離れたくなくて

 1か月が経った。

 アカネはすっかりクラスメイトたちに受け入れられ、試験以前よりも明るく振る舞うようになっていた。その一因にロッテが居たから、シオンは疑い過ぎた自分を恥じた。

 ハンナとアイリもまた、上手く間をとりもってくれたおかげで、アカネの表情はすっかりほぐれていた。その中で、アカネの隣に座るシオンだけが、以前と変わらない距離を保っていた。アカネに望まれて隣に居るけれど、それも自分にはふさわしくないとさえ、思うようになっている。

 だって、私は――


(貴方の才能しか見えていなかったのだから)


 クラスメイトと談笑するアカネの横顔から、シオンは目を背ける。



 ――全ての授業が終わり、教室にミドリ先生が戻って来た。


「明日は豊穣祭です。授業もありませんから、皆、節度を持って楽しんでくださいね」


 その日、最後の連絡の際にミドリ先生から告げられた言葉に、にわかに浮足立つクラスメイトたち。その中で、アカネだけがきょろきょろと回りの様子を窺っていた。

 シオンは放っておいても誰かがアカネに説明してくれるだろう、と目を伏せたのだが、ちょいちょい、と遠慮がちに袖を引かれ、アカネを振り向いた。


「あっ、えっと、シオン」

「……はい」


 少し緊張したような面持ちのアカネが、息を深く吸ってから口を開く。


「その、豊穣祭って……?」

「――豊穣祭、というのは王国に数百年続く伝統のある祭りのことです。神代の時代から脈々と受け継がれるこの大地への感謝する儀式が元になったようですが……今は、華々しい催しや出店が街に並ぶ、楽しい祭りになっていますね」

「……ああ、なるほど」


 豊穣祭の時期は学院の生徒たちも勉学や試験を忘れ、友人や恋人と共に城下町を散策するのが常だった。シオンも一度、親に連れられて行ったことがあるが、それだけ。豊穣祭の期間は学院が静かで、勉強するのにちょうど良かったから。

 だから、今年の祭りも1人で、と思っていた。自分には、アカネの隣に居る資格は、もうないと思ったから。

 結局、才能があれば誰でも良かった自分など、もうアカネの隣には不要だから。


「ねえ、シオン。一緒に行こうよ」

「……えっ」


 だから、アカネに誘われた瞬間、に、シオンは顔を歪めた。

 なぜ、自分はまだ嬉しいと、思ってしまうのだろうか。


「――ロッテさんや、他の方と行かなくていいのですか?」

「シオン。わたしは、シオンと行きたい」

「……分かり、ました。私などで、構わないのなら」

「シオンがいい。シオンが、いいんだよ……」


 アカネに顔を見られたくなくて、顔を伏せて返事をしたシオンは、絞り出すようなアカネの声にぎょっとした。その色は、もう聞くことがないと思っていた、あの頃の。試験の後の、アカネの声だったから。

 もう、アカネは大丈夫なはず。じゃあ、どうして?


「……」


 シオンは自分たちに注がれる視線に、気づくことが出来なかった。



 ミドリ先生の連絡も終わり、放課後。いつの間にか居なくなっていたアカネは、ああきっと友人とどこかへ行ったのだろうな、と。

 シオンは1人、ゆっくりと席を立とうとして、後ろに誰かが居ることに気が付いた。


「ああ、ハンナさん。アイリさんも。どうしましたか?」


 そこに居たのは、シオンを気遣わしげに見つめるハンナとアイリだった。その視線の意味が分からず、シオンは首をかしげて見せた。

 口を開きかけたアイリはけれど、言葉が見つからなかったのか片腕を抱いて半歩下がり、代わってハンナがシオンに近づいた。


「シオン様、私たちに付き合って欲しいのですが」

「……ええと、構いませんが。何かあったのですか?」

「それは、来てもらえれば分かります。動きやすい服装に着替えてきてもらえますか?」


 シオンは疑問に思いながらも、特に用事もなかったために言われた通り、学院指定の運動着に着替え、先を歩くハンナたちに着いていった。どこに行くのかと、学院を出て、通りを進む2人を追う。学院に続く道を遡り、角をいくつか曲がった先。

