私の知らない貴方
目が覚めたシオンは身体に触れる熱と重さが何か、一瞬理解が遅れた。しかし、すぐにそれがアカネのものだと気がつき、昨晩のやり取りを思い出して唇に触れる。
アカネへの想いは強まるばかりで、2人の関係性を示す名前は友人から、恋人へと変わっていた。たったそれだけの変化が、けれどシオンは何よりも嬉しくて、恥ずかしくて。
「……私の、アカネ」
静かに寝息を立てるアカネの髪を梳いたその手で、シオンはそっとアカネの頬に触れる。ああ、早く貴方の笑顔が見たい、声が聴きたい。
なんでもない日、学院にだって行かなくてはいけないし、いつも通りの時間に教室に着くにはもう準備を始めなければ――
「……んっ」
シオンは、胸を揺らす想いに身を任せ、アカネの額に口づけた。
だめだ、と分かっていながら、シオンはアカネを求める。その身体を抱きしめて、全身でアカネを感じて。
「こんなに。私は、アカネが好きだったのですね」
その事実が、ただ嬉しかった。
シオンは今、アカネと共に学院へ続く道を走っていた。
「もう!シオンってばなんで起こしてくれなかったの……!?」
「そ、それは……っ、と、とにかく!急がないと遅刻してしまいますよっ」
「わかってるってぇ……っ」
結局シオンはアカネが起きるまでアカネにくっついていたため、2人が準備を始めた時にはかなり時間がぎりぎりになっていた。アカネは覚醒後、開口一番に「……馬鹿!」と頬を赤らめてシオンから顔を背けていたが、シオンは何のことかさっぱりだった。
昨晩、アカネを想う気持ちが溢れすぎてしまったからだとは、まあ、思うけれど。
「……着いたっ」
「はぁ、はぁ……ま、間に合いましたね」
教室に入った瞬間、壁に手をついて息を整えた2人に、注目が集まる。それはそうだ。2人は遅刻どころか他の学院生よりも普段は早く来ているから、ぎょっとしてしまうのも無理はない。
口々に心配から声をかけてくれるクラスメイトたちに申し訳なく思いながら、シオンはお礼の言葉を返し返し、いつもの席へと向かった。そこには既にハンナとアイリが座っていて、シオンと目が合うと訳知り顔で微笑んでくる。
――えっ。
「おはようございます、シオン様。アカネ様」
「おはよう!2人とも、今日も仲良しだねっ」
アイリのその言葉にシオンとアカネは顔を見合わせてしまう。どうしたのだろう、今は特別、仲のいい姿を見せているとは思えなかったが。
その理由は、すぐに分かった。
シオンはアイリの視線が自分の手に注がれていることに気が付いたのだ。手、そういえば寮を出た時から、アカネと手を繋いでいる。寝起きで足が回らなかったアカネを引っ張って来る意味もあったけれど、それよりも、一晩で近づいた距離が、そこには表れていて。
「あっ」
思わず焦ったような声になってしまったシオンが慌てて手を離すと、アカネもシオンの考えに気づいたのか俯き、耳を赤くしていた。2人してなんとなくぎこちないまま、ハンナとアイリの隣へと腰かける。
シオンのことをよく知る2人だ、あるいは――悟られてしまっただろうか。
「……シオン様、おめでとうございます」
「ウチら、2人のこと応援してるからね」
ハンナとアイリは、シオンたちにしか聞こえない声で、そう呟いてくれた。アカネと顔を見合わせて、少し考える。これが他のクラスメイトならば、誤魔化すこともあったかもしれない。
けれど、この2人には。
「――ありがとうございます。2人には、いつも支えられていますね」
「うう……もうばれちゃった……ふふ。でも、ありがとう2人とも」
4人は囁きを交わして、微笑み合う。アカネの魔法騒動の時も、今も、こうして寄り添ってくれることがシオンは嬉しかった。本当に、得難い友人だと思う。
