負けたくなくて

 なぜかは分からない。気持ち悪かったから――それは、違う。

 それでも止まらない。心の中を空にするように、喉を締める。

 いつしか吐きやんで。見上げた先の鏡に、微笑んでみたくて。

 それがどうしても出来なくて、シオンはくつくつと喉を鳴らした。


「く、く、く……ははっ」


 何に、何を掻き乱されたのかさえ定かではない。はっきりしていることは、あの本のせいだということで、私は戻るのが少し怖くなった。

 それでも、振り返って、本へと進む。


「――アカネ」


 だって、その名前が、どうしてか狂おしいほどに。


「貴方は、誰なの……」


 強く、緋色を握った。



※※※



 アカネという転入生――時期外れのクラスメイトは、その日から注目の的だった。神秘的な雰囲気もさることながら、シオンも聞き入ったその声はなるほど確かに、人を惹きつける何かがあった。

 出身はどこか、得意な科目は何か、遅れていた理由は、その髪型素敵だね、と。

 雨のように降りしきったアカネへの歓迎の言葉たちは、新学年にようやく慣れてきた生徒たちの前に現れた新しい刺激への反応として、当然のものだった――が。


「……そうだね。わたしも、そう思う」

「うん。そうなの」

「あはは……」


 アカネは答えこそするものの、その全てが淡い返答だった。ほとんど自分のことを語らず、弱々しく反応するアカネに、次第にクラスメイトたちは距離を取っていった。転入から1週間が経つ頃には、挨拶こそすれど、話しかけにいく生徒は誰もいなくなっていた。

 クラスメイトの多くがアカネへの興味を失いかけていたこの数日、シオンだけが初日と同じ熱量で居続けた。反応が乏しく、声や雰囲気に何かを感じさせる以外、これと言った目立った特徴のない彼女が、なぜ。


(どうして、アカネさんがミドリ先生と――)


 その疑問が氷解するまでは、胸の底に横たわる嫉妬の巨影がいつまた鎌首をもたげるか、分からないから。いつもの席について、課題でも指示されたものでもない、ミドリ先生に近づくための勉強をしながら、シオンはアカネの様子を窺い続けた。

 シオンと、他のクラスメイトにとってのアカネという存在が一変したのは、その次の週のはじめだった。


「はい。では、予告していた通り、今日は実力試験です。皆、頑張ってね」


 ミドリ先生の号令で始まった、実力試験。

 シオンにとっては、ミドリ先生の目に着くため、追いつくため、好成績を何としてでも取らなければならない大事な試験。それなのに、この日も今にも消えそうな儚さを抱えたままのアカネが気になってしまう。

 首を振って雑念を消し、シオンは気持ちを切り替えて集中した。そうだ、アカネのことは忘れて――



 試験が終わり、返却の日がやってきた。

 学期の節目に行われる試験と異なり、学年が変わってすぐ実施されるこの実力試験はそこまで肩肘を張らずに受けられるものだったが、シオンにとって気楽でいい試験はなかった。緊張と不安と自信とで、喉が渇く。

 ミドリ先生は返却のために生徒たちの名前を呼んでいく。一喜一憂するクラスメイトたちを見ながら、シオンはまるで審判を待つかのような気分だった。ふと、アカネの様子が何となく気になってちら、と後ろを覗く。

 ミドリ先生からの返却、を強く思うあまり、あの日の2人の様子を思い出してしまったからだろうか。


「……やっぱり」


 アカネはこの日もなお、視線を下げたまま。表情を見ることが叶わず、つい、とアカネから視線を外した。あれは、転入初日のアカネを気遣ったミドリ先生の優しさだ。もう、アカネを気にする必要はない。

