貴方を想っているから
模擬演習で行われる競技は魔法の試験だけでなく、豊穣祭でも催されるもので、王国における大衆娯楽のひとつになっている。的も、的を射る獲物も魔法で編むことが可能であるため、運動場のような広い空間があれば行いやすいという理由がある。
学院で行われる模擬演習の場合、一定の条件もと指定された設計図を用いる能力検査のようなものと、今回のような魔法の腕を競うものとの2つがある。前者はほとんど純粋な、用意された設計図の再現度によって勝敗が決まるため、例の試験と似たような空気感になる。
一方、後者では使用する魔法に一切の制限がない。したがって、選手の魔法の選択センス、設計図の再現度だけでなく、芸術的な観点からも採点が行われる、総合競技のような様相を呈する。豊穣祭では、実は去年、ミドリ先生とヒュッテもこの競技に参加しており、シオン達もその様子を見学していた。
「シオン様、去年のヒュッテ委員長を見ていると、やはりアカネ様と言えど厳しい戦いになるような気がしてしまいます」
ハンナが運動場の的を前に構える選手2人を見ながら髪を払う。競技は計10の的を、1回ずつ交互に狙うという形式を取る。一度に狙う的の数に制限はなく、唯一的を壊してはいけないという決まりがある。
過去には一度に10全ての的を当てた者もいるというが、的はバラバラな場所にあるし、動き続けているものもあるため、全てどころか通常は2つ以上狙うのさえ困難なため、眉唾とされている。
「……」
――模擬演習の先行はヒュッテだが、構えたまましばらく動きがない。
魔法を編むのに時間をかけているのか、距離や奥行きが異なる的、幾何学的な軌跡を描いて移動する的も用意されているため、見定めているのか。
「……あのミドリ先生に勝っていますからね、委員長は」
「――えっ、そうなの!?」
「なんで一緒に見てたのにアイリは知らないの……?」
「……えへへ」
「ハンナは別に褒めてないよアイリ」
鋭く息を吐き出したヒュッテは、脚を肩幅で開くと、風に髪をたなびかせながら片腕をきっと前へ突き出した。
「神代の遥かから連綿と語り継がれてきた空を駆けるこの橋の威容を、地上の花もまた見上げていたのだ」
設計図を編むのに何らかの文言を口にする必要はなく、ヒュッテのこれはパフォーマンスだ。聡い者であれば、ヒュッテがこれから使おうとしている魔法が何か分かったことだろう――シオンもまた、その1人だ。
この競技は家具調度を作る際に用いられる錬成系の魔法や、調理や農耕に用いられる火、水系統の魔法、重量物を運ぶ際に便利な束縛の魔法、過去には塵を払う風系統の魔法と氷の魔法を組み合わせる者も居たほどだ。あらゆる魔法が、的を射る獲物になりうる。
その中でも、芸術系の魔法は想像だにしない使われ方が多く、観客の目を引きやすい。
「――さすがはヒュッテさんでしょうか」
ヒュッテが腕を波打つ水面のようにしなやかに振るった直後、運動場に伸びやかな虹がかかった。通常この魔法は虹をかけるだけのものだが、ヒュッテは虹の先端に矢じりのように、別の魔法を仕込んでいる。それに気づいていない観客たちは壮麗な虹の橋に目を奪われ、ほぅ、と息をついていた。
「ここからだ」
アレンが呟くのが聞こえるくらい、静まり返った運動場――虹が、最も遠い場所にある的に着弾する、その刹那だ。ぱっ、と虹が弾け、先端を基点にして数々の花々が姿を現した。そう、ヒュッテは魔法の弓をつがえ、花を咲かせる虹の矢を放ったのだ。
「……花火みたい」
普段なら聞き逃すことのないアカネの発言を、この時のシオンは聞き逃してさえいた。
ヒュッテのその虹の矢に魅入られたから――ではない。
「……おいおいヒュッテ、これはさすがにやりすぎだよ」
ダンが額を抱え、アレンがその肩を労わるように撫でてているのが視界の端に見えた。ハンナとアイリは気遣わしげにアカネを見やり、ロッテはどちらかと言うと虹の花に目を奪われていた。
