由な魔法を「わたしの魔法」と言っている。アサギが教えたのは、では、それ以外の魔法なのだろうか。

 そもそもシオンを含めた王国の民には使うことが出来ない、自由な魔法。設計図通りの魔法のみが、唯一絶対の正しい魔法の在り方とされるこの王国において、自由な魔法は理念としてだけでなく、実践としても使うことが出来ないのだ。

 シオンは、届かなかった。それは想像力や編み方の問題ではなく――設計図以外の魔法の編み込みに、身体が反応しなかったから。それが出来たアカネは、では。


(……いけませんね。新しい学年になってしばらく、忙しかったから。変なことを考えてしまいますね)


 アカネに出会った時から長さを変えていない、腰まで流れる空色の髪を払って、シオンは短く息を吐いた。


「それじゃあ、シオン。ありがとう。私はここで書類の整理があるから、先に教室に行って」

「ロッテ、私は構いませんが……こんなに多く。整理も手伝わなくていいのですか?」

「うーん、まあこれは委員長の責任だから。気持ちだけ受け取っておく」

「……分かりました」


 アカネもおらず、ロッテの手伝いをしていたからハンナやアイリも居ない学院の廊下を1人で歩く。思えば、アカネと出会ってから、こうして1人で学院を歩く時間が減ったように思う。最初はお互い打算的な関係だったアカネとも今や恋人。

 ぎこちなかったロッテとも肩の力を抜いて話せる仲になって、何が起きるか分からないものだ、とシオンは口元を緩めた。春先の朝の冷たい風にさらされたこの渡り廊下を1人で歩くのも、懐かしささえ感じる。


「おや」

「ふむ」

「あっ」


 感傷に浸っていたシオンは、廊下の向こうから歩いて来た顔なじみが一瞬、誰か分からなかった。2人とも、制服姿しか知らなかったから。


「シオンじゃないか。おはよう」

「おはよう。この道……風紀委員の執務室に寄っていたのか?」


 そこに居たのは、かつての「副委員長カップル」、ダンとアレンだった。


「ダンさん、アレンさん。おはようございます。ええ、委員会には入れませんが、たまに荷物運びなど……ロッテの手伝いをしているので」

「――そうか。卒業した俺が言うのもなんだが、助かるよ」


 両手に本を抱えたアレンと、アレンの本以外の荷物を持つダン。アレンの研究の手伝いに、学院に来ているのだろうか。

 ちら、と本を見やったシオンの視線をどう取ったか、アレンが目を細めた。


「少し、図書館で資料を借り過ぎてしまってな。俺1人では運びきれないから、ダンに来てもらったんだ」

「そういうこと。副委員長だった時は僕でさえ付け入る隙が無いくらいきっちりしてたんだけどねぇ。アレン、研究熱心だから最近は僕が居ないと色々抜けててさ」

「……否定は、しないが。それを言ったらヒュッテの方が問題だろう。俺たち引き留め役が居なくなって、ロッテも委員長で忙しいのをいいことに研究に没頭しているからな」


 その話を聞いてシオンはなるほど、と納得してしまった。あのヒュッテならば、委員長の荷が降りた後は、自分のやりたいことを突き詰めるのに心血を注ぎそうだ。周りの心配も受け流して、けろっとした表情で首を傾げるのだろう。

 ロッテからも様子を聞いたが、元気そうで良かった。


 ――など、元風紀委員長の噂をしていると。


「君たちの言い様だと、私がまるで研究に憑りつかれたみたいではないか」


 同年代の男子の平均よりも背の高いダンとアレン、その2人よりも上背のあるヒュッテが、影のように2人の背後から忍び寄って来た。アレンたちと同じように図書館から来たのだろうか。アレンと異なり、本は持っていない。

 ヒュッテに気づいたダンとアレンは、顔をしかめ、後ろを振り返ることなくシオンに手を振った。


「……げ、ヒュッテ」

「シオン、また会おう。俺たちはこれで」

「まあ待ってくれ2人とも。シオンも、久しいな」

「……え、ええ。お元気そうで何よりです」


 ダンやアレンは街の大人のような雰囲気の服装だったが、私服姿のヒュッテはミドリ先生のような雰囲気でシオンは一瞬、言葉が出てこなかった。たった1年でここまで雰囲気が変わるのか、と。