 シオンはそう結論すると、どこか胸のつかえがとれたような気分になった。そうだ、きっとそうに違いない。どうして今までその事に思い至らなかったのか。


「――シオンさん」

「はい!」


 だから、名前を呼ばれて教壇に向かうまでの足取りは軽やかだった。


「はい。よく頑張りましたね」

「ありがとうございます、ミドリ先生!その……」

「ん?どうしたの?」

「あっ、い、いえ。な、なんでもないです。ありがとうございます」


 ミドリ先生を前にして、言いたいことが溢れてくるのに上手く言葉にならなくて、高鳴る胸で息が詰まる。憧れの人を前にすると、いつもこうなってしまう。

 こんなんじゃ、近づけない――そう思うのだけれど、どうにも、ミドリ先生から褒めてもらうのが嬉しすぎて。だから、シオンは気づけなかった。

 アカネに答案を渡す時の、ミドリ先生の表情に。


「はい。では、皆さん。今回の試験は、なんと満点の子が2人も居ました」


 シオンはその言葉を聞いて狼狽した。

 そのうちの1人はシオンだった。そのこともあって、シオンはすっかり浮かれていたのだ。だが、もう1人いる、と。


「1人はシオン様だよね?じゃあ、あとは……」

「あんたは?結構成績良かったよな」

「違うよ!私、満点なんて取れない」


 多くが中等部から上がって来たため、クラスメイトたちはお互いの実力を知っている。シオンは中等部の頃からほとんどいつも満点かそれに近い成績だっため、周りからもシオンは確実という声が上がっていた。

 と認識するシオンの頭は、その意味まで理解することは出来なかった。ある可能性が思い浮かんでしまったから。


「じゃあ――」


 クラスメイトたちの視線もシオンと同じ結論に至ったのか、その生徒へと向かっていた。シオンだけが、机を睨んでいる。だって、見てしまったら、分かってしまうから。

 ミドリ先生が静かにするようにたしなめて声こそ低くなったものの、注がれる視線は一層強くなって。


「……もう1人って、もしかして」


 注目を浴びている当人はどこ吹く風、いつもの静かな雰囲気を崩さず、机に置いたままの答案を隠すことなく、沈黙を保っていた。周囲に誰も座っていないとはいえ、一つ前の列には当然何人かが腰かけている。

 そのうちの1人が、「あっ」と声を上げたことで疑いの視線たちが、一斉に確信に色を変えた。


「皆、ちゃんと話聞いてる?今から連絡事項があるから、はい、こっち向いてね」


 ミドリ先生以外の教員であれば生徒たちの注意を逸らすことは難しかったかもしれない。シオンほどではなにせよ、多くの生徒からミドリ先生は慕われている。そのミドリ先生に再三注意され、ぱらぱらと、生徒たちは視線を外していった。

 全員が落ち着いたとみて、ミドリ先生が話を始める中、最初から最後まで、机を、穴が開くほど凝視していたシオンただ1人が、ちらと振り返る。その視線の先に――


(アカネさん――貴方は)

 

 もう1人の満点、アカネが沈鬱な空気を携えて座っているのだった。

 ――実力試験を経て明らかになった、アカネの成績。 

 シオンは誰よりも観察していたから分かる。彼女は一切、勉強をしていなかった。いつも俯いて、何かを答える時も淡々としていて、授業を真面目に聞いているようにも思えない。