 やがて到着したのは、シオンが実家から通っていた時によく通った道にある、一軒のカフェだった。


「シオン様。すみません、わざわざ」

「いえ、暇でしたから。それで、ええと……これから何を?」

「それはね、実はウチの親戚がここの店長さんでね、毎年豊穣祭の時期に飾りつけを手伝ってるの」

「私はアイリと幼馴染で、子どもの頃からお世話になっています。今年は高等部の試験が直前にあったので、前日になるまで飾りつけが出来ず……人手が欲しくて、シオン様に頼ったのです」

「ああ、なるほど。そういうことでしたか」


 腰に腕を当てて得意げなアイリの説明に、シオンは頷く。確かに、豊穣祭前に試験が立て込んでいた。高等部の内容に追いつくため、カフェの準備の手伝いが出来なかったというのも納得だ。

 ハンナたちが自分を頼ってくれたことにくすぐったさを覚えながら、シオンは店内に入る2人に着いていく。


「今日はお店を閉めているから、ゆっくりでも大丈夫だよ。ウチは慣れてるから外をやってくるね。ここはハンナとシオン様に任せるよ」

「分かった。アイリ、去年みたいに転んだりしないようにね」

「う、うるさいっ、分かってるってば!」


 アイリはカウンターに用意されていた飾りつけの道具を抱えて、いそいそと外へ回った。初めて来る場所に萎縮してしまうシオンは、なんとなくその後ろ姿を眺める。

 楽しそうに揺れるアイリのポニーテールを見て、心に浮かんだのは、緋色のシュシュでまとめたアカネのツインテールだった。


「シオン様。私たちは、中の飾りつけをします」

「あっ、は、はい。ええと、私は何をすれば……」

「今から私が例を見せるので、その通りにやってもらえれば――んしょっと」

 

 ハンナの指示は分かりやすく、シオンの要領も良かったこともあり、カフェ店内の装飾はどんどん進んでいった。外の装飾が終わったアイリと合流し、早々に作業が終わってしまう。

 人手が足りない、という割には2人でさえ多いと思えるほど、シンプルな飾りつけだった。


「シオン様、お疲れさまでした。良ければ、お茶していきませんか?今、ちょうど貸し切りですから」

「はい。そうさせてもらいますね」

「え!?ほんと!?シオン様とお茶出来るの嬉しい!」


 腑に落ちない部分もあったが、普段しない作業をして少し気分が明るくなったシオンは、カウンターの奥へ向かったハンナをアイリと待つことにした。以前の自分なら断っていただろう、と苦笑する。

 アイリは「ウチあれがいー!」とハンナに呼びかけていて、表情を見られていなかったことに少しほっとした。ほどなくして3人分の紅茶とお茶菓子を持ってきたハンナを加え、3人でテーブルを囲う。貸し切りだから、とアイリのお気に入りのカウンターの傍の席を選んだ。


「……アイリさんの親戚のお店、ですよね?」

「ああ、そうですね。でもここの手伝いはアイリよりも私の方が得意なんですよ」

「ちょっと!変なことばらさないでよっ」


 見事な給仕をしてみせたハンナに感心して尋ねたシオンに、ハンナが目を細めた。なるほど、アイリがカップを運んだら、頻繁に割ってしまいそうだ。


「今、ウチが運んだら割るかもとか考えたよねシオン様」

「――いっ、いえ?別にそんなことは考えていませんよ」

「ほんとかなぁ」


 学院ではアカネと話しに来るクラスメイトたちに囲まれて、そういえば2人とゆっくり話すのは久しぶりだ、とカップの中、揺れる赤い水面に思う。香り立つ湯気に鼻をくすぐられ、気持ちが和らぐようだ。

