忘れてしまった忘れられない夜

 きっかけがなんだったかは、はっきりと覚えていない。だが一番最初が偶然によるものだったことははっきりしている。豊穣祭の日、添い寝をして、勢い余ってぶつかった身体。

 顔、唇。その熱。

 豊穣祭の夜から幾ばくも無いある日、夜中にうなされるアカネの声で目が覚めたシオンは、その苦しみが少しでも減りますように、とアカネのベッドにもぐりこみ、後ろから抱きしめた。そのおかげか否か、静かに寝息を立て始めたアカネだったが、その頃にはシオンも寝入っていて。

 朝目が覚めると、いつの間にか正面から抱き合っていたのだ。

 そしてシオンは、実はアカネが起きていたと聞かされる。以後、アカネに頼まれてたまにハグを交わすようになった。そしてそのの中に、いつからか、口づけが含まれるようになった。

 


 ――私は自分でも不思議だった。私とアカネの関係を決定づけたその日の夜の出来事を書くために偶然の次の最初のキスを思い出そうとして、それが出来なかったことが。



 しかし、なんとなく理由が分かってしまう――それは、この日交わした口づけが、あまりに印象的だったから、だろう。



~~~



 シオンは思った。なぜか目が合わない、と。

 はじめはダンとアレンと分かれた後の帰路だ。手を繋いで、肩を寄せて。いつもの帰り道、普段なら重なる視線がなぜか一向に合わない。帰ってからも、夕食、入浴とその日の寝支度を終えるまで意図的にそらされているとさえ思った。

 の時はいつも、にこにこと嬉しそうにしているのに。

 けれど正直、シオンはそれがありがたかった。ロッテとヒュッテの事情を知ってしまった今、あの2人のやり取りを見てしまった今、アカネの顔を正面から見て平静を保てる自信がない。


(アカネは私を友人と思っているでしょうから……私のこの「好き」が、もし、違う形になったら)


 豊穣祭の時、シオンはアカネを「好き」だと思った。その気持ちは、けれど自分からの一方的なもの。アカネはシオンと、「友だちになりたい」と言ったのだ。

 彼女が望むのは、シオンとの友情で、だからこの「好き」は表には出すべきではない、と伝えるつもりはなかった。


(それなのに、アカネはハグや、キ……ご褒美を、せがんで)


 シオンには友人が居たことがない。親しい間柄ではそれが普通なのかとさんざん悩んだが、こればかりはハンナやアイリにさえ相談できず、答えを保留にしている。

 そんなシオンだから、そらされたアカネの視線のその意味に気づくのは、その時が来てからになった。


「燈、つけるね」

「あ、はい。お願いします」


 なんとなくぎこちないまま夜を迎えた2人。アカネのその言葉でシオンは設計図から作られる、いつものあの柔らかな燈を想起した。しかし部屋に差したのはぼうと揺蕩う温かな光で、シオンは見覚えのある赤にぱっと顔を上げる。

 自分のベッドに腰かけていたシオンは、アカネが部屋のテーブルの上に焔の少女を編んだのを捉える。その隣には、いつかの水の人形。異なるのは、焔がアカネを、水がシオンを象っていること。相反する属性の2つの魔法の人形が隣り合って静かに座っている。

 部屋に灯ったのは、彼女たちだった。


「あっ、アカネ。えと、今日は、お疲れさまでした」


 部屋に満ちた沈黙を破って、シオンは取り繕うようにそう口にした。ちら、とアカネを見やると、微かな光の向こうでベッドに、身を縮こませて座っている。俯いた顔から表情を読み取ることが、出来ない。

 まるで1年前に戻ってしまったかのようなアカネの様子は、けれど、立ち上がった彼女の顔に浮かぶ表情がその違いを物語っていた。朱が差した頬、少し強張った口もとと、細められた目。


「ありがとう、シオン。ねえ、今日はそっちに行っていい?」

「ここ、ですか?構いませんが」


 この部屋にはひとつしかベッドがなかった関係でしばらくアカネのベッドで寝ていたからか、何かあった時に添い寝をしに向かうのはいつもシオンの方だった。だから、ゆっくりとこちらに歩いてくるアカネを、ベッドに座って迎えるのは新鮮で。

 調律の壊れた胸の鼓動は、その新鮮さを言い訳にした。


「んっ、しょっと」