 変わったのは服装だけではなく、活力にあふれていた表情には深い疲れが滲んでいる。それを感じさせない声色は、さすがヒュッテだったが。


「話に聞いていたよりもお疲れみたいで、少し心配です」

「ふむ?私を気遣ってくれるのか?ありがとう、だがこれは昨日、考えごとをしていてな。眠れなかっただけなのだ」

「おや?ヒュッテにしては珍しく何か悩み事?」

「……ダン、ロッテとの関係で気をもんでいた時のヒュッテ忘れたのか?」

「――あ、たしかに」

「はぁ、その話は私たち3人の中だけにしてくれよ。それよりも、呼び止めたのは他でもない。君ら3人の力を借りたかったからだ」


 ヒュッテは声を抑えると、腕を組んだまま口角を吊り上げた。その表情に嫌な予感を覚えたのはシオンだけではなく、ダンとアレンも顔をしかめている。

 そんなシオンたちに構うことなく、ヒュッテは驚きの一言を発したのだ。


「――私と、新しい魔法を作らないか」


 それは、雲一つない春の朝のことだった。



~~~



 魔法実技の教科書はその分厚さから授業には必携ではなく、家に置いて使う場合が多い。しかし寮に入ったシオンは、授業がある時は必ず学院にも携行していた。寮から学院までは近いし、多少の荷物は体力づくりにもなるし、と。

 ミドリ先生が来る前の――アカネもまだ来ていない――教室、いつもの場所でシオンはその表紙を撫でた。2年前よりも、使い込まれてすり切れた教科書。


『神代の時代より1000年、王国の民が築いてきた魔法の歴史の一端の記録』


 読みなれた、数百年前の文体の文字。書かれたのは、教科書が作られた数年前だが、この教科書の中の設計図が生まれたのは、文体と同じかそれ以上を遡る時代のこと。

 その遥か昔に編まれ、今では決して作ることのできない魔法。

 設計図の数は膨大で、人の一生ですべてを完全に使える者はほとんどいないし、組み合わせれば一生を研究に捧げることも出来る系譜。だが、新しい設計図が生まれたことは、無い。

 歴史とあるが、より正確に言うなら、なのだ。受け継ぐという意味ならば違和感はないが、強調するように記された「築く」にふさわしいほどの新たな歴史は、生まれてきたのだろうか?

 最後に新たな魔法が、その意味で築かれたのは、一体いつなのだろう。


「――最後に作ったのは誰、なんでしょうか」


 ヒュッテは、それをしようとしている。本当に可能なのか?自由な魔法すら使えないのに。

 ――あるいは、アカネなら?


「おはよう、シオン」

「……」

「シオン?」

「あっ、アカネ。すみません。考え事をしていまして――おはようございます」


 シオンはアカネの挨拶で、思考に沈みかけた意識を引き戻された。そうだ、ヒュッテも「また話そう。ゆっくり考えておいてくれ」と言っていたのだから、今急いで考える必要はない。

 アカネの声を聞いて、心を癒そうと話を振ろうとしたシオンは、シオンの隣に腰かけた彼女の横顔を見てわずかに目を見開いた。アカネには、悟られないくらいわずかに。


「アカネ、ミドリ先生と話していたのですか?」

「――うん。だからもう少しで、先生も来ると思う」

「そう、ですか」


 この時のアカネの顔が、アサギの名前を聞いた時のように強張っていたから。問い詰めたいほどに、アカネを想う、想うから、だから、シオンは何も言えなかった。いつか話すと言ってくれたアカネを信じる気持ちもあるし、それよりもきっと、


(きっと、今ここで聞いても貴方は何も答えないのでしょうね)


 なら、せめて自分は。


「今日、お昼休み、時間はありますか?」


 一秒でも長く、彼女の隣に居ようと思う。



 ハンナとアイリにも声をかけ、ロッテには風紀委員の仕事があるからと断られてしまったが、シオンはアカネも含めて4人である場所を訪れていた。中等部に居た時から、放課後も学院に残り勉強をしていたシオンは、学院内の穴場に詳しかった。

 静かな場所を求めていただけ、と言い換えることも出来たけれど。


「ここ、通路なので開放されていますが、人が少ないので意外と穴場なのですよ。それに、見晴らしもいいですしね」

「シオン様、すごい……ウチ、全然知らなかった」

「――確かに。この通路は教員の準備室や研究棟のほか、一部資料の保管室と授業でも使う特別教室を繋ぐ通路ですから。学院生はあまり近寄らない場所かも知れませんね」

「……すごい」


 きょろきょろとあたりを見回しながら感想を言いあうアイリとハンナに比べて口数の少ないアカネが見つめているのは、この場所――背後に時計塔を控えた、学院の3階にある棟と繋ぐ渡り廊下だ。渡り廊下、ではあるが数人が横並びに歩ける広さがあり、かつベンチも併設されていることから、設計上今のシオン達のような団らんが想定されている。しかし、ハンナも言った通りの学院生の使用頻度の低さもあり、アイリのように存在を知らない者がほとんど。

 学院の3階からは、学院正面の門がよく見え、その先の街の建物たちもいい顔をする。今日のようなよく晴れた日には、景色を眺めているだけでも時間はあっという間に過ぎていく。