そして、シオンは。
「まさか、一回の番で8つの的を当てて来るなんて」
ヒュッテの戦略に、舌を巻いていた。
ダンが難しい顔をしているが、ヒュッテはどこ吹く風だ。会場を沸かせたまま肩をすくめてさえいる。ヒュッテが模擬演習開始直後動きを見せなかったのは、出来るだけ多くの的を狙うために機を窺っていたからだろう。
ただでさえ難しい複数当て――それを、8つも当てて来るとは。
「――でも、貴方がそう来るなら」
口の中で呟いたシオンは、こちらを振り返ったアカネと頷き合う。
シオンは、たとえヒュッテが一回目で全ての的に当てて来ても、アカネの勝利を疑わなかっただろう。なぜならば、こと魔法においてはアカネの発想は誰の追随も許さないから――自由な魔法を使うアカネの発想は。
設計図を使う競技とはいえ、この競技では他ならない発想力が試される。
「さて、私は8つ当てたわけだが……降参するか?アカネ」
「ううん。その必要はないですよ」
「――ほう。ならば、見せてみるがいい。もっとも、私の勝ちは既に決まったも同然だが」
ヒュッテの性格には似つかわしくない油断と一瞬思えたが、その顔に浮かぶ楽し気な表情を見るに、分かりやすい挑発をしただけだろう。だが、ヒュッテの言い分も分かる。ヒュッテならば次も最低でも5つ以上は当てて来る。
この段階で、ヒュッテに勝てる者は王国でも一握りになったといえる。
「アカネさん……」
ロッテが祈るように胸の前で両手を固く握りしめている。姉を応援する、とは思ってはいなかったが、ここまでまっすぐにアカネの勝利を想う姿を見せられるのは少し、複雑だった。
揺れるツインテールが視界に映る。アカネは深呼吸を挟み、ヒュッテとは対照的に小さく構えている。この時点では会場の誰もアカネがどの魔法を使うつもりなのか見当もついていないだろう――シオンを除いて。
シオンは、誰よりも近くでアカネの魔法を見てきた。設計図によるものも、自由な魔法も。そして、あの時。魔法騒動があった試験の時、シオンはアカネの隣に居たのだ。
(アカネ、もしかして貴方は)
「――行きます」
その直後見た光景を、この場に居る誰もが永劫忘れることはなかった。
水中を揺蕩う植物のように両手を空に泳がせたアカネは十指を器用に動かし、瞬く間に数々の水の塊を生み出していく。それらは的確に標的へと漂っていき、全ての的の付近に1つずつの水塊が浮かんだ。
「嘘、でしょ……10個同時なんて」
誰の言葉か、それはその場の全員の気持ちを代弁していた。呑む息すら忘れてその光景に見入る観客たちは、アカネが10の的の前にゆっくりと水球を作っていくその様に魅了された。1つ1つの球がそれぞれ異なる軌跡を描きながら徐々に形を成していく様は、この世ならざる神秘さえ感じさせる。
そう、これは試験の時の芸術魔法、水の球。ただし、10個同時だ。
通常設計図の魔法は一つの設計図の使用がほとんどであり、試験の際や特定の条件でのみ2つ以上の設計図を再現する。同じ設計図といえど、同時に5つ以上再現するのを見たことがある者は稀だろう。まして、10個同時は、正気の沙汰には思えなかった。
「まだ、これからだよ」
アカネのその呟きが聞こえていた風紀委員の面々やシオンたち4人はぎょっとした。既に水球をぶつければ得点10を獲得できるはずなのにまだ何かやる気か、と。
しかしシオンは、驚きながら次に来る魔法が分かっていた。そう、試験の再現というのなら、まだ足りない。
「炎、ですよね」
刹那、水球を編んでいた指は、空気を弾くように素早く動き別の魔法を編み始めた。水球は維持したまま、である。
「……アカネ、まだ何かあると言うのか」
ヒュッテでさえ驚愕の表情をしているのは、8つ同時を成し遂げたヒュッテでさえ、設計図の利用は2つだったからだ。虹の魔法と、花の魔法。