 アカネは1人分の距離を空けて座った後、吐息を零しながらぐいっ、とシオンに近寄って来た。膝と膝が触れ合う距離で、シオンの肩に頭を乗せる。身長差のおかげで収まりがいいんだと、これはいつのアカネの言葉だったか。

 部屋の机で佇む焔に触れているみたいに熱くなる肩に、シオンは頬をかいた。


「また今度、委員長と勝負できるかな」

「どうでしょうか。もしかしたら、今年の豊穣祭はヒュッテさんとアカネの2人の競技が催されるかもしれませんね」

「……色んな人に見られちゃったから、お誘いきちゃうかもだ」


 ぽつりぽつりと零れてきた会話は心が落ち着くほどにいつも通りで、シオンは想う。出会いこそお互いにいい印象ではなかったかもしれないが、それから1年が経って、アカネとのが増えている。それが、痛いくらいに愛おしい。

 友人としてのが増えるたびに、望む特別が遠のくような気がしてしまって。


「ねえシオン。もしかして、わたしがなんの魔法を使うか、分かった?」


 シオンが脚の上に寝かせていた手に、アカネはそっと自分の指を重ねた。


「……はい。私が、アカネの魔法を一番知っていますから」

「――め、面と向かって言われるとちょっと照れる」

「でも、本当のことですから」

「……うん」


 ハンナとアイリの前で自由な魔法を使うことはあれど、アカネが本当の意味で自分の魔法を使えるのはシオンの隣、シオンがいてこそだった。だからそれは共に過ごした時間の長さの比喩でもなく、事実――

 この王国でアカネの本当の魔法を一番知っているのは、シオンだ。

 人差し指が、絡まって。


「わたし、シオンに会えて本当に良かったと思ってる」

「……どうしたのですか、いきなり」

「こんなこと言うのもおかしいかもしれないけど……わたしに、嫉妬してくれてありがとう」

「ちょ、ちょっとアカネ?」


 アカネではなく、彼女の才能だけを見ていたのではないかという自分の気持ちへの猜疑心を越え、アカネの全て、才能も愛おしく想っている今のシオン。彼女にとっては出会ったばかりの頃の自分のアカネへの嫉妬心はあまりすすんで思い出したい気持ちではない。

 それを、ありがとうとアカネは。


「だってシオンがわたしに嫉妬してくれたから、わたしはシオンを知れたんだよ」

「それは……私は、それでも貴方の魔法に惹かれていたと思いますよ」

「ううん。だって、あの時のわたしが試験でわたしの魔法を使ったのは、わたしに勝ちたいって努力してたシオンが居たからだよ」

「――アカネ」


 シオンはアカネの言いたいことが、分かってしまった。

 天才への嫉妬がなければ、シオンもまた他のクラスメイトと同様に接していただろう。当時のシオンにとってはだから、話しかけられれば最低限ではあっても会話をしようとしたはずだ。しかしそれでは、他人の視線に傷を抱えていたアカネがシオンの隣を選ぶことはなかったかもしれない。

 仮にシオンの隣を選んだとしても、アカネに勝つために必死に努力をしたシオンでなければ、アカネの心を奪う魔法を使うことは出来なかった、とシオンは思う。あの試験での魔法はそれほど、自分の中でも高い評価をしているから。


 ――だからシオンにとってのこの大切は、あの出会い方があってこそだったのかもしれない、と。


「そしたら私は、こう言います。あの時、貴方の魔法を私に見せてくれてありがとう」


 一度は学院に居場所を失くすことになったきっかけ、アカネの魔法。

 あれを見せてくれなかったら、シオンはアカネを想うことはなかったのだから。


「それは、シオンが居たからで――ふふ、わたしたち、一目惚れだったのかもね」

「ひ、一目惚れですか?」

「最初の印象は違うけど、だって、お互いの魔法に惹かれたんだよ?」

「……そうかもしれませんね」


 冷静なままのシオンならば、気が付けたかもしれない言葉は既に通り過ぎ、シオンは懐かしさにただ微笑む。きっとヒュッテとの模擬演習を経て感傷的になっているのだろうな、と思うばかりで。

 2人の五指が、絡まる。


「ね、シオン。約束覚えてるよね」

「約束ですか?」

「うん。ご褒美」

「あ……わ、分かりました。では――どうぞ」