もうすぐミドリ先生が来るだろう、と顔を上げたシオンは、ふいに教室の前方から視線を感じて、肩が跳ねてしまった。そこにはいつもよりも編み込みが丁寧な三つ編みをそっと撫でる、ロッテが居て。
昨日の出来事があったから――ロッテのアカネへの気持ちを知ってしまったから、シオンは身構えてしまったが、
ロッテは、おめでとう、とも、ありがとう、とも取れる口の動きと共に、柔らかく口元を緩めていた。
「……ぁ」
それにどう返せばいいか分からなかったシオンは、咄嗟に頭を下げる。ずっと複雑で距離を感じていたロッテとの関係。それが、少しずつ変わっていく気配を感じて、シオンは静かに息を呑んだ。
そうでもしないと、頬を濡らしてしまいそうだったから。
「そういえば、さっきロッテがね、シオン様とアカネ様に話があるって言ってたよ」
「まだ来ていないと伝えると、昼休み一緒に風紀委員長の執務室に来てほしいと……昨日の模擬演習絡みのことでしょうか」
「あ、そうなんだ。ありがとう、教えてくれて。だって、シオン……シオン?」
「――いえ。なんでもありません。分かりました、では今日の昼休みはそちらに向かいましょうか」
こちらの会話を聞かれていたわけではないだろうけれど、ロッテの視線からも意味深なものを感じた。この調子だと、ダンとアレンにも気づかれてしまうのかな、とシオンは頬を掻いたのだった。
――あるいは、恋人になって浮かれているだけかも、なんて。
昨日とは異なり、執務室にはシオンとアカネの2人だけでやって来た。昼休みが始まると早々にロッテが退出してしまったし、今日はダンやアレンは迎えに来てくれる約束はしていなかったから。
廊下ですれ違うと、上下の学年や中・高等部を問わず、アカネは注目の的だった。そこにシオンも含まれていることが、少しこそばゆい。ミドリ先生という高い目標を前に周囲の視線の意味すら気づけなくなっていた時期が長いシオンだが、学内での評価は昔からかなり高かったのだと、今ならば分かる。
「つきましたね」
「うん。わたしがノックするね」
アカネがノックをすると、中でどたどたと足音が響き、数秒経ってから「……アカネだな?入って来てくれ」とヒュッテの少し震えた声が聞こえてきた。何事だろうか、と目を合わせた2人だったが、その場ではそれ以上考えずに扉を開ける。
執務室はヒュッテと、その隣に立つロッテの他には誰もおらず、副委員長カップルは今日は関係ないのだ、と再確認できた。
「来てくれてありがとう。そこに座ってくれ」
「はい。こちらこそ、朝は教室に居なくてすみません」
「ううん、大丈夫。こっちこそ、もとはと言えば姉さまが無理やり模擬演習をやり始めたことが原因なんだから」
「……その節は、すまなかった」
シオンはおや、と思う。
ロッテの口調といい、素直なヒュッテといい、どうやら2人も何かあったらしい。昨日はヒュッテから一番離れていたロッテも、今は一番近くに居る。
「改めて、来てくれて感謝する。昨日は、伝えたいことの半分しか言えないまま、そちらに気を遣わせてしまったな……私に至らないところばかりで、本当にすまない」
「か、顔を上げてくださいって委員長!わたしは、昨日も言ったけど、模擬演習で委員長の魔法が好きになったので、全然気にしてませんよ。それに……」
そこでちら、とシオンを見たアカネはさっと顔を伏せ、
「とにかく、大丈夫ですから。あー……でも、委員長の謝罪は、今度はちゃんと受け取りますよ」
「……感謝する」
