忘れたくない出会い

 シオンにとってその春は忘れられない思い出となった。

 中等部から高等部へと進学するこの年、シオンは期待に胸を膨らませていたのだ。憧れの教員が、今年は担任だから。始まる前から何かを予感させた春の温かな風はけれど、シオンが望むものをもたらしはしなかった。それどころか。

 そう――この時の彼女にとっての最悪の出会いを。



~~~



 いつもなら始業の鐘が鳴る半時間前には教室に着き自習をするシオンはこの日、珍しく寝坊した。真面目が取り柄の自分がなんてことを、と大慌てで準備を済ませ、転がるように家を出たシオンは通学路を走った。

 新学期、新学年。

 高等部に入って1か月が経ち、気が緩んでいたか。あるいはこの1か月緊張し過ぎていたか。いずれにせよ遅刻してしまえば、シオンが自分を許せないから、必死に走った。

 このままいけば始業には間に合うが、朝の勉強時間が――


「いえ、いけませんね。過ぎたことはどうしようも、ありませんから」


 校門が見えてきて少し気分が落ち着いたシオンは、どうせこのまま走っても大して勉強はできないからと、歩くことにした。息を整えたかったし、この時間ならもう遅刻せずに済みそうだから。

 背筋を伸ばし、両手で持った鞄を身体の前で提げ、静かに足を繰る。意識を強く保って、呼吸のリズムにも気を遣う。

 いつからか所作のひとつひとつにさえこだわるようになった。憧れの人に近づくためならば、と多くのことを犠牲にして。


「――ぁっ」


 それはけれど、シオンにとって好ましい努力で、だから。

 校門へ向かう憧れの人――ミドリ先生の姿をその視界に捉えた瞬間、高揚と疑問が絡みあっていくのが分かった。先生に会えて嬉しい、なのに、隣にいるその子は誰ですか、と。

 ただ先生と生徒が一緒に歩いているだけならばシオンとて何も思わない。適度に離れたこの場所では会話の内容こそ聞こえてこなかったが、楽しそうに笑うその声が――見たことのないミドリ先生の表情と共に、ゆっくりと飛び込んできたから。


「なん、で」


 中等部の時に惹かれた、ミドリ先生の眩しいくらいの黒の長髪を真似て、伸ばした髪。腰まで届くその快晴の空のように伸びやかなシオンの髪はけれど、今のミドリ先生とは似つかない。

 肩で短くそろえたボブカットの先生の隣。両耳の上側でお団子にまとめた髪からすらりと垂れる、滝のようなツインテール。お団子をまとめた緋色のシュシュが学院の制服とのコントラストで夕焼けのように見えた。

 見たことのないその生徒は、まるで当然かのように、先生の傍に居て。


「……私が、届かない場所に」


 ぴくり、と指が揺れるのを感じる。でも、だめ。

 シオンは片腕を抱いて、己が心の中で今にも渦巻こうとしている嫉妬を抑えつけた。憧れた人は、学院史上最も優秀な教員と名高いその大人の女性は、こんな黒い感情を表に出さないから。

 どれだけ先生のようになりたいと思って、全てをなげうって努力をしてもシオンが立てなかったその場所にいる生徒への、その嫉妬を。


「……だめ、です。ミドリ先生はこんなこと、しないから」


 シオンは、2人が玄関から学院へ入っていくその背中を、最後まで見ることが出来なかった。



 教室へと歩きながらシオンは自分の心の弱さを呪った。ミドリ先生は生徒と距離を置く人じゃないから。あの子と並んで歩ているからといって、あの子と特別な関係であると決まったわけじゃない。

 ただミドリ先生は高等部の教員だったから、中等部から上がってきたばかりのシオンが関わりが少ないのも事実。加えて今朝見たあの緋色のシュシュが特徴的な生徒がシオンよりもミドリ先生と親密に見えて、不安に駆られるのも頷けた。

 ――しかし、あんな珍しい髪型の子、学院に居れば覚えていそうなものだが、と。


「はい、席に着いてください。今日は始業前に、皆さんに紹介したい子がいます」


 疑問と恥と後悔と、朝から荒れ狂う感情がようやく落ち着き始めてきたというシオンに、教室に入って来たミドリ先生は唐突にそれを告げた。今や、憧れのミドリ先生は担任である。

 高等部の担当だから、中等部に居た頃にはどうあってもかなわなかった願いのひとつ。ミドリ先生のクラスの生徒になったからと言って、それで距離が近づくわけではないけれど。


「どうぞ、入って」


 ミドリ先生の穏やかなその微笑みが、に向けられたのだと分かり、シオンは胸がずきりと痛んだ。そう、距離は近づくどころか、クラスの生徒のうちの1人、になってしまって余計に遠のいた気が、していたのだ。

 そんな中見た、今朝の生徒――シオンは一拍遅れて、その事実に気が付く。見たことがない生徒。紹介したい子。


(まさか)


「……」


 一言も発さずにゆっくりと教室に入って来たのは、果たして、あの緋色のシュシュのツインテールの生徒だった。目線は床とぶつかって、表情は見えない。しかし、今にも消えてしまいそうな儚さを纏うその神秘的な生徒は、ただそこに居るだけでクラスメイトたちの視線を奪っていった。

 シオンもそれは例外ではなく、後ろ暗い感情を忘れてしばし、見入ってしまった。


「自己紹介、出来る?」

「――はい」


 その声は、触れれば割れてしまいそうな静謐さに比して、弱々しいものの奥底から活力を感じさせるような、そんな不思議な声だった。


「アカネです」


 俯いた顔をさらに沈めて、表情を隠すように名前を零した生徒。アカネは、それだけ言うと相変わらず視線を下げたまま少し姿勢を正した。

 ミドリ先生は続く言葉を待っていたようだが、アカネにそれ以上を続ける意思がないとみると、


「はい、ありがとう。アカネさんは事情があって高等部から学院に入学することになっていたのですが、手続きの関係で今の時期になってしまいました。ですから、皆、同じクラスの仲間として温かく迎えてあげてくださいね」


 何やら訳ありらしいが、ミドリ先生はそれだけ告げるとアカネに席を示した。空いている所へどうぞ、と。

 教壇から見て扇状に広がる教室には、クラスメイトたち全員が腰かけるに十分な数の席が用意されている。設置された長机に、備えつけの椅子。

 どこに座っても自由ではあったが、シオンを含めてほとんどの生徒は、入学式の日に座った席になんとなく座り続けている。アカネが選んだのは、誰も座っていない最後列、その端の席だった。


「はい、それじゃあ――」


 ミドリ先生が始業前の連絡事項を告げてくれているが、シオンの耳には入ってこなかった。なぜならば、見えてしまったからだ。

 廊下側の端の席に腰かけたシオンは、同じ端の席へ向かって歩くアカネを何となく目で追っていた。傍を通りすぎる時に、アカネをちらと見上げたシオンの目に入った、アカネのその表情。


(――なんで)


 耳を滑るミドリ先生の声。

 ぼやけた視界で何となく見つめた、机の表面。ああ、ここに鏡が無くてよかった。


(なんで、そんなに泣きそうな顔をしているのですか)


 シオンは、まだ知らない。

 アカネのその顔の理由も。

 シオンにとって、彼女がどれだけかけがえのない存在になるのか、も。



※※※



 一度本を閉じた私は、洗面台で、嘔吐した。

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その本の中には、私の知らない私が居ました/秀才少女は、学院の天才が気に入らない 音愛トオル @ayf0114

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