ソレカラのコイガタリ
貴方と隣あう速度で
反射的にむしり取ってから、シュシュを掴んだその手の行き場に惑う。アカネ、貴方の顔を、声を、笑顔を思い出した。
それなのに、貴方との思い出も、貴方とのそれからも、私はまだ何一つ覚えていない。覚えていないことが、こんなにも痛くて、張り裂けそうな想いに声にならない声を上げてうずくまった。どうしようもない。シュシュを投げ捨てたところで、それで痛むのは私の心だ。
「本」の中のアカネが身に着けていたシュシュと、私が教員になってからつけるようになったこの緋色のシュシュとが、一体どんな関係なのかさえも、私には分からない。
「……でも、これはきっと私が過ごした日々の記録、なのでしょう」
書いたことも、過ごしたことも、まるで覚えていない。
読んだけれど、この本の内容との距離感が未だにつかめない。それでも、確かに、これは
「でなければ、この――アカネの、貴方の顔は、何なのですか」
そう、脳裏に浮かぶ愛しい表情。
それが、すべてを物語っている気がしてならない。
「読まな、ければ」
読む前とは異なる理由で震える指先で、私はなおページをめくる。そこに何があるのか、確かめるのが怖い。
だって、もし――。
アカネが既に、この世にいなかったら?
「……だめです。そんな、読まないと」
その先に、何が待っていようとも。
※※※
今思えば、私はあの時アカネに救われていたのだろう。決して届かない場所に、それでもと手を伸ばし続けていた私に、アカネがかけてくれた言葉。
『シオンさんのようになりたい――』
ミドリ先生に並んで歩くことが出来るアカネから認められた瞬間、私はミドリ先生にそう言ってもらったような、そんな気分にさえなったのかもしれない。あるいは、嫉妬するほどに認めていた相手から理想に思われていたから。
だから、もしアカネへの気持ちの変化があったとして、それは魔法への一目惚れよりも、貰った言葉に揺れたその時がきっかけだったのだろう。
なんて、今だから書けることだ。
当時の私は、友情とそうではない気持ちとに揺れる自分の心に、再び昏い影を見つけてしまった。
私が貴方に惹かれたのは、その才能があったからなのだろうか、と。
――シオンがアカネの部屋を訪れた日から1週間が経った。
結局アカネのベッドで眠ってしまったシオンは、その後ハンナとアイリの部屋に向かい今後のことを話しあった。その結果、今こうしてアカネと共に学院に通学出来ている。しかし、それに至るにはそれまでのシオンの信念にもとるあることが必要になった。
事の発端は、シオンの来訪から一夜明けた朝。ハンナとアイリがアカネの部屋を訪れてきた時点に遡る。
「……朝早くにすみません、アカネ様。同じクラスのハンナと言います。今、入っても大丈夫でしょうか?」
シオンはかろうじて耳が捉えたその声で目が覚めた。微睡みの中にあるシオンにとってはただの物音にしか聞こえていない、誰かの声。
薄目のシオンは状況を確認する。自室のベッドよりも柔らかな材質、いつもよりも少し高い天井、広さも、においも、何もかも違う。
困惑しながら身体を横に傾けると、
「……ん」
「――えっ」
目の前に、アカネが居た。
すやすやと寝息を立て、シオンの右手をきゅ、と掴んで離さない。あと少し動いたら額がくっついてしまいそうな距離に、学院の天才がいる。胸中に湧き上がってきたのはけれど、心地よい充足感で、それでシオンははっきりした。
「……友だちに、なったのでしたね。アカネ」
親しみを込めて呼んだその名が、自分の声が、耳に響く温かさにシオンは目を細めた。それから、すっ、と近づいて額をくっつけて、アカネの顔に垂れたその黒い髪を優しく払う。
人生は何があるか分からないものですね、と内心で呟くシオンだったが。
「……シオン様、いったい一晩で何があったの?」
「ちょっ、ちょっとアイリ!もう少し様子を……あっ」
