「あの娘は自殺じゃないって、本当ですか?」
折賀打太郎
「あの娘は自殺じゃないって、本当ですか?」
ええ。たしかにAはその夜死んだのですが、それは、世間が噂している自殺などでは決してありません。
まあ、一般的な目線からすれば、彼女には自殺の動機がたくさんあったように見えるでしょう。
複雑な家庭環境、高校でのイジメ、不登校気味だった事実……などなど、
けれど実際のところ、彼女の死は自殺ではないのです。今からご説明しましょう。
Aが命を断つ半年ほど前から、彼女には夜ごと通っている場所がありました。
ほら、隣町の繁華街の裏路地に、打ち捨てられた廃ビルがあるでしょう。あそこの屋上のことですよ。
半年前のある夜、ほとほと人生が嫌になったAは、
巨大な繁華街の片隅にある、見捨てられた廃墟の屋上です。そこには誰もいないはずでした。
しかし、そこで彼女はBと出会ったのです。
Bは色素の薄い髪を無造作に肩まで伸ばし、どこか人生に疲れた雰囲気をまとう美青年(少なくともAの目にはそう映っていました)でした。
こんな夜更けにどうしてこのような場所にいるのか、と自分のことを棚に上げてそう尋ねると、Bは「自分は死にに来ているのだ」と言いました。
彼の持つ
きっとAは、自分と同じだ、と思ったことでしょう。生まれてこのかた、ずっと疎外感を感じてきた彼女のことです。死を覚悟した自分の目の前に現れたBの存在が、どんなふうに映ったかは、想像にかたくありません。
それから、二人は夜通しいろんな話をして、その日は結局、お互い死ぬことなく朝を迎えました。
次の夜、一筋の希望を持ってAが廃ビルに行くと、そこにはやはりBがいました。
昨日と同じように隣に座り、繁華街のけたたましい街明かりを見下ろしながらポツリポツリと会話をする。次の夜も、そしてまた次の夜も。
彼は二十歳で、Aにとっては自分よりもいくらか年上の男性です。普段は誰にも見向きされない自分の話を、茶化すことなくにこやかに聞いてくれる彼の存在に、Aはいつしか夢中になっていきました。
あなたはどうして死にたいの、とAが尋ねたことがあります。
「人生に絶望したからさ。ニーチェの言った通り、絶望は死に至る病だからね」とBは答えました。Bはよく、Aの知らない哲学者や有名な実業家の言葉を用いました。そんなところもまた、自分の知らない世界をたくさん知っているという点で、Aの目に魅力的に映っていたことでしょう。
二人のいる暗い廃ビルの屋上からは、眠らない繁華街が放つ光の粒がギラギラとまばゆく輝いています。
「この汚い街を見てると、本当に死にたくなるよ」とBは言います。「ゾンビみたいな社会人どもを乗せた通勤電車、飲食店のゴキブリ、道に転がるネズミの死骸。そんなものが人生にはあふれている。この世界には、
ポップソングでも歌うかのように死にたい理由を数えあげるB。そんな彼を見上げるAの視線は、それはそれは熱いものでしたよ。
さて、彼と出会ってからの半年間、Aの人生は文字通り一変しました。
いつも何かに怯えたようだった表情はにわかに明るくなり、不登校気味だった学校にも元気に通うようになっていました。彼女が自殺した後、とてもそんなふうには見えなかった、と不思議がる人がいたほどです。
いくら母親の彼氏から酷い扱いを受けようともじっと耐えてやり過ごし、かつてお守り代わりに持っていた遺書も、いつしか自室の机の奥にしまい込んでいました。
日常でどんな嫌なことがあったとしても、夜になればあの廃ビルでBに会える。日々の死にたさを共有できる。そのことが、彼女にとってどれほどの救いとなっていたことでしょう。
Bの存在は、Aにとって文字通り生きる意味そのものでした。
ところが、ある夜Bは、廃ビルの屋上に姿を見せませんでした。
そんなことは出会ってから数ヶ月の間で一度もなかったので、Aは大変うろたえました。
きっと、用事があったのだろう、もしかしたら今夜は眠れたのかもしれない、と自分に言い聞かせましたが、一抹の不安は消えてくれません。
次の夜、そしてまた次の夜も、廃ビルの屋上にBの姿はありませんでした。
にわかに人生の光を見失ったAは、もう二度と彼に会えないのではと不安を覚え、何か悪いことをしてしまったかと落ち込み、ついにはまた死を考えるようになっていきました。
そうして再びAが人生に絶望し、ついにこの世を去ろうと決意して廃ビルの屋上へのぼった日の夜────これが彼女にとって人生最後の日になった訳ですが────、はたしてそこにはBの姿がありました。
以前と少しも変わらない様子で、繁華街のネオンをにらみつけています。
彼を見つけた時のAの喜びたるや、いかばかりだったでしょう。
