初めてに心ほつれる

 シオンはあの教室での一件から、自分の中で何かが決定的に変わってしまったような気がするのに、それに気づけないでいた。自分の心の機微は分からなくても、やらなければいけないことは分かった。いや、知っていた。

 アカネに――天才に負けない、ために。


「よし」


 私は次の日から、いつもよりも1時間早く学校に行くことにした。そうすれば、クラスメイトたちがやって来るまでしばらくの間、静かな教室で自習できると思ったから。

 ミドリ先生に憧れて努力するようになった時も、同じだ。追いつくには、やるしかない。真面目なくらいが取り柄の自分には、そうするしかできないから。

 始業の半時間前、普段のシオンの登校時間でさえ人影はまばらだから、教室には一番早くついているだろうと思っていたシオンは、教室の中に見えた人影に肩が跳ねた。あの席、あの場所。


「アカネ……」


 口の中で呟いたシオンは、沸々と湧き上がる気持ちが何か分からなかったけれど、このまま突っ立っていてもしょうがないことだけは分かった。アカネと同じ空間に居なければいけないのは癪だったが、アカネを避けて空き教室までわざわざ向かうのは、もっと嫌だった。

 だから、アカネしかいない教室へと、入って。


「……」

「――あ」


 目が合ったけれど、挨拶はしない。

 淡々といつもの席に向かって、腰かけ、自習道具を出す。ものの数秒で用意を終えたシオンは、アカネをできるだけ意識から排して、勉強に取り掛かった。なんのための勉強だ、と自分を鼓舞して。

 だって、一番早く来ているのに、アカネは――あいつは。

 ただ、ぼんやりと窓の外を眺めているだけ、なんて。


(……なんで、)


 シオンは背中を撫でる熱が、アカネの視線なのか、ただアカネを意識し過ぎているだけなのか分からなかった。アカネとミドリ先生との関係も、アカネの思惑も、何も分からなかった。