 ――アカネも、一緒だったら。


「……シオン様。思ったよりも、元気そうで安心しました」

「えっ」


 唐突にそう切り出したハンナに思わず困惑を浮かべたシオンだが、続くアイリの言葉で悟ってしまった。


「なんか最近、シオン様元気なさそうだったからさ。少しは気分転換になればいいかなって思って。でも、ハンナの言う通り安心したよ」


 シオンを誘った時のアイリのあの表情。あれは、シオンを気遣ってのものだったのだ。2人に心配をかけてしまった。一度目はロッテに詰問された時。2度目は。

 アカネの才能だけを見ていた自分が、恥ずかしくなって、許せなくて、それでもアカネを求めそうになるこの心を、どうすればいいか分からなくて。


(ああ、私は、アカネを避けていたのかもしれませんね)


 自分はアカネの隣にいる資格はない、と賢しく振る舞って身を引いていたつもりだった。もうアカネの傍にはほかの生徒がいるから、と。けれど本当は、自分がどうしたいか分からなくて、避けていただけなのだろう。


「……お二人に、相談が、あるのですが」


 シオンのその言葉に、2人は目を見開いていた。

 驚愕はすぐに収まり、ぎぃ、と椅子が引かれる。アイリとハンナが、シオンの傍に近づいて、微笑んだ。


「私たちでよければ、なんでも聞きますよ」


 ハンナの声に、シオンは今まで自分でも考えないようにしていたことを整理するようにぽつり、ぽつりと言葉を零し始めるのだった。


「……私は、アカネの傍に居る資格がないのです」


 唐突に切り出したシオンの言葉にハンナとアイリは顔を見合わせたが、そこで聞き返すことはせずにシオンの続きを待った。やや俯き、手の平を見つめて話すシオンには、それが見えなかった。


「ミドリ先生のことを初めて知った時、あんなにすごい大人の女性がとても素敵で、憧れました。魔法の腕も、教師としての評判も。中等部に居た頃の私は夢中になって――多分、あれは恋慕だったのだと、今は思っています」


 シオンは大切な思い出を覗いているのか、口もとには穏やかな色が見える。

 けれど、その色はすぐに薄くなってしまった。


「それからの私は、ミドリ先生の隣に立って恥ずかしくないように、ミドリ先生を目指して、何もかも捨てて努力してきました――アカネに、出会うまでは。アカネの魔法を知って、それで、心を奪われて。アカネを傷つけて、そして」


 ――友人になって。


「……アカネを好ましく思う私の心が、アカネに惹かれているこの気持ちが、でも、ミドリ先生の時と同じように、単に才能があるという理由だったんじゃないか、と。そう、思ってしまったんです」


 一度その考えが浮上してから、シオンにはそれを否定しきることが出来なかった。そうじゃないと思うのは簡単だ。けれど、事実としてシオンはアカネの才能に嫉妬して、そして魅了された。

 だから、アカネが仮に他の誰かであっても、才能さえあれば自分は同じ行動を取ったのではないかと。


「私は、アカネを見ていない。アカネの、才能を、見ていたんです」


 片腕を抱いて、顔を歪めるシオンの声が、カフェに響く。豊穣祭の前日というのに、いやに静かな街。

 ハンナとアイリは何も言わずに、シオンの話に耳を傾けていた。


「だから、私には、アカネの友人になる資格は――隣に居る資格は、ないんです」


 シオンすら気づいていない言外の気持ちに、シオンとアカネを一番近くで見ていた2人は気づいた。けれど、それは。

 2人は席を立ち、シオンへと近づいて、そっと、肩を抱いた。


「……ぇ」


 ――そう、それはシオンが自分で気づかなければいけないことだから。


「シオン様、貴方はとても優しい人です。同時に、とても不器用な人」

「言っても難しいかもしれないけど、もっと肩の力を抜いて考えてもいいんだよ。たとえば――アカネ様と同じくらい才能がある風紀委員長。あの人には、アカネ様のと同じ気持ちを持ったことはある?」