アカネのそれは、演習の時にヒュッテの魔法が気に入って、満身創痍のヒュッテの敗北を素直に受け取らなかったことを踏まえてのものだ。それよりもシオンは、アカネが自分たちの関係をほのめかすような態度を取っていることにどきりとしてしまった。
どうやら、浮かれているのはシオンだけではないらしい。
「君たちには……ロッテにも、私の慕情のせいで迷惑をかけたから。何かあればいつでも言ってくれ。私に出来ることならば、全力で力になると、風紀委員長として、ヒュッテ個人としてもここに誓おう」
ヒュッテは席から立ち上がると、胸に手を当てて一礼した。これが、今回の件に関する彼女なりのけじめのつけ方なのだろう。
そう考え、シオンも立ち上がって応えようとした時だった。シオンはまだ、ヒュッテの性格を理解していなかったと悟ることになる。
「それから、君たちには言うべきだろうと、ロッテとも話したのだが……私はロッテと、正式に恋人になった」
ヒュッテはロッテの手を取り、肩を寄せ、真剣にシオンとアカネにそう告げた。
言われた方の2人はしかし、一瞬呆気にとられてしまった――だって、今。
「――君たちのおかげだ。勝手に嫉妬して、勝手に勝負をしかけて、勝手に負い目を感じて。愚かな私を許してくれた君たちのおかげで、私はロッテに自分の本心を伝えられた」
その真っすぐな不器用さに、シオンは自分を重ねてしまう。ヒュッテのそれは、何も分からなくなって動けなくなってしまったシオンのそれとは少し違うかもしれないけれど。不器用なところは、少し似ていて、
ヒュッテの一言でロッテが照れたような、呆れたような、寂しいような、そんな表情を浮かべていた。ロッテの立場なら、複雑だろう。しかし、副委員長たちが言うように、すれ違いがあっただけ、なのかもしれない。
「ヒュッテさん。私たちは、何もしてませんよ。きっかけにはなったのかもしれないけど……ロッテさんや、ヒュッテさん自身が、伝えた言葉です」
「――そう、だな。ふむ。そうだ。君はすごいな、シオン」
「……いえ。私も、大切な友人に教えられたことですから」
きっとヒュッテには、シオンにとってのハンナやアイリが居なかったのだ。常に風紀委員長として人の前に立ってきた彼女には。ダンやアレンとの関係が、だから彼女にとってどれだけ大切だったか、少し分かった気がした。
ロッテはちらとアカネに視線を送ると、眉を下げ、小さく、笑った。
「アカネさん。色々あったけど、これからも友だちで居てくれますか?」
「もちろん。ロッテの気持ちを知れて、わたしは嬉しかったよ。その気持ちは受けとれないけど――友だちとして。わたしからも、よろしくね」
和やかな雰囲気が流れ、ヒュッテも緊張していたのか、執務室の机に手をついてほぅ、と息を吐いていた。何となく硬く冷たい印象しか持っていなかった彼女の年相応な一面を見られて、シオンは良かったと思う。
僅か一日の、けれどそこに至るまでの数か月の、わだかまりはこうして氷解したのだった――
「ふふ、しかし、朝ロッテに私たちの関係に気づかれたと思ったら、お二人も恋人どうしになっていたんですね」
だから、すっかり気の抜けたシオンが何とはなしに呟いたその言葉に、
「えっもって」
「……なんと」
「――うぅ」
シオン以外の3人が見せた反応で、シオンは自分がとんでもない思い違いをしていたと気が付いた。
「し、シオン様!?どういうことですか!?昨日の今日でもうアカネさんとお付き合いすることになってるんですかっ。今まで良い雰囲気っぽいのに、言うこと言ってこなかったシオン様が!?」
「ちょ、ちょっとロッテさん!?だ、だって貴方が、朝意味深にこちらを見てましたから……!それで、その……気づかれたのかと」