アカネはヒュッテの呟きに答えることなく、静から動へ、指で激しいダンスを踊るように次の魔法を編んでいく。10の水球めがけて飛んでいく、10の炎の矢だ。現時点で、合計20の設計図の同時編み。
ここまでは想像できていたシオンは、この炎をどうするのか予想がついていなかっったが、全ての炎が試験の時のように水球に纏うことを指向しているのではなく、まるで矢のように飛翔しているのを見て、アカネの思惑を悟った。ちらとヒュッテを見ると、見開いていた目はそのままに、口角を吊り上げ興奮を隠さずにアカネの魔法を見つめていた。
「お、おい!こ、これはどんだけ同時に編んでるんだ……?」
「ちょっと!静かにしろって。こんなの、もう見れないかもだぞ……」
観客席がにわかにざわつきだしたのは、的の付近で浮遊する水球に炎の矢が飛び出した時だった。言葉を呑むほどに見惚れていた時間は、声を出さずにはいられない興奮へと変わっていく。
矢は、数秒で運動場を駆け抜け、そして、その時が来た。
「さあ、咲いて!」
アカネのその声と共に、ほとんど同時に水球に着弾した10の炎矢。炎矢に貫かれた水球たちはその瞬間にぱんっ、と弾け、まるで花が咲いているかのような水しぶきをそこここで散らした。そう、これは虹の矢と花の矢じり――ヒュッテの魔法の再現だ。
ヒュッテは一つの矢じりからいくつもの花を咲かせて8つ同時を成し遂げた。
アカネは10の水球に10の炎矢をぶつけ、全ての的の前で花を咲かせて、
「……と、得点は……10です……すっ、全ての的に着弾を確認!アカネの得点は、10ですッ!!」
審判の学院生が、高らかに告げた。
一拍遅れて、会場を割らんばかりの大歓声が運動場を揺らした。設計図の編み込みを終えたアカネは、さすがに疲れたのか額に汗を浮かべ、肩で息をしながらくるっ、と振り返る。そこに咲いていた満面の笑みに、シオンもまた、歯を見せて答えた。
「さて、委員長。わたしは10全部に当てたけど……降参しますか?」
それは、先ほどのヒュッテの挑発の再現だ。しかし、ヒュッテ本人にとっては似たような表現で自分を遥かに上回る数の設計図を編み、得点も越されただけでも、十分なカウンターになっただろう。
当のヒュッテはと言うと、風にあおられた髪を背中に払い、首に手を当てたままの姿勢で静かに運動場を眺めていた。その視線の先にはアカネが居るが、その目にアカネが映っているかは定かではない。
「……仮に私があとの4回、連続で10の的に当てたとしても、アカネに追いつくことは出来ない」
ヒュッテの目は、アカネが残りの4回、同じ様に全ての的を当てることが出来ると見たようだ。そう独り言ちると、アカネの披露した魔法に未だ湧き続ける観客席に背を向けて、すたすたと歩き出した。
「……委員長?」
怪訝に思ったのはアカネだけではなく、ダンやアレンさえもが、ヒュッテがアカネに背を向けたことに驚いている。だが、なぜだろう。この時のシオンには、ヒュッテが負けを認めて逃げているのではないと、分かった。
それは多分、シオンもまた、アカネに一度負けたことがあるから。
「答えは、否だ」
アカネから数メートル離れたところで急停止したヒュッテは、片足を軸にきっ、とターンして正面に、アカネに振り向いた。
「私にも譲れないものがある。ここで君に負けるわけにはいかないんだ」
そう言い放ったヒュッテは、まっすぐ前を見据えたまま左手を前にかざし、右手を胸の前に掲げた。審判はヒュッテの行動に首を傾げていたが、審判だからこそ、彼女の意図にいち早く気が付いた。
この競技は、計5回の順番でいかに多く得点するかを競う。王国屈指の腕前を持っている者でも、一度に3つから5つの的を取れればいい方で、時に6つや7つを運にも恵まれて取れる、そこに妙がある。だがアカネとヒュッテの対決では、もはや、消化試合だ。
アカネは10の的全てを取り続けるから。
「――しかし、だからこそだ」