 シオンは顔だけをアカネに向け、そっと目を閉じた。ご褒美の時はアカネからシオンへ、軽く唇に触れるようなキスをするのがお決まり。なぜキスなのかと聞いた時、アカネは「シオンを感じられるから」とはにかんでいた。

 そういいうもの、とシオンは思っていて。


「ん」


 アカネはシオンの頬に垂れた空色の髪をそっと払ってから、いつものように唇に触れた。いつもならその一瞬で熱が遠ざかっていくのに、


「んっ……ぁ」


 アカネの熱は離れることなく、何度もシオンの形を確かめるように唇に触れ続けた。重なった輪郭、その隙間から零れる吐息が混ざり合って、熱が溶け合っていく。

 永遠にも思えるほんの数十秒が終わって、アカネが遠のいて。


「……アカネ?」


 ぼんやりとする頭でただアカネの名前を呼んだシオンは、喉の奥が締まるような苦しさがけれど心地よくて困惑していた。その困惑さえもが、膨れた熱にほだされて心地よさに変わっていって。

 絡まった手に、力がこもる。


「……わたし、怖かった。急に委員長に決闘って言われて」

「はい」

「本当は、ちょっとだけ足がすくんだ。運動場であんな大勢に見られて」

「はい」

「委員長に勝たなきゃって意識すると、次々とイメージが浮かんでくる。わたしの魔法なら、もっとかっこよく出来たけど、設計図の魔法を頑張った」

「……はい」

「――だから、ご褒美。シオンから、して」


 焔と水の人形に微かに照らされた部屋の中、見つめ合うアカネの表情がシオンの中の何かを突き刺した。キスはいつもアカネからで、シオンからしたことは一度もなくて。

 ――でも、したいと、思って。


「アカネ」

「……シオン」


 シオンは、アカネにそっと口づけた。

 されるがままだったのに、シオンは何をしたいか、どうすべきかが分かった。アカネを感じたくて、アカネの熱が欲しくて、撫でるように、抱きしめるように、キスを落す。

 自分でも驚くくらい、シオンは積極的にアカネを求めた。


「……っは」


 息継ぎさえ忘れて、先ほどのキスよりもずっと長く繋がっていた2人。

 そっと、身体を離す。視線が交差して、胸の奥がきゅ、と震える。


「アカネ、私……」


 ――だめ。


「――シオン、ごめん」

「あ、アカネ……んっ!?」

「んぁ……」


 シオンは溢れ出てしまいそうになる「好き」を抑えようとぎゅっ、と目をつむったが、次の瞬間、アカネに押し倒されて目を見開いた。拡がった視界のその先に、アカネの顔があって、また反射的に目を閉じて。

 アカネの下になって、シオンは唇に再び熱を感じた。触れるようなキスしかしてこなかったアカネが、模擬演習で見せた炎の矢のように激しく口づけをしてくる。今まで感じたことのない熱と、深く繋がる。

 アカネの焔とシオンの水が、滑らかに絡まって。


「……ぁ。あ、アカネ?」

「ごめん、シオン。こういうのは……嫌?」


 自分を見下ろすアカネの顔に見えた朱色が愛おしくて、シオンはそっとその頬に触れた。


「困り、ます」

「あっ、ご、ごめ――」

「嬉しくて、困ります」

「……っ!シオ――んっ」


 シオンはアカネを抱き寄せて、今度は自分からアカネを求める。ほどけてしまった熱を再び結んで絡めて、熱を抱いた。


「……シオン」

「はい」

「わたし、わたしね。シオンのことが――好き」

「……!」


 アカネから垂れた髪がシオンの頬にかかる。

 告げられた言葉の意味を、シオンはもう迷わなかった。


「――私も、ずっと貴方が好きでした」


 言いながらアカネの髪を払って、そっと抱きしめた。

 腕の中のアカネは熱く、きっと自分も同じくらい熱いだろうと思う。それが、「好き」という言葉の熱なのだとシオンは微笑んだ。


「ほ、ほんとに?」

「私は去年の豊穣祭の時からずっと好きでしたよ」

「――ぅ。ず、ずるい……!だってわたし、今日副委員長カップルに色々言われて初めて気づいたのに」


 それは、別れ際。何か意味深なことを……伝えたいことは後悔する前に伝えた方がいい、とか相談なら乗る、とかを。

 恋人である2人ダンとアレンが、告げたその言葉――


「……ひょっとしてアカネ、視線が合わなかったのって」

「うっ……や、やめて。は、恥ずかしくなっちゃうから」