「あ、あれはっ。姉さまの件で色々あって、その……姉さまとも、こっ、恋人になれて。だから、ありがとうって。シオン様だって頷いてたじゃないですか!分かってくれたと思ったのに!」
「え……っ、だ、だってあれは!おめでとうって言ってましたよ!?」
「~~~!わ、私だってアカネさんとそうなりたかったのにっ、いきなり惚気ですか!?」
「ロッテさん!?貴方にはもうヒュッテさんという方が居るでしょう!?」
「それは……確かに今は姉さまが一番だし大好きな恋人ですけど!」
シオンの失言に嚙みついたロッテに、シオンもまた声を荒げてやいやいと言葉の応酬が飛び交った。ヒュッテと手を繋いでいたロッテはずかずかとシオンの前まで歩いていき、シオンもまたロッテと対峙してあーでもない、こーでもないと言いあっていた。
会話の中でお互いがお互いの恋人の好きなところを列挙し始めたあたりで、
「……わたしのシオンがすみません」
「いや、気にするな。私はロッテのあのような表情を見るのが初めてだから、むしろシオンには感謝しているくらいだ」
「まあ、確かに……シオンがあんなに声をおっきくしてるの、珍しいかも」
「おっと、祝福が遅れた。君たち2人のこれからに、幸あらんことを」
「……ありがとうございます。委員長たちも、お幸せに」
こうして最後にひと悶着あったが、ようやくシオンたちの学院生活にいつもの平穏が戻って来たのだった。
――ちなみにこれは余談だけど、私は卒業を控えた今、ロッテとはハンナやアイリと同じくらい仲良くなっている。
もともとロッテは真面目な子だから、きっと私の性格と相性がよかったんだと思う。それにロッテとは、恋愛の相談とかもたまにするようになったし、ハンナも交えてお互いの恋人自慢とかも、するようになった。
ねえ、アカネ。
記憶を失くすって、この日々もなかったことになるんだね。
※※※
どうして今まで気づかなかったんだろう。
私には、ハンナ、アイリ、ロッテという名前の友人が居るのに。
同僚にヒュッテとアレンという名前の教員も居るのに。
なんで、私はアカネだけを覚えていないのだろう。
※※※
私の高等部2年目の日々で書くべきだと思った、アカネと恋人になった顛末を書き終えて、私は次に何を書くべきか迷った。その後は、恋人として特別な日々だった。
けれど、日常は1年目の時と様相を違えず、豊穣祭や新年を迎える時、季節の移り変わりを、友人から恋人になって、楽しんだだけ。全てを書くことが許されるなら、私はきっとそうしていた。けれどもう時間がない。
ああ、今さら、日記でも書いておけばよかったと後悔してしまう。
だから、もう幾ばくも無い時間で、私は記そうと思う。
私がこの本を書いている、そのきっかけとなった出来事たちを。
はじめは、そう――確か、高等部2年目の豊穣祭。いや、正確にはアカネとヒュッテとの模擬演習の……。
~~~
1年が経って、まさか自分が楽しむ側から楽しませる側になるとは思わなかった、と苦笑するアカネと共に、シオンは寮を出た。豊穣祭。高等部に入って2度目のそれは、「シオンとアカネ」にとっても2度目だ。それが、嬉しい。
この日の予定は、午前はハンナやアイリと4人で回り、午後に控えた的当て競技でヒュッテと対決することになっている。街は、学院史上最高と名高い風紀委員長であるヒュッテと、そのヒュッテに引けを取らない天才アカネとの対決ということで昨年よりも盛り上がりを見せている。
当事者であるアカネはむしろ、ヒュッテとの再びの対決が楽しみだと言っていたが、内心ではやはり視線が気になるようで、運営に掛け合ってシオンも会場入りすることになっている。
「……まあ、ヒュッテさんは当然のようにロッテと共に参加するつもりだったみたいですが」