「――風紀委員長、ですか」


 学院の風紀委員は中等部と高等部で1つの委員会となっている。したがって、ここで言う風紀委員長とは1人を指していて、集会やら講演やらで目にする機会は多い。

 ここ数年で最も優れた風紀委員と名高いそこの委員長。カリスマ性に溢れたやり手で、魔法の腕ならばミドリ先生にも引けを取らない。

 シオンも、一度その魔法を目にして感化されたことがある。


「……あの人の魔法は確かにすごいですが、アカネと同じ気持ちというのは」

「それは、シオン様の中にあるもの、ですよ」

「私の、中」


 想像する。

 自分と風紀委員長が同じ試験を受ける。その才能を目の当たりにする。

 あの時のアカネに抱いた、胸の高鳴りを、感じるだろうか。


「……感じ、ない」


 確かに風紀委員長は凄い。目標にすべき人物であるだろう。

 それでも、アカネや、あるいはミドリ先生に抱いたような好ましさは――ああなぜだろう、湧いてこなくて。


「シオン様。いきなりは難しいかもしれません。だから、今はとりあえず、アカネ様と何をしたいか、考えてみるのはどうでしょう?」

「うんうん。一番最初に、やっぱり一緒に居たくないって思ったならそれもシオン様の気持ちだし、他にあったなら、それも大事なシオン様の気持ちだよ」

「アカネと、何をしたいか……」


 ハンナとアイリ、2人の体温が、詰まりそうになる言葉をほぐして、シオンに語らせてくれる。脳裏に思い浮かべたアカネの最初の顔は、寮で一緒に暮らし始めた頃によく見た――笑顔、だった。