喜色満面、この三日間どうしていたのかと尋ねると、Bは気のない様子で「ベッドから起き上がれなくてね」と言いました。
Bがいない間どれほど寂しかったか、何回死にたいと思ったか、Aは熱っぽく話しました。それから、少し息を吸って、あなたこそが自分の人生の意味である、と告げました。
その言葉を聞いたBは、しかし、少し嘲るように笑みを浮かべて、「人生に、意味なんてないんだよ」と答えました。
Aはショックを受けました。
半ば告白のように絞り出した自分の言葉がすげなく返されてしまったのですから、当然かもしれません。
しかし。
ここで、ショックの次にAの心に浮かんだのは、「本当にそうだろうか?」という疑問でした。Aは彼をまっすぐ見つめ、大きく息を吸いました。
Bが口にした気のない返事では、彼女の胸に燃える「彼こそが人生の意味である」という燃え盛る炎のような実感は、少しもゆらぐことがなかったのです。
この人は、とAは思いました。
人生に意味があることを知らないんだ。
それからAは、まるで自分がいっぺんに百歳も年をとったかのように感じて、思わず微笑みを浮かべました。
Aは立ち上がってフェンスから身を乗り出し、振り向きざまに「Bくん、みてて」と一言。
そしてこれが、彼女の最後の言葉となったのです。
────ついこの瞬間まで、Bにとって「死」とは、自分の人生を他人と違う、なにか特別にしてくれるものでした。
Bは、かつて大学受験に失敗したことで、もはや自分は理想の人生のレールから外れてしまったと思っていました。自分が失敗して停滞している間に、成功した友達たちは遥か先まで進んでしまっている。もはや、彼らに追いつき追い越すことはできないだろう。
そんな彼にとって、「死」という選択肢を持っていることだけが、彼が自らに貼り付けた「平凡な
ひとり、廃ビルの屋上に取り残されたBは、恐る恐るフェンスに手をかけ、下を覗き込み、息をのみました。
「ひっ……」
そこにあったのはむき出しの死でした。
閃光のように激しい街灯りが映し出す色濃い影。暗く寒々しいアスファルトの上に飛び散った「それ」は、いつか見たネズミの死骸にそっくりでした。
とたんに、激しい動揺と吐き気が彼を襲います。
うろ覚えの偉人の名言や、薄っぺらいインフルエンサーによるまとめ動画の孫引きは、今の彼をまるで助けてはくれませんでした。
ぺたんと尻もちをついた彼は、そのまま逃げ帰るようにその場を後にして家路を急ぎ、一目散に自室のベッドに飛び込んで布団を頭まで被りました。
しかし、どれだけ強く目をつぶっても、彼女の最後の言葉が、表情が、決して消えてくれません。
Aの死は、彼のまぶたの裏に色濃く刻み込まれてしまったのでした。
翌日、Bは朝の6時に目を覚ましました。
彼が午前中に起きるのは、受験に失敗して滑り止めの大学に入って以来、実に数年ぶりのことです。
そしてこれが、彼の人生にとって決定的な岐路でした。
もしいつものように昼過ぎまで寝ていれば、再び「死」が彼の人生を彩っていたかもしれません。彼は、言うなれば自己陶酔的に「死」という言葉を使っていたに過ぎないのですが、人は言葉に引きずられるものです。あのまま屋上でひとり「死」を弄んでいれば、いずれ近い将来に、彼も屋上から飛んでいたことでしょう。
しかし、とにかくこの日彼は、朝のうちにリビングに現れたことで家族を驚かせ、2年ぶりに大学に登校したことで友人たちを驚かせ、実に1年ぶりに彼らと会話を交わしました。
その後の彼について、語ることは多くありません。
数年遅れで大学を卒業、就職し、2、3度の転職と結婚を繰り返した結果、最後は齢九十にして家族に看取られながら穏やかな死を迎えました。
その間様々な経験が彼の人生を襲いましたが、しかしその間、自殺を試みることは一度たりともありませんでした。
人生の荒波に疲れ、繰り返しの日常に嫌気がさし、ふと死の影が彼に覆いかぶさろうとしたそのとき、必ずあの夜のAが蘇り、彼女の存在が、生涯その頭の中を離れることがなかったからです。
Bがぼんやりと抱いていた「死」に対する特別視を、Aはその命を持ってまったく取り去ってしまったのでした。
さて、市民を救うために、その身を賭して燃え盛る家へと飛び込んだ消防士は、はたして自殺したと言えるでしょうか。あるいは、溺れる子どもを助けようと川に飛び込んで、結果的に死んでしまった親は、どうでしょう。
そういう意味で、Aの死は決して自殺ではない。そうは思いませんか?
「あの娘は自殺じゃないって、本当ですか?」 折賀打太郎 @Olunga_datarou
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