 惜しむらくは、時計塔の側に広がる風景を見ることが出来ないことだが、街並みの堂々たるだけでも十分だった。


「シオン、よく知ってたね」

「ええ……一時期、学院中の資料を漁っていまして、その時にここをよく通っていたので」


 シオンの一言に、その努力家の一面を知っている3人は素直に感心したが、真実はそれほど綺麗ではない。一時期――アカネがまだ来る前、魔法の勉強に深入りしたシオンがたどり着いた、疑問。

 アカネが試験で自由な魔法を使った時にシオンはこう口にした。


『ですが、勉強するほどに、その在り方に違和感があると思わざるを得ないのです。王国の思想が、それだけが正しいのなら――最初に設計図を作った人は、どのようにして魔法を編んだのか?』


 その、「最初の人物」の情報を知るために、そして自分もまた設計図を作るために――設計図の再現ではない、自由な魔法を使うために――関連する資料がないか血眼になって探したことがあった。結果は振るわなかったし、自分に自由な魔法が使えないこともその後痛感した。

 だから、アカネの魔法に強く、強く惹かれたのだ。自分には届かなかった場所にいるアカネに。


(……など、誰にも話すつもりはありませんが、この場所の景色は本当に綺麗ですから。アカネの気分転換に、なればいいのですが)


 経緯はどうあれ、シオンはアカネが何か思いつめているなら、気分転換を手伝えないかと思った。この場所を選んだのは、人が少ないことと、景観がいいことが理由。


「……ありがとう、シオン」

「いえ。たまには、こういうのもいいかなと思っただけですよ」


 アカネはシオンの制服の袖を軽く引き、微笑んだ。それだけで、シオンはアカネに意図が伝わったのだと分かる。余計なお世話ではないといいな、と思いながらシオンも微笑みを浮かべた。


「シオン様!アカネ様!早く早く~!」

「アイリ、そんなにいそがなくても……っ」


 アイリにベンチまで引っ張られるハンナもいつもよりも楽しそうで、シオンはこの場所を選んでよかったと思う。2人のようすにくすりと噴き出したアカネの手を引いて、シオンもベンチに向かう。

 時計塔を背にしたベンチから、遠景に広がる街並みを眺める昼食の時間。



 ――この時間が、どれほど貴重なものだったかを、私は考えもしなかった。



「そういえばシオン、ロッテの様子はどう?」

「ロッテですか?ええ……ちゃんと委員長をしていますよ。アカネとも久しぶりにゆっくり話したいと言っていましたから。今日も誘ったのですが、仕事が忙しかったみたいで」

「そうなんだ……そしたら今度の休み、ウチのお店でお茶会だ!」

「ああ、いいねアイリ。シオン様たちとのお茶会、最近出来ていませんでしたからね」

「そういえばそっか。前、ロッテ含めていつもの5人でお茶会やった時はヒュッテ委員長がロッテの腕を抱いて離さなかったり、それを副委員長たちが引きはがしに来たりで騒がしかったから」


 4人で雑談する時間が、いつもの時間になって、そのいつものが、大切になって。

 そうなってからもう随分と時間が経ったのだな、とシオンは共通の話題が増えた事実に思う。今年もまた、思い出を増やせるだろうか。


「それでさ――」


 雑談が、新しい話題へと移りかけた、まさにその時だった。

 その場の4人全員が、ベンチから見上げる空に視線が釘付けになる。真昼の青空、見上げても星の1つも見えないこの時間に。

 蒼穹を駆ける、まばゆい一筋の流れ星が、現れたのは。


「……流れ星?」

「アイリ、真昼ですよ」

「でもハンナ、私も確かに見ました」

「ほらっ、ねえ、アカネ様も見たよね……アカネ様?」


 その光が空を舞ったのはほんの数秒のことで、流れ星だと主張するアイリとシオン、懐疑的なハンナはアカネの意見を待った。アイリに名前を呼ばれたアカネは、取り繕ったような声で「見てなかった」と答える。

 だが、3人には伝わった。

 アカネのその、隠しがたい動揺が。


「……も、もうそろそろ戻らないとですかね」

「そ、そうだね!ええと……ハンナ、ほら急ごう!」

「シオン様、アイリ……そう、ですね。アカネ様も。戻りましょうか」

「――だね」


 行きと異なり、静まり返った帰路に、シオンは唇を噛んだ。気分転換になれば、と思ったのに、かえってアカネを動揺させてしまった――けれど。

 あの光を、アカネも見た。それは間違いない。視界の端に、空を見上げるアカネの姿があったから。

 どうして、嘘をついたのか――いや、違う。


 アカネは、


 ハンナとアイリは、「アサギ」の一件を知らない。

 だから、シオンだけが、流れ星と思われる光に対してのアカネの反応に、強い疑問を持った。


(何か、関係が――?)


 聴きたい、もう一度拒絶されるとしても。

 でも、どうやって聞けばいいのだろう。


(アカネに聞きたいことが、多すぎますね……)


 だからシオンは、隣で揺れるツインテールを見つめながら、言い訳した。何を聞けばいいのか、分からないから。今はまだ、アカネから言ってくれるのを、待ちたい。

 だってアカネが、待っていてと、そう言ったのだから。