『ねえ、シオン。一緒に行こうよ』


「……私は、アカネと、一緒に豊穣祭に、行きたいです」


 ああ、そうか。

 私は、アカネと行きたかったのか、と。


「なら、それをしましょう。帰ったら、アカネ様を誘ってあげてください」

「で、でも既にアカネに誘われていて」

「それで、シオン様はなんて応えたんですか?」

「他の、方と一緒でなくて良いのですか、と。それから……私などで構わないのなら、と」

「――なら、」


 そこで言葉を切ったハンナと、彼女に続きアイリもそっと腕を離し、シオンと向き合う。そっと目を細めて、口を綻ばせて、ハンナは続けた。


「なら今度は、『一緒に行きたい』と、そう応えましょう」


 その言葉は意外なほどすんなり自分の心に落ち、しみ込んでいく。アカネの隣に居るべきではない、その資格がないと首を横に振っていた自分が、本当にしたかったこと。

 それが、「一緒に行きたい」と、そう告げることなのだろうか。


「……私で、いいのでしょうか」

「大丈夫だよ。だってシオン様にはウチらがついてるんだから。そのウチらが保証する!」

「保証って、アイリは適当なことを。でも、そうですね。私も、何も心配することはないと思いますよ」


 シオンには2人の自信がどこから来ているのか、分からない。

 今のアカネには、シオンよりも付き合いやすいクラスメイトたちが沢山いるのに。

 だから、たった1つだけ分かっていることを、信じてみることにした。


「ありがとう、ございます。ハンナさん。アイリさん。私の背中を押してくれて――友人で、居てくれて」


 それは、が、自分に寄り添ってくれているということ。


「……ね、ねぇハンナ」

「黙って。私も今震えてるの」

「あ、あの……私、何かしてしまいましたか?」


 シオンは素直に2人に感謝を告げたつもりだったが、彼女たちが突然狼狽し始めて不安が込み上げてくる。


「い、いえ!大丈夫です!」

「う、うん!ええとその、シオン様!」

「は、はいっ?」


 勢いに任せて、といった具合にアイリが一歩近づき、それに続いてハンナも歩み寄る。2人に片手ずつ、ぎゅっと握られたシオンは困惑の表情を浮かべたが、


「友だちとして応援してるからね!何かあったらまたいつでも相談して!」

「……ぁ」


 はにかんだアイリの熱に、すとん、と胸のつかえがとれた気がした。



~~~



 2人に別れを告げたシオンは1人、寮への道を急いだ。カフェの店じまいがあるとかで、帰る方向は同じだったが、1人の帰路。いつか遅刻した時よりもずっと必死になって、シオンは走っていた。

 髪は乱れ、運動着から着替えた制服は風に揺れ、鞄の中身はひっくり返って。


「はっ、はっ、はっ……アカネっ」


 それだけ、伝えたいと思った言葉が、あったから。

 寮の正面玄関から駆けこんで、いつもなら一言二言交わす寮長との会話も会釈で済ませたシオンは転がり込むようにして自室へ向かった。階段を駆け上がるシオンだったが、ちょうど2階の角を曲がろうとしたところで、「あっ!?」人影が見えて、慌てて減速する。

危うく誰かとぶつかるところだった。


「し、シオン様?」

「あ、え、えっと……はぁ、はぁ……んんっ。ろ、ロッテさん。こんにちは」

「は、はぁ。何かあったんですか?」

「い、いえ。ただ、ちょっと……その、急いでいただけで」

「そうですか。気を付けてくださいね」


 いつにも増して冷たい表情を浮かべた誰か――ロッテに頭を下げたシオンは、後悔の念に駆られた。いくら急いでいたとはいえ、寮内で走るのはいただけなかった。ロッテにも、恥ずかしいところを見られてしまったし。

 そこで、シオンはふと気が付く。


「そういえば、ロッテさんはなんでここに……」


 そこからは歩いて部屋に向かったシオンは、なんとなく気になりながらも頭を振って気持ちを整理した。今は、アカネに伝えたい言葉を、大切にしたい。

 一度深呼吸をしてから、自分の、そしてアカネのものでもある寮の部屋の扉を、開いて。


「あれ、ロッテさん、忘れ物?」

「……ぁ」


 アカネと、目が合った。


「あっ、し、シオンか……って、大丈夫!?なんかすっごい、その、乱れて……何かあったの!?」

「あ、い、いえ。すみません。その、走って、帰ってきたので」

「走って!?」

「そ、そんなに驚くことですか?」

「い、いやだってシオンってばわたしが寝坊しちゃった時も背筋をピンって感じで準備してるから……走ってるイメージが湧かなくて」

「……私も走る時くらいありますし、寝坊はアカネが悪いのですよ」

「――あははっ」

「……ふふっ」


 アカネが座っていた対面に座ったシオンは、アカネの嬉しそうな表情に気が付いた。息を整えるのと、後悔を何とかするので忙しかったシオンはそれでようやく、アカネと自然に話せていることに思い至る。