今やロッテとヒュッテは、ダンとアレンに並ぶ名物カップルになっており、ロッテに関しては時期風紀委員長として名を連ねてさえいるという。後で知ったことだが、ロッテは中等部から高等部の1年目の途中まで、優秀な風紀委員として活躍していたそうだ。
ダンとアレンがロッテと親しげにしていたのは、単にヒュッテと姉妹だからという理由ではなかったらしい。
「それにしても、シオン様はすっかりロッテと仲良くなりましたよね」
「ね!ウチも意外だった。シオン様が、というよりも、ロッテがなんか、シオン様のこと苦手そうにしてたから」
「あー……それは、結構色々あったからね、2人は」
「なんでアカネが言うのですかっ?ま、まあ事実ですが」
ハンナたちとは寮から共に歩いてきている。シオンとアカネが当然のように手を繋いで迎えに行ったところ、ハンナとアイリもまた、手を繋いで出てきた。指を絡めたその繋ぎ方に、シオンとアカネは視線を交わした。
2人から話があるまで聞かないようにしよう、と。
「それで、回る場所は決めてる?」
「うーん、ウチのお店は、どうする?」
「アイリのおばさまが寂しがるので、お昼に寄りましょう。ハンナは、何かありますか?」
「私ですか?そうですね……あっ、そしたら――」
ハンナが選んだのは、ある料理の出店だった。
「朝ごはんを食べられていなくて……」
「ウチもお腹減ったよ……シオン様たちはどうする?」
「そうですね。せっかくですから、1つだけいただきます。アカネと半分に分けようかと」
「ん、了解!」
その出店で扱っているのはみずみずしく育った果実を豪快に丸ごと1つ、甘い蜜と絡めて焼き上げた人気の料理で、ハンナが代表して3つぶん受け取ると、4人は近くにあったベンチに腰かけた。豊穣祭の季節の午前は少し肌寒かったが、出来立ての料理は温かく、身体が芯からぽかぽかと熱を帯びた。
甘い香りが鼻を抜け、本来なら固い果肉が焼き上げたことでほろほろと舌の上でとろけるようになり、旨味が濃縮された果汁と相まって得も言われぬ味わいだ。
「はい、アカネもどうぞ」
「うん。ありがとう」
シオンは一口かじった果実を、アカネに差しだす。この料理は果実に魔法で作った棒を刺しただけの造りになっていて、そのため、あちらこちらから噛みつくとバランスを崩して果実が落ちてしまう。半分ずつ食べるには、交互に一口ずつ食べるか、一息に半分食べてしまうかのどちらかで――
美味しそうについばんだアカネに微笑んで、シオンもまた一口。
シオンは、交互に食べる方を選んでいた。
「……ねえアイリ。なんか2人、恋人になってから距離近くなってない?」
「……だねハンナ。教室でも結構いちゃいちゃしてるしね。うたたねしてたアカネ様のほっぺつっつくシオン様とか、シオン様のずれたリボンを直してシオン様の頭撫でてたアカネ様とか」
「――ぶっ!?」
「……ん!?」
果実に舌鼓を打っていたシオンとアカネは、ハンナとアイリの言葉に盛大にむせてしまった。抗議の視線を送ったが、
「ほら、シオン様アカネ様!早く行こう!」
からからと楽しそうに笑うアイリに背中を押され、まあ、いいか、と。
4人の豊穣祭はまだ始まったばかりだから。
――時間はあっという間に過ぎ、「絶対応援に行きますから」ハンナとアイリと別れた2人は、競技の会場になる街の中央にある運動場、その控室で休憩していた。あと半刻もすれば入場の時間だ。
模擬演習の時は慣れ親しんだ学院の運動場だったし、観客も全員が学院生で、見知った顔も多かった。ところが今回は、クラスメイトたちも応援に来てくれるとはいえ、多くは知らない人たちだ。
