その本の中には、私の知らない私が居ました/秀才少女は、学院の天才が気に入らない
音愛トオル
ワスレナのモノガタリ
昨日と隣あう速度で
よく晴れた春の朝だった。
寮の部屋に差し込む朝陽を全身に浴びて、私は伸びをした。いけない、昨晩の仕事の疲れが抜けていないみたいだ。
「どうも、最近は無理をし過ぎてしまいますね……はぁ。いけませんね」
なぜだろう、と私は思う。
確かに春は新入生を迎えるのに忙しくなるし、最近は入寮したばかりということもあって環境の変化も原因だろうとは思う。けれど、私はそのどれも、しっくり来ていなかった。
「――多分、春だからですね」
学生の頃――正確に言えばその終わり際、学院を卒業するくらいの頃から、「春」という季節が少し苦手になってしまった。その時期から環境の大きな変化を経験するようになったからだろうか。
あるいは出会いや別れの多いこの季節の空気感が苦手なのだろうか。
「いずれにせよ、授業はきちんとしないといけませんから」
私は鏡に映る自分の、腰まで伸びる長髪に櫛を入れる。習慣になっているとはいえ、髪を整える朝はいつも大変なのだ。くるくると手を回して、後頭部で球状にまとめる。お団子の上から、私はお気に入りの緋色のシュシュをつけて、そういえば、と。
以前生徒から言われたことがある。先生って意外とそういう色好きなんですね、と。
「意外も何も、と思いましたが鏡で改めて見ると――自分でも、意外ですね」
苦笑した顔は力なく、誰が見ても疲労が残っている。
けれど、そのシュシュが視界に入るとなぜだかお腹の底から元気が溢れて来るような、そんな気がするのだ。きっと何かを好きになるというのはこういう、なんとなくを拾うことなのかもしれないですね――脳裏で例の生徒に微笑んだ。
「今日も、頑張りましょうか」
窓外に投げた視線は、ああ、どこを見ているのでしょうか――
今朝は春の実力試験の返却があるので忘れないようにと気を付けるあまり、寮長に少し話があるからと言われていたことを忘れていた。内心早く学院に行きたい気持ちを堪えて、待合室で寮長が来るのを待っている。
出されたお茶を傾けている所に扉が開く音が滑り込んできた。
「お待たせ、先生」
「いえ。私の方こそ約束を忘れていてすみません」
「いいんだよ、むしろわざわざすまないね。夜でもよかったんだけど、朝の方がお互い時間が合うかと思って」
言いながら、寮長は机上に包に入った何かを置いた。手のひらに収まるサイズの、これは本、だろうか。
包を開くと、本ではあったものの、表紙には何も書かれていない不思議な装丁。デザイン自体はシンプルだが、それがかえって何の本かと身構えさせた。
「これ、分かる?」
「……いえ」
「あたしもその時は寮長じゃなかったから知らないんだけど、これ、先生が学生寮にいた頃の荷物らしくて」
「――は?」
寮長は何か言っていたが、話が入ってこない。
だって、私は。
「……というわけで、倉庫の奥の方にあったんだよ」
あり得ない。だって私は、寮に入ったのはここの教員になってからのはず。
私は震える手で、本を手に取った。
「小説……ですか?」
「うん。そうみたいなの。何か覚えてる?」
表紙を開くと、一ページ目にはただ、「あの日々の小説」とだけ書かれている。著者名もなければタイトルもない。「あの日々の~」がタイトルだろうか。
その文字もペンで書きなぐったような乱雑さで、とても正規の書籍には見えない。
「……覚えていないですね」
寮長には私の記憶との齟齬については説明しなかった。いずれにせよ今朝は試験の返却がある。今晩にでも詳しく見てみます、と伝え私は足早に事務室を後にした。
胸を衝く焦燥感に、息が苦しくなる。
「なんなのでしょうか、これは」
手に持っているのもなんだか怖くなって、私は一度部屋に戻って、少し考えてからタオルを敷いて、机の上に置いた。寮を後にしても後ろ髪を引かれる思いは消えてくれず、春の風に背中を押してもらいながら何とか学院にたどり着く。
ふと、私は学院の正面玄関へと駆け足で入っていく生徒の姿が目に入って。
「――ぇ」
どうしてか、頬を一滴の雨が、叩いた。
※※※
真面目すぎて生徒に怖がられることもしばしばある私が、この日の仕事に集中しきれなかったのは言うまでもなく本のせいだ。それでも表情には出さずにやりきった私は教員の会議が終わると早々に寮に帰った。
普段なら寮でも授業の準備や自分の勉強に費やす時間を、私は本を検める時間に充てるつもりで食事や入浴を既に済ませている。だがいざ読もうとするとどうしてか勇気が出ず、一度床につく。
「寝れるわけ、ないですよね」
嘆息し、観念して、私はそれならとシュシュを結んだ髪ではなく手首に着けて――目に入る所に着けて――深呼吸を緩衝材にして、本を、開いた。待合室では見なかった2ページ目以降に、何か決定的な文言が書かれているのではないかと腰が引ける私だったが、タイトルの乱雑さに比してあまりにも丁寧な字で書かれた一行目に拍子抜けしてしまった。
書き出しは、こうだった。
「シオンにとってその春は忘れられない思い出となった……」
私はこの時、この小説が私の何かを揺るがすものだと、確信したのだ。
だから、どんなに指先が震えても、零れ落ちる涙がどうしてか止まらなくても、私は、緋色のシュシュに背中を押してもらって、次のページへと進んでいく。
そう、
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