 シオンが、一番好きなアカネの顔。


「なんか、久しぶりだねこういうの」

「……そう、ですね」

「最近、シオン、元気がなかったみたいで。ちょっと心配してたんだ」

「えっ」


 テーブルに肘をつき、手のひらに顎を乗せたアカネが微笑む。

 ずきり、と胸が痛んだ。ハンナやアイリだけでなく、アカネにまで心配をかけていたのだ、と。


「――アカネ。心配をかけてすみません」

「いいんだよ、全然。一緒の部屋なんだし、友だちなんだから気にしないで」

「ありがとう、ございます」


 友だち、友人――アカネの口から自然と零れたその言葉に、シオンは唇を引き結んだ。彼女は純粋にそう思ってくれている。自分の一方的な感情でこれ以上余計な心配を、かけたくない。

 それに、今は伝えたい言葉があるから。


「アカネ。今朝、誘ってくれましたよね。豊穣祭。その――私も、アカネと一緒に行きたいです」

「――!シオンっ」


 ぱっ、と顔を輝かせたアカネは、ずりずりと床を這ってシオンの隣までやって来ると、正面から抱きついてきた。突然のことに目を回すシオンは、視界に飛び込んできたアカネの真っ赤な耳に、言葉を失う。

 息が苦しい――


「朝、なんか無理やりって感じになっちゃったから、そう言ってくれて嬉しい」

「……私も、すみません。朝は、その。でも――アカネと一緒に行きたくて。だから」

「うん。わたしも。シオンと一緒がいい」


 ハンナ達の温かさとはまた別の、この胸の底から感情が溢れて来るような熱。

 風紀委員長はもちろん、ミドリ先生にさえ、感じたことがないような。


「……実はね、さっきまでロッテさんとお茶をしてて。豊穣祭に誘われたんだけど、断ったんだ」

「えっ」


 廊下ですれ違ったロッテの表情が硬かったのは、ひょっとしてアカネに断られたからだろうか。


「無理強いは良くないって思ってたから、本当はね。シオンが帰ってきたら、豊穣祭、一緒に行かなくてもいいよって言うつもりだった。でも――ロッテさんに誘われた時、シオンの顔が浮かんだんだ」

「――アカネ」

「……ねえ、今日は久しぶりに、使ってもいい?」

「……ふふ。そうですね、私も。久しぶりに見たいです」


 アカネと同じ部屋になってから、寝る前にたびたび、あの時の焔の人形や水の人形を見せてくれることがあった。最近はシオンがアカネを避けていたから、その機会もなかったけれど。

 夕闇に飲まれた部屋を舞う2人の人形はこの日、アカネとシオンを模していて――緋色のシュシュと、空色の髪。


「アカネ。私を選んでくれて、その……」


 すみません、と出かかって、首を横に振った。


「ありがとうございます」

「うん。シオンも、わたしを誘ってくれてありがとね」


 ロッテには申し訳なかったが、シオンはアカネの弾む声色が嬉しかった。アカネの傍で、魔法を見られることが、何よりも。


(――あ、私。そう、だったのですね……初めから)


 アカネの隣に居てはいけない。

 その裏にはいつも、本当は傍に居たいという気持ちが隠れていたのだ。厳しすぎるほどに自分を律してきたシオンには、自分の気持ちに素直になる経験が、足りな過ぎた。

 まだ、アカネへの気持ちの答えは出ていないけれど。


「豊穣祭、楽しみにしています」


 明日の振る舞い方は、分かった気がしたのだった。



 私は、当時の自分が思っていたものとは異なる意味で、愚かだった。

 豊穣祭をアカネと一緒に回った日、アカネに手を引かれて様々な出店を楽しんだ。心の底からはしゃいでいる様子のアカネにつられて、私もよく笑ったのを覚えている。その声、仕草、表情。

 出店の料理のソースがアカネの鼻についていて、そっと指でとってあげたり。舞いの舞台を一緒に見たり、劇の鑑賞もした。その日、なんて関係ない、アカネの素の表情を沢山知ることが出来た。

 私は、もうとっくにアカネのことを好いていたのだ。

 そんなことに気づきもせず、離れたくないのに距離を取ろうとしていたことが、愚かだったと思う。一緒に居たくても、どんなに願っても、傍に居られなくなる日が来るとも知らずに。

 高等部最初の豊穣祭は、今でも夢で見るくらい、最高の1日だった。



 ――1日中歩き回って、最高に楽しかった豊穣祭が終わる。


「ちょっとはしゃぎすぎでしたかね」

「ううん、これくらいでいいんだよ。だって今日は楽しもうって日でしょ?」

「それも、そうですね」


 出店が撤収するギリギリまで街を散策していたからか、すっかり陽も落ちて人通りも少なくなってきた。日中は人が多いからと、はぐれないようにアカネに手を引かれていたが、もうその必要はない。

 ちょっと、寂しいかも、なんて――


(わ、私は何を考えて……って、ええ!?)