「アカネ。大丈夫ですか?」
「……ちょっと、怖いかも」
「無理なら、断ってもよかったと思いますよ」
「ううん。これは、わたしがやりたかったことだから。それに、今は――恋人がそばに居てくれるからね。多分、大丈夫」
「……そうですか」
その微笑みがどこか強がりに見えてしまって、シオンは眉を落す。アカネを苛む過去の傷は今もまだ、完治はしていない。緩和されることはあっても、完全に何も感じなくなるというのは、あるいは難しいのかもしれない。
それこそ、人の視線に痛みを覚えたことがないシオンでも、模擬演習の時のように一度に大勢から注目されるというのは――多分、体力を消耗する。
「ねえ、シオン」
少しでもアカネの力になりたくて、ただ静かに隣に座っていたシオンは、ふいに制服の袖が引かれ、首を傾げた。何だろうとアカネを見ると、何かを言いたそうにツインテールの毛先を指でくるくると巻いている。
アカネの癖だったから、この後に何が来るか分かってしまって、シオンは喉が鳴ってしまった。
「……緊張、ほぐしたい、から。キスして欲しい」
「……分かりました。目、つむってください」
「ん」
恋人になる前のご褒美はアカネからだったのに、恋人になってからのキスは、シオンからの方が多くなった。シオンがその事に気が付いたのは、いつものようにアカネとキスをしている中、息継ぎの間にアカネに指摘された時だ。その時は赤面したものだが。
今は、アカネの反応が愛おしくて。
「――アカネ」
シオンは、アカネの名前を呼んでその唇を塞いだ。ついばみ、撫で、噛みついて。
緊張以外もほぐれてしまいそうなほどの熱が、2人の間で弾けて――
「……おや。お邪魔だったかな」
「ちょっと姉さま!」
――シオンとアカネは、2人同時に飛びのき、勢い余って頭をぶつけてうずくまった。
「す、すまない。つい……ええと。そろそろ時間だから呼びに来たのだが。先に行って待っているから」
「――だ、大丈夫です!すぐに行きますから……ねっ、シオン!?」
「は、はいっ!ほ、ほらアカネ!行きますよ!」
「……まあ、仲が良いのは良いことだけどさ、シオン」
珍しく動揺するヒュッテと、狼狽を誤魔化すように張り切って控室を出るシオンとアカネに、肩をすくめるロッテ。
とても学院の頭脳たちとは思えない不思議な空気感のまま、一行は会場へ向かったのだった。
会場に出るその一瞬前まで手を繋いでいたのはシオンとアカネだけでなく、ロッテたちもだった。それぞれ手を離したのは、衆目を避けてではなく、これから競技に臨むためだ。
「こう、舞を舞う時のように2人では――ああそうだな、さすがにだめだな」
意外にも一番名残惜しそうにしていたのはヒュッテで、「風紀委員長なんだからもっとしっかりしてください」とロッテに叱られていた。なんとなく、2人の普段の関係が垣間見えたような気がするやりとりに、シオンはくすり、と息を吐いた。
ロッテの知らない表情がまた知れて、少し楽しい。
4人の一番後ろを歩いていたアカネがシオンの肩をちょいちょい、とつついてくる。振り返ると、やや緊張してはいるものの、穏やかな表情のアカネがそこに居て。
(さっきのキスの効果でしょうか――って、私は何を考えて……っ)
「――じゃあ、行ってくるね。シオン」
アカネに知られたらからかわれそうな内心を、アカネの声が落ち着かせてくれた。やっぱり、シオンはこの声が好きだ、と思う。競技前のアカネに言いたいことは、既に決まっている。
「うん。一番傍に、居るから」
「ふふ。ありがとう」
アカネと最後に微笑みを交わし、シオンはその背中を見送った。