部屋の入り口から聞こえてきた話声に、背中に冷水を掛けられたみたいに、血の気が引くのが分かった。身体を動かさないまま、首だけ少し傾けて視界をずらす。その端に映る制服姿の生徒2人。
ボブカットの揺らめきと、ポニーテールのはためきと。
「……おはようございます。ハンナさん。アイリさん」
シオンは2人にアカネを撫でていたのを見られたと分かるや、さっと身を起こし、乱れた服装を整え――アカネの部屋を訪れた時の服だったから、まだ制服のままだ――何事もなかったかのように澄ました顔で目礼した。そこに居たのは、教室でのシオンその人である。
朱色に染まった頬と、ぷるぷる震える指先とが、普段と乖離していたけれど。
「アイリ!シオン様の前ではさっきの、なかったことして」
「う、うん。分かった」
2人はこそこそと話しているつもりらしいが、朝の静かな時間、寮のそれほど広くない部屋だ。ほぼ聞こえていた。
しかし、とシオンは顎に手を当てる。確かにアカネに触れている所を見られて恥ずかしくはあったが、このままなかったことにしてしまったら、それは、アカネがくれた言葉を、気持ちを、無下にすることになるのではないか、と。
それにシオンは、今や言い訳も出来ないほど、この気持ちを――友情を、離したくなくなっていた。
「……すみません。昨晩、アカネさんとお話をしたのです。それで、正式に友人に、なることになって……それで」
「――嬉しかったんですか?」
「ちょっとハンナ!?なかったことにしてって」
「言ったけど、でも……」
「アイリさん、すみません。ハンナさんも。たぶん、その通り、だと……いえ、その通りです。私は、友人など要らないと、思っていましたが」
シオンの言外に含む思いと、その微笑に察する所のあった2人はただ、静かにうなずいて見せた。それが少しおかしくて、シオンはくすりと笑みをこぼしてしまう。
つられたようにハンナとアイリも吹きだして、和やかな雰囲気に包まれた所で、シオンの袖が引かれた。
「……し、シオン」
「――!アカネ」
その声の震えから、シオンは悟った。アカネは恐らく、ハンナとアイリのことを知らない。正確に言うなら、あの試験の後もアカネに好意的な生徒がシオン以外にいることを、知らない。
このままではアカネをまた傷つけてしまう。そう考えたシオンは、けれど、どうすればいいか分からなくて。声だけでなく、手も震えているのが分かったから、ただ、その心に寄り添いたくて、シオンはアカネを抱きしめた。
突然肩に腕を回されたアカネは困惑したようだが、シオンがハンナたちの視線を遮ったおかげもあって、落ち着いたようだ。
「大丈夫です。この2人はハンナとアイリ。私と同じです。アカネの魔法に魅せられた人たちですよ」
「え……」
教室で見るアカネと随分様子の違うことに何かを感じたのか、ハンナたちは穏やかな声で続いた。
「はい。アカネ様。突然すみません。私たちも、あの時のアカネ様の魔法、本当に素晴らしいと思っています」
「うんうん!それに、アカネ様は、ウチらが大好きなシオン様が大好きな人だもんね!ウチらもアカネ様の味方だから安心して!」
そう、だから心配しないで――今、なんと?
「……シオン、わたしのことがだいす」
「い、いやっ、これは違うんです!ええと、つまり……あ、アイリさん!!」
「――違うの?」
「あ、えっと……そっ、尊敬は、してます。魔法のすばらしさとか」
アイリの発言に咄嗟に出た否定に、アカネは悲しそうに眉を下げた。その表情に慌てたシオンは何とか取り繕ったが、アイリの言う「大好き」に代わる言葉を、シオンはすぐには思いつけなかった。
好きか嫌いかで言えば、好きではあるが、その2択に頼らずに好きだと言えるかは分からない。ミドリ先生に抱いていた感情は、自分でも憧れと恋慕の表裏一体となったものだと、自覚しているが――アカネに対しては?