 シオンはきゅむっ、と右手を包まれる感触にぎょっとして隣を見やった。シュシュと同じくらい朱に染めた頬が、そこにはあって。

 いつもなら目が合う距離で、視線が重ならなくて。


「……迷ったら、困るからね」

「……そ、そうですね」


 分からない、分からないけれど。 

 日中のと、今のは、どこか、意味が違っている気がして。そのことに、どうしようもなく胸が高鳴って、鼓動が耳を叩いてくる。

 喉が渇いて、瞬きが増えて、歩き方も忘れそうになって。


「ねえシオン、今日は久しぶりに、その……一緒のベッドで寝てもいい?」

「ふふ。いいですよ」


 アカネの声が、愛おしい。

 ああ、そうか、と。

 魔法の才能も、笑顔も、声も、性格も、ともにいる時間も。



 シオンは、もう既にアカネのことがどうしようもないくらい、好きだったのだ。



※※※



 私は本を読みながら、そっと唇に触れた。

 そこにはもう、熱など残っていないと言うのに、指先は微かに、あの時の色を帯びていた。



※※※



 入浴と食事と歯磨きと、指折り数えて寝支度を済ませたシオンとアカネは、ベッドに並んで腰かけていた。部屋の灯りは消してある。暗闇に包まれた部屋は、いつかの日を想起させる。

 豊穣祭の後、カーテンを開けて窓の向こうを覗けば、街には点々と灯りが散らばっている。曇り空の日の、星々のようだった。前日、祭りの前はもう少しにぎわっていたが、みな祭りの後の余韻に静かに浸っているのだろう。


「……そろそろ、寝ようか」

「そうですね」


 2人はその日のこと、それまでのことを、囁きあっていた。アカネも、シオンにとっても、宵の闇に言葉を落すのはいつも、1人だったから。こうして誰かとその時間を共有するのは、新鮮で、温かくて。

 その熱はきっと、触れ合う肩のせいもあるんだろうけれど。


「おやすみ、シオン」

「アカネも。おやすみなさい」


 シオンがこの部屋に来ておよそ1か月。寮長さんが運んできたシオン用のベッドは空っぽ。今日は、アカネのベッドに来ている。特別な何かが交わされたわけでは、きっとない。ただ、お互いに今日は、近くに居たかっただけ。

 一度全てを失った少女と、全てを捨ててきた少女が、求めた繋がり。


「久しぶりだね、こういうの」

「そうですね。私のベッドが来るまでは、1週間くらいは同衾していましたが……」

「ちょ、ちょっとっ。なんか、ど、同衾って言い方……?」

「――ほ、他に適切な言葉が見つからなくて。添い寝、ではないでしょう!?だって背中合わせですし」

「……添い寝、したいの?」


 アカネの言葉に、シオンは舌が迷子になってしまう。

 豊穣祭の帰り、繋いだ手の感触。湧き上がって来たアカネが好きだという気持ちをどうすればいいか惑うシオンにとって、アカネのその言葉はシオンの時間を止めるには十分すぎた。

 添い寝ということはやはり向き合うべきだろうか。腕枕、とやらをすべきなのか?それとも自分がアカネの背中を抱きしめるべきなのか。

 ええいままよ、とシオンは勢いに任せて「向き合う」を選び、寝返りを打ったが、


「あ、あか――んむっ」

「しお――むぐっ」


 奇しくもアカネと全く同時に寝返りを打ってしまったらしい。しかもシオンの勢いは「寝返り」というよりも「回転」に近いもので、つまり。

 つまり、顔が。


(く、くちびるが――熱い?柔らかくて、これは)


 ちゅむっ、と。

 弾力のある湿った音が微かに割れて、シオンは熱が遠のいて行くのが分かった。


「……しししし」

「あ、なお、えっと」


 全身が強張って、顔が溶けそうなくらい熱い、熱い。

 シオンは壊れた時計のように口を開閉するアカネの唇を凝視した――さっきまで、自分の唇が触れていた場所を。それから、自分の唇に指を添える。まだ残っているような気がする、その感触。


「――お、おやすみなさい!」


 慌ててアカネに背を向けたシオンは、膝を抱いて、身体の震えを誤魔化すように丸くなった。気を抜けば、じたばたと暴れてしまいそうだったから。

 どうして――!?


(なんでよりにもよってこんなタイミングで、その、き、ききき……!)


 シオンの一番長い夜は、こうして幕を開けたのだった。

 翌朝、いつの間に眠っていたのか、微睡から覚めたシオンはアカネの目の下にくまが出来ているのを見て、悶々とするのだが、それは別の話。



 ――それから、後日シオンからこの夜の話を聞いたハンナとアイリが豊穣祭前日のシオンとかけ離れた悩みを前に複雑な表情を浮かべるのだが、これも別の話だ。

 これを書いている私でさえ、あの時の自分は我ながら初々しいと思うくらいなのだから。

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