運動場に立ち、観客たちの前で構えるシオンの背中を見るのは模擬演習以来で、あの時と違う関係性に、シオンは愛おしさがこみあげてくる。その愛おしさが強いほどに、アカネはこの視線は大丈夫だろうか、と考えてしまって。
「……大丈夫だと思うよ」
「えっ」
「だってアカネさん、多分、姉さまの魔法が見たくてうずうずしてるから」
シオンの隣に並んできたロッテが自信満々にそう告げるから、最初はむっとしてしまったがすぐに思い直した。そう、ロッテはシオンを除けばアカネと最も長い時間を過ごしているから。そのシオンが過ごした時間との差は考慮に入れないとしても。
だからこれは決して嫉妬などではなく、それにロッテは多分アカネが視線を恐れていることを知らないから。
「……でも、そうですね。私も、そう思います」
「なに、なんか今日はやけに素直だね」
「いつも、貴方に突っかかるわけではないですよ」
「――そうだね。こういう時くらい、一緒に応援しようか。もちろん私は姉さまだけど」
「そうですね。アカネが負けるはずないですけど、応援は全力でやりますよ」
「……姉さまだって今度こそ、アカネさんに勝つけどね」
「……ふふふ」
結局いつものように言いあいになりかけてしまったが、シオンには伝わっていた。これは、ロッテの気遣いだ。ロッテはシオンが気をもんでいることに気づいて、元気づけてくれていた。
その心遣いが嬉しくて、くすぐったくて。
ロッテとこの関係になれてよかったと、シオンは目を細めた――
模擬演習の様子は、凄まじかった。
開幕、ヒュッテお得意の「虹の花矢」でなんと10得点を記録。続くアカネは、お返しの「水球と炎矢」で10得点。ここまでは模擬演習の再現で、現地に来ていた学院生は大興奮だった。
展開が大きく変わったのはここからで、ヒュッテは2巡目から様々な魔法を駆使して次々と10得点を獲得していった。アカネも同様に、今度はヒュッテの魔法の再現をすることなく、様々な意外性に富んだ設計図の使い方をして鮮やかに満点を取っていく。
結局、50点で同点になったこの競技は、王国の歴史史上最高の試合として、その日、王国中を沸かせることになった。私も、ロッテと共に手に汗を握りながら見守っていて、だから、とても思い出深い試合だった。
けれど、この後の控室でのヒュッテとの会話の方が、私にとっては特筆すべき出来事なんだ。
「――アカネ。シオンも、いいか」
試合を終え、選手であるアカネとヒュッテと共に控室で談笑していたシオンたち4人の和やかな空気が、ヒュッテの真剣なその声色でぴり、と張りつめた。ヒュッテの隣に座るロッテも何事か、とヒュッテを心配そうに見つめている。
アカネに視線を投げたが、軽く首を横に振られた――どうやらアカネも見当がつかないらしい。
続くヒュッテの言葉を聞いて、シオンは驚きと困惑に襲われた。
「模擬演習の時に、感じたことではあったが確証もないし、私のつまらない感傷だと思っていた。だが、今日こうして君の――アカネの魔法を見ていて、確信したんだ。君は、私に魔法を教えてくれた人に、似ている」
「……委員長に、魔法を教えた人?」
「ああ。君や、ミドリ先生と同じ、黒という珍しい髪色をした当時の学院生さ。もう、10年近く前になる」
ヒュッテは当時を懐かしむように目を細めていたが、初めて聞くのかロッテは興味深そうに耳を傾けていたし、シオンもまた、ヒュッテの語る内容に驚いていた。あるいはヒュッテが、アカネに対して抱いた嫉妬はその人との思い出も何か関係しているのかもしれない。
その程度の認識だったシオンは、大きく目を見開き、口もとを手で押さえているアカネを見て、困惑したのだ。
なぜアカネはこんなに驚いているのか?