友情のもとに誤魔化した昨晩の動揺を、この場では尊敬と、そうシオンは表現した。
「ん……わたしも、シオンのこと尊敬してる」
「え、ええ……ありがとうございます」
寝起きということもあって、微笑むアカネの顔は弱々しく見えたが、学院にやって来た日やここ最近の痛々しさの取れた温かな色をしていた。
「あの……ウチらのこと忘れてない?」
「あっ」
「……突然来てしまってすみません。驚かせてしまったみたいで」
「あ、ううん。わたしは、うん……もう大丈夫。ええと、こっちこそごめんね?こんな格好で。ハンナさんと、アイリさん?」
「いえ、約束もせず訪れたのはこちらですから――少し退出した方がいいですか?」
寝間着に選んだ薄い肌着のままのアカネに配慮した発言だったが、アカネは首を横に振って、上から1枚上着を羽織った。制服ではないが、これなら問題ないだろう、と。
シオンの説明や、ハンナとアイリの態度に敵意を感じなかったのか、アカネの震えが収まっていて、シオンは心底安堵した。同時に、腕の中からアカネが離れてしまって、少し寂しい気もして。
「ハンナさん、何か用事があったのではないですか?」
アカネも落ち着いた所で、シオンは気を紛らわせたくて、ハンナに話を振る。ベッドに腰かける2人と、床に座ったハンナとアイリ。少し前までの和やかな雰囲気はいずこへ、どこか神妙な面持ちでハンナは口を開いた。
「まさかここにシオン様がいるとは想定外でしたが、アカネ様と話したいことがあって来たのです。シオン様が居てくれて、むしろ助かりました」
「わたしに話したいこと?」
「はい。アカネ様の試験を見たクラスメイト達のこと、です」
「――っ」
アカネの強張った肩を見たシオンは、そっとアカネの手を握る。強く返された力に、信頼を感じて、シオンは思う。
ハンナはどうしてこの話を直接アカネにしたのだろう。
「もともとは、シオン様が昨晩ここに来たでしょうから、私たちもアカネ様の味方であると、伝えに来ただけのつもりでした」
「でも、それはさっき伝えたから……ハンナは他にまだあるってこと?」
「うん。本当は、それだけのつもりだったんだけど……お二人が、友人になったと聞いて、やはりクラスメイト達のアカネ様への態度を放置しておくわけにはいかないと――そう思いました」
シオンはその言葉でようやく気が付く。
このままではアカネは穏やかな学院生活を送ることが出来ないし、何より再び登校するのも難しいかもしれない。仮にシオンがアカネの傍について回りの目線から守るとしても、それが
――など、ハンナやアイリ、アカネと心を通わせる前には気づくことすらできなかったかもしれない。
「……仕方ないよ。王国の皆にとって、設計図に頼らない魔法がどれだけ受け入れがたいか、わたしはちゃんと分かってるつもりだったのに。それでもわたしが、わたしの、せいだから」
「でもウチは、なんか薄情過ぎない皆、って思うけど。アカネ様のこと、あんなに慕ってたのにさ。急に態度を変えて……」
「私も、ある程度は同意見ではありますが……シオン様や私たちが、学院や王国の常識にとって例外的なだけ、なのでしょうね」
「では、ミドリ先生を頼るのはどうでしょうか。先生の言うことなら、皆も聞くかもしれませんし」
シオンの言葉に最初に反応したのは、アカネだった。
「それは、あまり賛成できない、かも。ミドリちゃ――えっと、ミドリ先生はわたしにとてもよくしてくれて。自由な魔法を使っちゃった日も、わざわざ寮まで来てくれたんだ。その時、言われた。わたしの味方で居てくれるけど、立場として出来ないことも多くてごめんなさいって――泣いてたんだ」
少し前のシオンなら、自分の知らないミドリ先生の一面を知るアカネに対して思うところがあっただろう。けれど今、彼女が生徒の為に、言ってしまえば、常識はずれのことをした生徒の為に、涙を流して謝っていたという話を聞いて、胸の奥がツン、と痛んだ。
それはアカネへの嫉妬ではなく、生徒を想うミドリ先生への思慕とも違う。自分ではままならない学院の、社会の構造的な問題の前に声を震わせたミドリ先生の痛みが、分かってしまうが故の。
シオンも、常識から外れる魔法を志したことがあったから。
「そうだったのですか……そしたら、無理は、言えませんね」
「うーん……ねえ、いっそ普通にシオン様とアカネ様、一緒に登校するのはどう?」
「ちょっとアイリ?それが問題を増やしてしまうかもしれないって」
「うん、だからさ。アカネ様のあの魔法が素晴らしかったって、ウチやハンナ、シオン様やミドリ先生が分かっていれば、他の人たちが分かっていなくてもいいんだよ。数十人の人の気持ちを変えるのは出来ないけど――1人なら出来るでしょ?」
アイリは人差し指を立ててそう説明したが、シオンもアカネもすぐにはピンと来なかったようだ。唯一、ハンナだけが深く思案をはじめ、「上手くいくかもしれません」と、そう呟いた。
得意げな表情になったアイリだったが、その中に罪悪感のようなもの見えて、シオンは首をかしげる。