 外部からの転入ということもあって、学院のレベルに着いてこられるのか、とさえミドリが疑ったその彼女は。


「すごい!!アカネ!」


 天才、だった。



~~~



 少なくともシオンはやんごとなき出自ではない。ただ、他のクラスメイトの追随を許さぬ優秀さがあった。その流麗な髪、美しい所作、丁寧な物腰、纏う大人びた雰囲気。

 それら全てがミドリ先生を真似たものだったとしても、同年代の生徒たちから尊敬のまなざしを浴びるには十分すぎた。「様」というのも、密かに出来ているというシオンのファンクラブの会員たち発祥で、「確かにシオンさんにはぴったり」という理由でつけられた呼び名。

 シオンは自分を高めるために他の何もかもを犠牲にして――その中には、友人関係の構築も含まれていた。対等に話す相手を作ることをしてこなかったシオンは、したがってその事情を知ってはいても、否も応も言うことが出来なかった。

 ――が。


「アカネ様!すごいです!」

「なあ、アカネ、お前やべえよ!今度俺に勉強教えてくれよっ」

「ちょっと!抜け駆けはダメでしょ!」


 試験が終わってから、一部の生徒が恐る恐るアカネに話しかけたのだ。いつものぶっきらぼうと言ってしまえばそれまでのあっさりとした返答が来ると、誰もが思っていた。

 話しかけられたアカネは、多分初めて、顔を上げて。


「……ありがとう」


 波紋ひとつない深森の湖面のような声色が、温かく和らいだ。


「――ぁ」


 その声と微笑みに、話しかけた生徒は呆然と立ちつくしたが、アカネの様子を見ていた周りの生徒たちが次々とやって来た。あの話しかけにくい雰囲気はいずこへ、アカネは親し気に笑みを交わして、相変わらず静かではあるものの、角の取れた声で応える。

 かつて答えなかった質問にも――出自とか、得意科目とか――答えはじめたアカネは、あっという間に人気者になっていた。


「アカネ様、お昼ご飯一緒に食べない?」

「うん。いいよ」

「やった!」


 シオンはしかし、実力試験の結果を受けて内心の巨影が震える感覚に片腕を抱く。それは、それだけは思ってはいけないと自戒した気持ちが、少しずつ、溢れて来る。

 授業を重ね、関わりを重ねていくほどに誰もが理解していった。アカネは、天才だと。その度に、シオンは唇を噛んだ。シオンには簡単には届かない場所に、アカネは息をするように立ってのける。

 思っては、浮かべてはいけないと身体を強く抱くシオンだったが、ある時ついに限界を迎えた。


「――はは」


 下校時刻になってもなお、何かに憑りつかれたように教室に残って勉強をしていたシオンは、「また明日、シオン様」「ああ、今日もかっこいい……」周囲の声すら耳に入っていなかった。

 この日は特に、小テストで凡ミスをしてしまったため(アカネは満点だった)入念に復習をしていた。


「こんなんじゃ、私は」


 どれくらい机に向かっていただろうか。

 すっかり夜の帳が降りた教室の中、ようやく文字が見えにくくなっていることに気が付いたシオンは雑に帰り支度を済ませ、今しも席を立とうとしているところだった。


「アカネちゃん、だいぶ慣れてきたみたいだね」

「ふふ、そうですね。ミドリのおかげです」

「ちょっと、学校では先生って呼んでって」

「ああ、そうでした」


(――は?)


 教室へと向かってくる、2つの足音、2人の声。

 会話の内容が、意味を持ってほしくないその音の連なりが、胸を貫いて。


「――」

「……」


 その瞬間、外界の音がのっぺりと、凹凸を失ったような感覚が目元から全身へと広がった。とっさに身をかがめたシオンは、声が――音が遠ざかるまでじっと息を殺して潜んでいた。

 それから、もう何も聞こえなくなって。

 やがて、すすり泣く誰かの声が聞こえてきた。


「ああ、私か」


 妙に冷静な頭が判断を下したころ、暗闇の中でシオンは淡々と立ち上がる。


 ――その天才が、許せない。


(アカネ……)


 昏い嫉妬の塊を拳を握りしめてなんとか抑え込んだシオンは、視界がぼやけるまで顔をぐちゃぐちゃに歪めて、制服がしわくちゃになるのも構わず、空気を這いずるように滅茶苦茶に、走った。


「……負けたくないッ!!!!」


 憧れのための努力が、負けないための努力へと変わった瞬間だった。



※※※



 本から顔を上げた私は、深く息を吐く。

 飲み物を取りに向かって、その途中にある鏡の中の自分と目が合って気づいた。


「笑って、る……?」


 まだ本は、開かれたばかりであった。

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