「髪色だけならば、ミドリ先生とも似ているだろうが、違うんだ。編み方の癖や、魔法そのものが、どうにも。あの人と、よく似ているんだ」
「……」
なるほど、と思う。
シオンのように学院の授業ペースを追い越して1人で勉強を進める者はその限りではないものの、設計図の再現には癖が出る。だから、学院生の多くは魔法を教える教員の癖に多かれ少なかれ近づくものだ。
シオンやアカネのように、そしてヒュッテのように自分の癖がある者ならば、それの感じ方もまた敏感になるだろう。ヒュッテがアカネと似た癖がない所を見ると、その10年の間に自分の癖が強くなっていったのだろうけれど――
アサギとアカネが、同じ癖というのは、つまり……。
沈黙を貫く、アカネ。
「あの人は、10年前忽然と私の前から消えてしまったんだ。何も、言い残すことなくね。だから、だからもし、君があの人のことを――」
そこで言葉を切ったヒュッテは、温かく、それでいてしんと澄んだ眼差しでアカネを見つめて。
「アサギのことを、知っているのなら、どうか教えて欲しい」
アサギ、とヒュッテが口にした瞬間、アカネの唇がわずかに震えたのが分かった。シオン以外は気づいていないようだったけれど。
シオンは、アカネが何と答えるのか、無性に気になった――だって彼女は多分、アサギのことを知っているから。
「……お力になれず、すみません」
だから、アカネが答えなかった時、シオンはアカネの意図を測りかねたのだ。今、彼女は明らかに、隠している。何か、を。
ヒュッテにそれがどう伝わったか、静かに一言「そうか」と呟いた後、大きく息を吐いた。威圧は感じない。緊張から、零れてしまったように見える。
「――いや、すまない。知らないなら、いいんだ。未練が……ない、とは言えないが。もう、過ぎたことだから。もし、何か思い出したり、他で話を聞いたりしたら、教えて欲しい」
「……分かりました」
ヒュッテの言葉に、ロッテはぎょっとしたような顔でヒュッテを見つめ、シオンは腑に落ちないままアカネから視線を逸らした。恐らく、ロッテはヒュッテの、「未練がないとは言えない」という言葉に反応したのだろう。
シオンは、
「重ねて、すまなかったな。お互い疲れているというのに。私は、今日はこの辺りで帰るとするよ。アカネ、シオン。また学院で」
「は、はい。ヒュッテさん、ロッテ。また……」
「――うん。シオン。アカネさんも」
「……また、ね」
どこか力ない様子で去っていく2人に手を振ったアカネに、違和感を覚えてしまったから。アカネの性格を考えれば、自分に知っていて誰かの力になれることならば惜しまず協力するはずだ。
しかし、アサギという人物のことについては、明確に「知らない」と言ってさえもいない。ヒュッテもそれを、きっと察しただろう。アカネには、アサギを知っていて、それでいて話せない理由があるのだ、と。
「……アカネ。どうして、話さなかったのですか?」
だからシオンは、そう直接問うた。
きっと自分には答えてくれるだろうと思ったから――なのに。いや、だから。
彼女が答えてくれないと分かった時、私の猜疑は芽生えたのだ。
「――ごめん。シオン。今は、まだ話せない」
「それは……私に、もですか?」
「うん」
「……そう、ですか」
「話せる時が来たら、ちゃんと話す、から。その――」
普段のアカネならこういう時、「ありがとう」と言う。無理に詮索しないでくれて、待ってくれて、ありがとうと。
けれどこの時のアカネは、「ごめん」と、そう繰り返したのだ。
「ごめんね、シオン」
シオンの肩に額を押し付けて、シオンの背中に手を触れたアカネが繰り返すその言葉は、力なく震えていた。今、アカネがどんな表情をしているのか、シオンには見えない。
もし、学院に来たばかりの頃のような表情をしていたら。
(……アカネ。私では、だめですか?)
シオンはアカネの背中に、手を回すことが出来なかった。
※※※
これだ、と私は思った。
学院2年目の日々を綴った最後の章に書かれた、ある文言。
『だから、もう幾ばくも無い時間で、私は記そうと思う。
私がこの本を書いている、そのきっかけとなった出来事たちを』
これが、私の知りたかったことだ。
「やっと――やっと、ここまで」
寮の窓から差し込んでくる闇は既に色づきはじめていたが、私は本をめくるページを止めることが出来なかった。もう少し、もう少しで、知れると思ったから。
まだ顔しか思い出せない「アカネ」の記憶。
本で読んだだけの、現実に居たかもわからない貴方のことを。
「私の知らない、貴方を」
私は手首につけている緋色のシュシュを撫でて、次のページをめくったのだった。
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