 はっきりしていることは、追いつくためには、負けないためには――勝つためには、進むしかないということ。


「おはようございます、シオン様」

「ちょっと、今日も勉強頑張っているんだから邪魔しないようにしないと」

「そうだね」


 何が聞こえても、私は。



~~~



 昼休みがやって来た。

 どうせどこに行っても騒々しい、ならばこの席から動かなくていい、と。

 シオンは鞄から本を取り出し、顔にかかる髪を払って読書を始めた。昼食は簡単に済ませてある。昼休みは1時間ほどあるから、無駄には出来ない。

 嫌でも聞こえてくる教室の後方、アカネが居る場所は今日もにぎやかだった。アカネは先生の隣だけではなく、シオンが切り捨ててきた友人すらも持っていて、だから。だからシオンは、昏い嫉妬が膨れるのを意識して抑えなければ、と唇を噛んだ。

 いっそ溺れてしまえば楽だろうけれど、それをしてしまったら、憧れミドリ先生がさらに遠のいてしまう気がしたから。


「――あのさ」


 ふいにかけられたその声にも、けれどシオンは気づかない。

 周囲の声よりもうるさい、この胸中があったから。


「シオンさん、だよね」


 自分の名前を呼ぶ声がしてようやくシオンは顔を上げたが、その先に居た予想外の人物に目を見開いた。だって、この子は。

 そういえば学院にやってきてから、一度も話したことがなかったな、なんて。


「アカネさん」

「名前、覚えててくれたんだ」


 自然な動作でシオンの隣に腰かけたのは、アカネだった。あの日の沈鬱さはどこへ、アカネは穏やかな口調でシオンに微笑みかけている。この時はじめてアカネの顔をまともに見たシオンは、反射的に目を逸らした。

 浮かぶ、昏い言葉。


「――何の用ですか?」


 言外に籠ってしまった、「ほかに友人が居るのに」というニュアンスにアカネは気づいただろうか。気まずさを本の表紙を撫でて誤魔化しながら、シオンはアカネの言葉を待った。

 実際、彼女に話しかけられる理由が、ないと思ったから。


「あのね」


 それは唐突のことで、シオンは差し出された手の意味が全く理解できなかった。


「わたし、あなたと友だちになりたいんだ」


 その言葉に最初に反応したのは、シオンではなく、2人を少し離れた所から見守っていたクラスメイトの1人だった。「アカネ様がシオン様に……!」と、友人だろうか、隣の生徒と手を取り合ってはしゃいでいる。

 シオンは目の前のアカネを見るよりも、その子らを見る方がまだしも楽だった。数秒経ってから、返答をする代わりに本に視線を戻す。追いかける、越えなければいけない対象なのだ、アカネは。


「――どうして、私と?」

「そ、れは……」


 シオンは意趣返しのつもりで、突き放したように理由を聞いた。だからアカネの表情がふいに、あの日と同じように弱々しく歪むのが見えて、動揺してしまった。


「どうして、だろうね」

「……ぁ。いや、ええと、まあ――好きにしてください」


 咄嗟のことで反応が分からず、嫉妬したい相手のその弱々しいまなじりにそれ以上強く出ることも出来なかったシオンは、答えになっているのかいないのか、曖昧な返事を零した。本当は断りたかったけれど、今はクラスメイトの目もあるし。

 そこまで考えて、シオンは遅まきながら知る。


「良かった」


 安堵の表情を浮かべたアカネのその言葉は――「友だちになりたい」というその言葉は、シオンがとうの昔に捨てて、今では届かなくなってしまった言葉だ。

 それを、この天才アカネは。

 シオン様とアカネ様が友だちにっ、とはしゃぐクラスメイトの言葉を遠ざけたくて、シオンは文字に逃げた。意味を追えないその視線の往復を隠れ蓑にして。


(友だち、なんて。天才が私なんかに……何か思惑でもあるのでしょうか?)


 そう、そうだ。好きにすればいい、と。

 いずれにせよシオンは勝つために切り捨てる。だから、アカネとは友だちにはならない。


「……ふん」


 なら、断ればよかったのに。

 シオンは否と言えなかった自分が嫌で、ぐっ、と拳を握りしめた。結局アカネは、昼休みが終わるまでシオンの隣に静かに腰かけていたのだった。



 放課後、教室に残って勉強しようか迷ったシオンは、教室を出るのが遅れてしまう。昨日のことがあったし、なんだか居づらくて、


「今日は帰りましょうか」


 シオンは溜息と共に独り言ちたつもりだったが、伏せたままの顔に予期せぬ声が降って来た。


「じゃあ、一緒に帰ってもいい?」

「――え?」


 緋色のシュシュから垂れるツインテールを揺らして、アカネがこちらを上目遣いに見ている。同年代の平均身長よりもやや高いシオンと、そのシオンよりも拳2つほど背が低いアカネ。

 こうして隣に立って並んだことがなくて、見下ろす角度でももう穏やかな表情を認めることが出来て。その事に少しだけ揺れる心を煩わしく思いながら、シオンは眉をひそめた。


「どうして、私が貴方と?」

「どうしてって、だってほら、友だち」

「……はぁ。あれは、別に」


 シオンは自分でも自分が分からなくなった。

 昏い感情を向けている相手が、に何故か安堵している自分がいること。と、そう言われて跳ねた心があったこと。

 手綱を緩めれば理性を飲み込んでしまうだろう嫉妬があって、負けん気を鎧う理性があって。

 一緒になど帰れるものかと憤る自分と、初めて言われた言葉に戸惑う自分と。


「別に?」

「……一緒に帰るくらいはいいですが、話しかけてこないでください」

「ふふ、うん、いいよ、それで」


 その微笑が、気に入らない。

 私に声をかけてきた理由が、分からない。

 ――ミドリ先生の隣に居られる理由が、知りたい。


「……気に入らないですね」


 一歩後ろをついてくるアカネに聞こえないように、シオンは口の中で転がした。



~~~



 アカネに友だちになって欲しいと言われた日から、シオンの日常は一変した。

 いつも1人だったシオンの隣に、アカネがやって来るようになったのだ。一緒に帰った、と言っても気まずい沈黙が降りるだけの時間だったが――その時に約束した。

 話しかけてこないならいい、と。アカネはそれを守ってか、たったの一言も話しかけてくることはなかったが、それでも隣には居続けた。

 本を読んで、勉強をして、机に突っ伏して。

 シオンは極力アカネを意識の中に入れないようにしたが、むしろアカネの方がシオンを気にしていないようだった。じゃあ友だちになりたいとはなんだったのか、あの微笑みはなんだったのか。


「――貴方は」


 どうして、だったのか。

 それを聞くにはもう、シオンはアカネにかける声のほとんどを失ってしまっていた。だって、一言でも話しかけてしまったら。

 ――ああ、気に入らない、気に入らない!

 

(私はアカネが嫌いです。ミドリ先生の傍に、天才だからとあんな風に居られる貴方が、私は心の底から)


 嫌いで居させて欲しいから、話しかけたくなるように振る舞わないでくれ、と。


「シオン様とアカネ様、なんかめっちゃ絵になるよね~!」

「それ!お似合いって感じする……!2人とも静かな雰囲気だし」


 シオンは、誰と誰のことを言っているか分からない声に、そっと耳を塞いだのだった。



※※※



 手首をまじまじと見つめる。そこにあるシュシュの緋色に。

 脳裏に閃いた、踊るツインテールが、痛い。

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