~~~



 その日の夜、シオンは寝支度を済ませ、燈を消したアカネの背中を見て、ふいに自分でも説明のつかない感情に襲われた。不安とも焦燥ともつかない。怒りでも猜疑でもない。悲しさや寂しさでもない。

 言葉にならない感情の糸がほつれて、毛だまりのまま身体だけが勝手に動いた。


「――シオン?」

「アカネ……」


 この日は特に、アカネの様子が気がかりだったから、暗くなった部屋に佇むアカネを見て、その体温が欲しくなったのだと、思う。ただそれがなぜ、どんな感情に起因しているのかは、分からない。

 分からないけれど、


「少し、このままで居させてください」

「……うん」


 シオンは、アカネを背中から抱きしめた。それ以上はせず、無理に深入りはしない。お互いに合意の上で、それはしたいから。

 それでも求めて、抱きしめてしまったことに謝罪をしてから、シオンはアカネを離すまいと腕に力を入れた。その腕に、アカネの指が触れて、シオンは切なくなる。

 アカネのことなら、全て知っている自信が、確かにあったのに。今の自分は、アカネを何も知らないのだと、はっきり分かったから。


「ごめんね、シオン」

「……どうして謝るのですか?」

「だって、たぶんわたし、シオンを――不安に、させたから」

「……大丈夫ですよ、私は」

「わたしには、そう見えなくて。それって、わたしのせい、だよね」

「それは」


 ああ、アカネも悩んでいるのだな、と嫌に冷静に眺める自分が居た。最初は、アカネの沈んだ表情を心配していたのに、今はアカネの知らない所ばかりが気になって、それでこうしている。

 ――恋人、失格だろうか。


「アカネ。突然、すみません。もう、大丈夫ですから」

「……ありがとう。でも、今度はわたしが欲しくなっちゃった」

「えっ」


 シオンが手を離し、アカネの背中から一歩引くと、アカネは遠ざかったぶんだけ近づいて来て、正面からシオンを抱きしめた。胸の位置に来る頭、愛おしいアカネ。

 全身に満ちる熱に微笑んで、シオンはアカネの頭を、撫でて。


「――シオン、朝、ヒュッテさんたちと何を話していたの?」

「えっ」


 だから、アカネから告げられた言葉に、撫でる手が止まってしまう。

 見られていたのか……いつから?


「見て、いたのですか」

「たまたま目に入ったの。あそこの廊下、外から見えやすいでしょ。今日のシオン、何か不安ごとがあるように感じたから……わたしのせいだったら、直したいし。もし、朝のことが原因なら、聞きたい、から」

「――アカネ」


 シオンは唇を噛んだ。

 アカネもまた、シオンを想ってくれていたのだと、気づけなかった自分は、やはり、恋人失格だな、と苦笑を零す。2年経っても、自分はまだ、気づけないことばかりだ。


「実は――」


 少し迷ってから、シオンはヒュッテに言われたことを正直に話した。隠しても多分、気づかれてしまうし。それに、別の考えもあった。

 ヒュッテの「新しい魔法を作る」試みのことを伝えれば、あるいは、アカネも自分のことを話してくれるのではないか、と。


「……ヒュッテさんが。そっか」


 腕の中に居て表情は見えないけれど、声色で分かる。きっと今アカネは、真剣な面持ちをしている。この声は、ヒュッテとの試合の前の時の声に似ていたから。

 シオンの身体を遠ざけ、暗がりの中、まっすぐにシオンを射抜くその目は、ああやはり、何かを決意したような色を帯びていて。


「シオン。お願いがあるの。わたしと一緒に明日、ヒュッテさんたちに会いに行って欲しい」


 断る理由は、シオンには、ない。

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