そう、だからこそ、そこに付け入る隙があった。
この競技は、10の的があるが、通常ならば全てを一度に当てることなど、想定されていないから規則に明記されていないこと。
「……まさか、姉さま」
隣でロッテが小さく呟くのと、ヒュッテの左手が編んでいた魔法で新たに2つの的が現れたのは、ほとんど同時だった。
「――!ヒュッテ、もしかして君は今回で自分で作った的を含めて12得点を取るつもりなのか……!?」
「……いくらヒュッテでも、無茶だ。だが、あるいはヒュッテなら」
ダンとアレンもその意図に気が付き、身を乗り出して成り行きを見守っていた。そう、ヒュッテの8点とアカネの10点、その2点の差を埋めるための12得点。ロッテは胸の前で手をきゅっ、と握りしめ「どうしてそこまで」と呟いている。
的の魔法の設計図は、学院では競技の運営に携わる者しか知らないのだ。自由な魔法を使えばアカネにも似たようなものの再現は出来るだろうが、それが叶わない以上、ヒュッテに12得点を取られれば、アカネの勝ち筋も遠のく。
ヒュッテは会場の反応を歯牙にもかけず、右手の魔法を完成させた。
「氷の球、ですか……?先ほどのアカネの魔法に、氷系統の魔法で細工をした、のでしょうか」
現在ヒュッテは的2つと水球、そして次に氷と常に3つ以上の設計図の同時編み込みをしている。ヒュッテがいかに優れた魔法の腕を持っているとはいえ、これはかなり至難の業だ。
――まして、彼女はこれから12の的全てに当てようとしているのだから。
「だ、ダン副委員長。これは、その、規則的に良いのでしょうか」
ヒュッテの行動に審判が不安げにダンに耳打ちするが、平素ならばヒュッテを止めるであろうダンはこの時、からっと笑って見せた。
「止めても無駄だよ、こうなったらね。それに僕はこんな時にまで規則を持ち出すほど無粋じゃないよ。ヒュッテは言ったろ、譲れないものがあるって。ヒュッテのしりぬぐいなんていつものことだし慣れてるけど――あんな表情をしているのは初めて見るんだ」
ヒュッテは自分で出した的でさえ運動場の一番遠くへと追いやっている。自分のすぐ近くに配置すれば楽に得点できただろうが、それは違う、と。
もっとも、その場合にはダンが規則を持ち出してその2点はなかったことになっただろうが。
「シオン、委員長本気みたい」
「ですね……その、アカネ。さっきの魔法、とても素敵でした」
「うん。ありがとう。でも、委員長に勝つには多分あと4回本気出さないと厳しそうだな……わたしの体力もつかな」
アカネはシオンの手をきゅっ、と握って来て、シオンもまた自然とそれに応じる。2人にとって、この距離感が日常だった。
そうして見守る中、ついにヒュッテが動き出した。
「踊るように、全ての的を鳴らして行け」
その声と共に、氷の球をヒュッテは風の魔法で運び出した。現在、4つ同時編み込み。
額に脂汗を浮かべるヒュッテは、一番近くの的から順に、次々と氷の球を当てていく。一つの的を過ぎるたびに、ヒュッテの苦痛に喘ぐ声が運動場に零れていく。アカネの時とは異なる意味で、重く静まる会場の中、こぉーん、こぉーん、と氷の球が的を鳴らす音が木霊していく。
7、8、9、そして、10。
「……ここまでは、アカネ様と同じだね」
「うん。ここからだね……」
ハンナとアイリは肩を寄せて見守っていた。
ロッテはきつく眉を寄せて。
ダンは笑みを浮かべ、アレンと手を握りながら。アレンもまた、薄く微笑んでいる。
そしてシオンとアカネは、ただ、ただ魅入っていた――ヒュッテの見せるその静かで、毅然とした魔法の凛とした美しさに。
「……11ッ、これで、あとは――」
氷の球を放ってから初めて漏れたヒュッテの声はかすれていて、つう、と鼻から赤が滴っていた。指先は震え、一歩、ふらつく身体を支えるために足を踏み出した。
限界まで集中したヒュッテは、最後、力を振り絞って己が出した的へと氷の球を導こうとして、ごとん、と。