 シオンは腕の中で震えるアカネが愛おしくて目を細めた。

 なるほど、アカネはシオンが好きだと気が付いて、それで恥ずかしくなって目を合わせられなくなってしまったのか。


「――キス、したらね。我慢できなくて」

「それで、告白してくれたんですか?」

「……うん」


 シオンはアカネの頭を撫でながらを知った。シオンがアカネに告白できなかったのは、アカネが望んだ関係が友人関係だったから、という理由であり、自分がどうしたいかはあまり考えていなかった。

 アカネは自分の気持ちを伝えたいと思って、溢れるままに言葉にしてくれた。シオンが慕情を寄せていた相手はミドリ先生で、それが届くことを半ば諦めていたから――だから、自分から伝えようという発想に至れなかったのだ。


「ふふっ、今日気づいたのに、今日言ってくれたんですか?」


 だから、シオンは続くアカネの言葉を聞いて顔どころか全身が朱を帯びたようにさえ感じてしまった。


「……だって、シオンもわたしのこと、好きだと思ったから。副委員長たちに言われて気づいた時、そう思って」

「――えっ」


 それは、だって、つまり――

 口にしてこそいないものの、シオンは全身でアカネへの気持ちを伝えていたということで。


「ど、どうしてそう思ったのですか」

「シオン、いつも手を繋いでくれるし、いつもわたしの傍に居てくれるし。目が合ったら嬉しそうに笑ってくれるし、わたしのこと、よく見ていてくれるし。それに」

「……も、もう聞きたくない気もしますが、それに?」

「それに、ね。副委員長たち、

「――あ」


 恋愛経験が豊富なのだろうダンやアレンが、シオンを見て言っていたということは。

 2人から見て、シオンには「気持ちを伝えたい相手がいる」ように見えていたということで。シオンにとってのその相手を考えたら、それは――


「……わたし、かなって」

「~~~っ!!」


 シオンは、恥ずかしさのあまりアカネを強く強く抱きしめてしまった。ここに枕があれば枕を、学院の鞄があれば鞄を抱いていたことだろう。

 とにかく、何かを抱きしめないと恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだった。だって、だって、


(抑えてきたつもりなのに、全然抑えられてないじゃないですか……っ!)


「そうですよっ。私は、アカネが好きなんです!好きなものを見つけたら嬉しそうに報告してくるところとか、笑った時の顔とか、可愛い髪型とか、あとちっちゃくて愛おしいですし!たまに甘えてくるところとか、自信満々な顔するところとか、色んな事が出来るのに朝だけとても弱いところとかっ、私の……私の魔法を、好きだと、言ってくれたところとか。貴方の、魔法が。私は、心から好きなんです」


 シオンは、これまでの想いを吐き出すようにそうまくしたてた。アカネの顔を見ながら言ったら声が詰まってしまいそうだったから、胸に抱き寄せたまま。

 くぐもった声が「うっ」「はわぁ……」「え、えへへ」何度も聞こえてきたから、きっとアカネも正面から言われたら色々、困っただろうな。


「だから――だから、アカネから好きと言ってくれて、嬉しかったです」

「……シオン」


 そこでシオンはアカネを離してベッドの上に足を畳んで座り、今度こそ正面から向かい合った。所在なさげに服の裾を引っ張っているアカネの両手をそっと握って、シオンは告げる。


「アカネ。私の、恋人になってくれませんか?」


 アカネが息を呑んだのが分かった。

 お互い好き合っていると知って、伝えて、肝心なその続きがまだだったと、今気が付いたようで。


「――うん。よろしくお願いします。わたしの、シオン」


 アカネはそう言って、シオンの手に口づけを落したのだった。



 ああ。

 忘れたく、ないですね。

 この思い出も、私は――



※※※



 私は、何だと言うのだ。

 ねえ、いつかの自分。


「貴方は、自分がアカネとの日々を忘れてしまうと知っていて、この本を書いたの?」


 答えを返すべきを、私はまだ、思い出せないでいる。

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