「アイリ、つまりこういうことだよね……学院で一番の秀才のシオン様が、失敗してしまったアカネ様を導くっていうふうに、周りに見せる」
「うん。シオン様のあの魔法は、文句なしの最高の再現だったでしょ?だから、そのシオン様がアカネ様の腕を見込んで、また自由な魔法を使わないように一緒に勉強してる……っていう体にする、みたいな」
なるほど、とシオンは関心した。この短時間でよく思いつくものだ、と。
それならアカネへの風当たりもこれ以上悪化するのを防ぐことにつながるだろうし、何より学院で一緒にいる口実にもなる。シオンの評価を、「墜ちた天才を導く」という物語性とかけて利用するということだ。
けれど、それは。
「……嘘をつく、ということですか?」
「それは。すみません。そういうことになります」
ずっと、ミドリ先生を目指して来た。彼女ならば、どうしただろうかと常に考えて。
だからシオンにとって嘘をつくことは、ミドリ先生を、憧れを追って努力していた自分を、否定する行為でもあった。そして、
「シオン様が嘘をつくことを嫌っているのは、私も知っています。ですから、これは可能性の話として受け取ってください。他の方法を考えましょう」
ハンナも、アイリもまた、それを知っている。
アイリのあの表情は、シオンが嫌がると知っていたから、なのだろう。
「――わたしは、いいよ」
「えっ」
「わたしは、シオンと一緒に居られるなら嘘をついてもいい。それに嘘といっても、ここに居る皆やミドリ先生には、知っていてもらえるし。これは他の皆にとっては綺麗な物語で、わたしにとっては――優しい嘘だから」
それなのに、アカネは嬉しそうに笑ったのだ。
シオンの目を覗いて、頷くアカネは何を考えたのか、にやり、と口角を上げた。
「それに、学院の中ではシオンの事、これからは先生みたいに接していいんだよね?道を踏み外したわたしを助けたシオン様に、何でも従いますみたいな」
襟足を掻きながらおどけてみせたアカネに、ハンナもアイリも言葉を失っていた。それは明らかに、無理をしているように見えたから。
確かに無理をしているのかもしれない。でも、と。
「アカネ。学院に行った方がいい、とは私は思いません。昨日も言いましたが、これ以上貴方に傷ついて欲しくないから。だから、聞かせてください。アカネは、また学院に行きたいですか?」
「……わたしは」
そこで言葉を切ったアカネは、すっと立ち上がるとシオンから距離を取って、ハンナとアイリを含めた3人に相対する位置で、言った。
胸の前で握った拳は、震えていなくて。
「わたしは、行きたい。シオンと。ハンナさんやアイリさんもいるわたしの新しい居場所を、わたしの大好きな魔法を、常識なんてものに奪われたくないから」
それは、嘘偽りのないほんとうの気持ちだったから。
「……分かりました。アイリさんの案は、現実的だと思います。これなら、私も学院では今まで通り学院的に優秀な生徒としての努力を続けられます。アカネとも一緒に居られるし、昨日、あの場で何も言い返せなかった私には、いい役だと思います」
「シオン……ありがとう」
「お礼を言うのはこちらですよ。まだ、確実と決まったわけではないですから。一緒に来てくれて、ありがとうございます。アカネ」
アカネと共に学院に通うためには、という軸で話すならば最善かもしれない。だが、アカネのことを考えると、学院に行くことは必ずしも最善とはいえない。
シオンは、アカネがシオンのためを思って学院に行くことを選択するなら、他の方法を考えようと思っていた。けれど、アカネは言った。奪われたくないから、と。
そこにどれだけの思いがこもっているか、シオンにはまだ分からないけれど、分からなくても、支えることは出来るから。
「……決まり、ですね。ミドリ先生と内々に口裏合わせも必要でしょうから、とりあえず今日は休んでくださいね、アカネ様。それから、シオン様」
「なんでしょうか?」
「寮は本来2人一部屋なのですが、アカネ様の部屋には現在他の生徒が居ません」
「……はい?」
「シオン様、アカネ様の所に来る気はありますか?」
「ええ……!?」
――かくして、シオンはアカネと同じ寮に住むことになった。
ハンナたちとの作戦会議で、数日後登校した際にシオンがアカネを導く宣言をし、アカネも態度を入れ替えたように見せかけると、クラスには安堵の雰囲気が広がった。同じクラスに異端的な生徒がいることへの不安もあったろう、シオンの活躍を期待する声もあったろう。
けれど、アカネが戻ってきたことを素直に喜ぶ声もまた、あったのだ。
多くの生徒は、自由な魔法を使うことの非常識さにアカネを遠ざけていたにすぎず、アカネの人柄を気に入っていたようで、シオンと共に勉強に励むことにしたアカネを快く受け入れた。シオンもまた、そのようにふるまい、アカネはシオンを先生のように慕って見せた。
ミドリ先生の協力もあって、試験の魔法騒動はようやく落ち着いたかのように見えた。
――ただ1人、シオンを除いて。
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