「あ……」
それは誰の声だっただろうか。
氷の球が着弾する一瞬前に、最後の的が地面へと落下してしまった。それと同時に、魔法が溶けて、ヒュッテの作り出した的2つがほぐれていく。氷の球も、的と軌を一にしてほどけていった。
誰もが運動場の奥を注視する中、どさり、と何かが地面に倒れる音に意識を引き戻された。
「――ヒュッテ!」
アレンとダンが、地面に倒れ片膝をつくヒュッテの元へと駆けていく。2人に肩を支えられたヒュッテは、しかし立ち上がると支えを断った。
ふらつく足取りでアカネの前までやってくると、
「アカネ。私にはどうやら、君には届かないみたいだ」
未だ震える右手をそっと差し出して来た。
その意味は明白で、だからこそ、アカネは――
「……すごいです!わたし、委員長の魔法が好きになりました!」
「……ふむ?」
「まだお互い順番が残ってます。ここからは勝ち負けじゃなくて、競技を楽しむのはどうですか?」
「――私のこの姿が見えないのか、君には?」
「あっ」
極度の集中を数分続けたため、鼻から血が滴り、額は汗に濡れ、指も足も震えているヒュッテに、まだ続けろとはさすがに酷だった。だが、それでもアカネは「見たい」と思ってしまった。
それほどまでに、風紀委員長ヒュッテの魔法は、至高の技だった。
「いや、すまない。少し棘があった。もともと私のわがままで無理やり決めた演習だ」
「――自覚あったんですか姉さま」
「……無理やり、決めた演習だ。だから、その言葉はありがたく受け取っておく。それとして、私の認めた負けを――君の勝利を、素直に受け取ってはくれないか?」
「あっ、えっと……分かりました。とても、とても良い模擬演習でした」
2人が手を取り合った瞬間、会場にはその日一番の歓声の雨が、降り注いだのだった。
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模擬演習はその後、ヒュッテが医務室に運ばれたことで解散となった。
「明日の放課後、風紀委員の執務室に来てくれないか」
去り際ヒュッテにそう言われ、アカネ、シオン、ロッテ、ダン、アレンの5人は連れ立って執務室を訪れている。人払いがすんだ執務室から、副委員長カップルが他の3人を迎えに来た形だ。
ダンがノックすると、「来たか」の一言が飛んできて、向こうから扉が開かれた。
「呼びたててすまなかったな。ダン、アレン、案内助かった」
「いいっていいって。いつものことだし」
「そうだな。俺たちは慣れている」
アレンの一言は言外に、「先にアカネたちに言うことがあるだろう」と含んでいて、苦笑と共にヒュッテは頬を掻いた。
「アカネ。今回は私のわがままのせいで君に面倒をかけた。本当に、すまなかった」
「え、ええ!?ちょっと、頭を上げてくださいって。わたしは、昨日も言ったけどあのまま続けたかったくらい楽しかったんですから!」
「――そう言ってくれると助かる。シオンも、君のアカネを借りてすまなかったな」
「いえ、私も素晴らしいものを見られましたか――え、今なんと?」
ヒュッテはシオンの疑問に答えることなく、「そこに座ってくれ」と言うと1人だけ立ったまま5人を迎えた。ヒュッテの一番近くにダンとアレンが、その隣にシオンとアカネ、一番遠くにロッテが座っている。
そういえば、教室からここに来るまで一言も発していないな、とロッテを見やると、どこか沈鬱な表情を浮かべている。
「……さて、君たちには説明しておかなければならない。もっとも、事情を知らないのはアカネとシオン、君たちだけだろうけれど」
「は、はぁ」
「私には譲れないものがある、と言ったね。それは――ロッテなんだ」
「……え?」
シオンはいつもの丁寧な口調を忘れ、ぽかん、と口を開けていた。
だって、なんでロッテが譲れなくて、アカネと勝負したのか?
「ロッテとは姉妹だが、複雑な事情があってね。血縁ではないんだ。いや、それは関係ないな。私はロッテを心の底から愛している。家族としてではない。1人の女性として」
「――えっ」
思わずロッテを振り返ると、きゅっ、と握りしめた拳は何かを堪えているようにも見えた。
「去年の、ちょうど豊穣祭の前後くらいかな。家でね、ロッテからある人物の名前をよく聞くようになったんだ。それが、アカネ。君だよ」
「わ、わたしですか?」
「ああ。最初は、噂の学院の天才が同じクラスで、それで話しているのかと思った。我ながら気が付くのに時間がかかりすぎてしまったが――」
「……姉さま。ごめんなさい。私に、それは、私に言わせてください」
「……そう、だな。すまない。私としたことが、最悪の無礼をするところだった」
ヒュッテはそう言うと口をつぐみ、どこか痛そうな表情のまま一歩下がった。ダンとアレンは気遣わしげにロッテとアカネを見ていて、シオンだけがどこか輪の外のように感じていた。
この状況になって、シオンはある可能性が、頭をよぎって。
「アカネさん。私から、貴方に伝えたいことが、あります」
「……うん」
「私は、貴方のことが、好きです。恋人に、なりたいと、ずっと――思っています。いま、した」
「……うん」
ロッテと向き合うアカネの顔は、浮かない色だ。
対するロッテも、痛々しい表情で、ヒュッテでさえ、片腕を抱いて身を引いている。
「姉さまは私を想う気持ちが溢れて、私がアカネさんが好きだと知って勝負を考えました。アカネさんに勝って、私を振り向かせようとしたんだと、思います」
「――弁明はない」
「……私は、怒って、います」
ロッテはそう言うと、アカネに頭を下げた。
「今でもアカネさんのことは好きです。心の底から。でも、同時に――姉さまを想う気持ちも、消えてくれないのです」
「……ロッテ?」
「姉さまは、出会った時から私の姉さまでした。血が繋がっていないのに、実の姉のようにしてくれて、いつもかっこよくて素敵で、私の憧れで。いつか、いつか姉さまの隣に立ちたいと思って。でも――私には、それが出来ない」
ロッテの言葉は一つ一つが鋭利な刃物のように突き刺さる。
ああ、そうだ。自分も、シオンも、そう。
ミドリ先生の隣には――どうしても、立てなかった。
「そんな時、アカネさんに出会いました。アカネさんは同じクラスなのに、姉さまみたいに凄くて、ひょっとしたら姉さまよりも。姉さまの想いを半ば諦めていた私は、あっという間にアカネ様に夢中になりました。色々ありましたが、アカネ様と日々を過ごすうちに、それが恋へと、変わっていったのです」
ロッテの言葉に、シオンはようやく理解した。 色々とは言わずもがな、魔法騒動のことだ。姉のように慕っていたアカネが、自分の価値観と異なる――いや、王国のほとんどの人々にとっての常識と異なる――魔法を使ったことは、裏切りにも見えたのだろう。
だから、シオンを通じてアカネを弾劾した。その結果、シオンがアカネを更生させ、ロッテは再び近づいてきたのだろう。だが、その時には既に、シオンが隣に居て。
(だから、ロッテは私には少し冷たかったのですね……)
「姉さまを想いながら、諦めたふりをしてアカネさんに恋をした私に、私は怒っています。そして……」
そう言ったロッテは、微笑みながら、けれど確かな怒りを湛えた目で、ヒュッテを射抜いた。
「私を好いていてくれながら、いつまでも気持ちを伝えてくれなかった姉さまにも、怒っています」
「……ロッテ?」
「諦めたかったのに……隣に立てないから、遠ざけようとしたのに……姉さまは、いつも私を想ってくれる。私はそれが、嬉しいのが、嫌だった」
「そ、それは」
「アカネさんを好きになってしまった自分が、演習でどちらを応援していいか分からなくなってしまった自分が、嫌だった」
吐き捨てるようなその言葉が、あのヒュッテを狼狽させている。だが、無理もない。
自分が好きな人が、自分が好きであるという理由で、そのせいで傷ついていたのだから。
「……私は、なんと愚かなんだろうな」
――それは、いつかどこかで聞いた気がした言葉。
「アカネ。ロッテが、言ってくれた通りだ。今回の模擬演習は私のつまらない嫉妬が原因なんだ。そして、ロッテ……」
「――姉さま」
「こんな、こんなことを言うことが許されるのか分からない。だから、罵倒してくれてもいい、軽蔑してくれてもいい。でも……ロッテ。私に、君をもう一度、愛する機会を、くれないだろうか」
跪き、ロッテに深々と頭を下げるヒュッテから、ダンとアレンは目を背けていた。呆然とするあまりまじまじと視界に入れてしまっていたシオンとアカネは、2人の意図を察して目を閉じた。
彼女のこれは、ロッテにだけ向けられたものだから。
「……私は、姉さまを想いながらアカネさんを想ったような女ですよ」
「構わない。私は君の気持ちに気づけなかった愚か者だ」
「姉さまの足もとにも及ばない凡人ですよ」
「構わない。私の好きな君がいてくれれば」
「――その機会、一生離せませんよ」
「むしろ、望むところだ」
そこで顔を上げたヒュッテに、ロッテが駆け寄る音が聞こえるのと同時に、シオンたちは副委員長カップルにう促されて執務室を後にした。ここからは、確かに2人の時間だろう。
執務室から少し歩いたところで、ダンが大袈裟に息を吐いて見せた。
「はあ……いやあ、ようやく落ち着いたね、ヒュッテとロッテちゃん」
「そうだな。見ている分には、もどかしいすれ違いだったが……アカネ、シオン、巻き込んでしまってすまなかった」
眼鏡をくい、と上げながら軽く頭を下げたアレンに、シオンは首を横に振った。
「だ、大丈夫ですよ。私は」
「わたしも、大丈夫です。ちょっと、決闘って言われた時はびっくりしたし、ロッテには、その……複雑な感じになったけど。委員長の素敵な魔法が見れたし、ロッテも委員長も、素直になれたみたいだしね」
しかし、とシオンは想う。
自分が呼ばれたのはまだしも、ダンとアレンまで執務室に呼んだのは意外だった。ただの仕事上の右腕、ということではなく3人は良い関係を築いているのかもしれない。
あるいは、恋愛的な相談、とか。
「……シオン、なんか変なこと考えてる?」
「――!?い、いえ別にそんなことは」
「ふうん。そっか」
ダンが、ダンの方が背が高いというのに覗き込んでにやにやとからかってくるものだから、思ったよりも大きな声が出てしまったシオンは、アカネにじっと見つめられて頬を赤らめた。な、なんでこんなに見てくるのだろう……!?
そのままダンとアレンは玄関まで送ってくれるようで、談笑をしながら廊下を歩くこと、しばし。
「うん。まあ多分明日あたりにロッテちゃんとヒュッテから昨日はごめん、みたいな話があるだろうし、アカネたちは今日はこの辺でね」
「……それから、俺たちから伝えたいことが」
ダンとアレンは頷き合うと、何故か突然指を絡めて手を繋ぎ合った。
「――伝えたい気持ちは、後悔する前に口にすることを勧める」
「僕からは、まあ……なんかあったら話くらい聞くよ、かな」
意味深な言葉を送られ、シオンは首を傾げていたが何故かアカネは俯いていた。「アカネ?」と聞くと、びくっ、と肩を跳ねさせて、ぎこちない動きでシオンを見やる。
揺れる視線と、シュシュのような色合いの顔と。
「……ねえ、シオン」
「な、なんですか?」
「ご褒美、約束したよね。わたし、勝ったからさ……今晩、いい?」
「――!そ、それは……わ、わかりました」
ダンとアレンの言葉やアカネの表情について考えるよりも先に、アカネの口から零れたその言葉にシオンは赤面してしまう。そうだ、ご褒美。約束。
覚えず、唇に手が触れる。身体が、熱を思い出して。
「……じゃあ、帰ろうか」
「そう、ですね」
2人は、連れ立って寮へと戻っていく。
――その手を握ったのは、さて、どちらからだっただろうか。
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