最寄りの着流し男 後

 体を起こしてみて気づいたが、どうやらここは公園の近くらしい。

 先ほど見えた街灯はその公園のものだった。

 男の赤い目から逃げるように飛び退き、二歩ほど後ずさる。背中が、尻が、そして頭が痛い。アスファルトに寝かせられていたせいだろうか。


 そう、僕は“寝かされていた”。引っかかる点の一つ目はそれだ。

 普通なら、倒れている人がいたら救急車や警察を呼んだりするだろう。わざわざこんな場所に移動させる必要がない。


 二つ目はその真っ赤な瞳だ。なぜ気づかなかったのだろうか。

 僕は恐らく、その真っ赤な瞳を見て、先の化け物のことを思い出したのだ。


「あなた、何者ですか」

 震える声で問いかける。僕の鞄はあちら側にあるが仕方ない。


「君が先に見た妖怪さ」

 飄々と答える。群青色の着流しが夜風に揺れた。

 赤い目が、光る。

「記憶を失っていることに一縷の望みをかけたが、どうやら叶わなかったらしい」

「ぼ、僕を、ととととって食うつもりですか」

「そうだよ」

 終わった、と思った。妖怪の姿を思い出す。やっぱり4mあったかもしれない。

 勝てるわけがない。その辺のヤンキーにも僕は力で敵わないのだ。

 頭では諦めているのに、体が震えて動かない。怖い、嫌だ、痛いのはやだ、怖い、怖い、死にたくない!

 恐怖でキィン…と耳鳴りがしている僕の鼓膜に、場違いな笑い声が響いた。

「ぷ、ははは、冗談さ」

「へ…?」

「驚いたか?ふふふ、俺は人の驚いた姿を見るのが好きでね」

「な…」

「そういう妖怪なんだ」

 あ、やっぱり妖怪は妖怪なのね…。

 僕は今までの経験から、幽霊や妖怪の類はそっくり信じることにしている。なぜなら、信じないと意固地になっているともっと怖いからだ。

 居るはずのないものがそこに居るより、居るだろうものが普通に居るだけと考えれば多少怖さは軽減される。はずだ。 

 一度いると認めてしまえば、この世に存在しているものがありのままあるだけなので、何も不思議なことはないのだ。

 

「君が先に見たものは全て真実だ。起こったことを一から話そう」

「起こったこと?」

 僕と妖怪を名乗る男は公園のベンチに腰掛けた。

 いくらさっきのやりとりがあったとはいえ、相手は妖怪だ。

 いつでも逃げられるように身構えてはいる。男もそれを察したらしく、こちらをニヤニヤ笑って見ては、さもおかしいといった面持ちで「そんなに怯えるなよ」などわけのわからないことを言っていた。


「先に言ったように、俺は人を驚かすのが好きだ。名をうわんと言う。聞いたことは?」

「ありません…」

「あはは、不勉強なやつだな」

「はぁ、すみません」

「まぁいい。それで今夜も人を驚かせようと家々を物色していたのさ」

「そこに僕が居合わせてしまった、と」

「そう。居合わせた、と言うより俺が引き込んでしまったのかもしれない」

「引き込んだ?そういう能力があるんですか」

「俺にではなく、君にさ。幾時代か過ごしているとわかるが、そういった人間がたまに生まれ落ちるんだ」

 そう言って男─うわんは、目を細めて空を見上げた。目にかかる黒髪がそよ風になびく。僕が続きを促すつもりで口を閉じていても、それ以上を語る気はないようだった。

「君は俺の、うわんとしての姿を見て、驚いて気を失った。失禁もしていたなぁ」

「してないです!」

 絶対にしていない。

「それで、姿を見られこれ危ないと俺は君を明かりの下へ連れて行き、口止めの妖術を君にかけようとしたんだ」

「よ、妖術…」

「簡単なものさ、痛みだって少しもない。この町のルールで、人を傷つけてはいけないことになっているからね。俺は真面目なんだ。…でも、妖術はかけられなかった。ダメだった」

 風が強くなっていくのを足元で感じた。

 土埃が浮き、フェンスを打っている。

 木々がざわめき、電線が揺れている。

 葉が舞い上がり、遠くのブランコからこちらへ滑るように吹かれている。

 しかし台風の目のように、僕とうわんの間には一転して穏やかな風が流れていた。


「なぜ、だめだったんですか」


 うわんの目が再び赤く光った。今度はもっと深く、もっと濃い何かを含んだ“緋”だった。

 うわんは僕を──いや、僕の左肩を指さして言う。


「それのせいだ」


 その瞬間、僕の視界はぐるんと反転する。腕が痛い。強く掴まれたのだ。引かれたのだ。誰に?うわんに。

 つまずきながらなんとか体勢を立て直すも、うわんの左手に首根っこを押さえられ抱かれているせいで身動きが取れなくなってしまった。

 頬にうわんの胸板が押し付けられる。全く嬉しくない。

 見上げるとうわんは正面を睨んでいる。僕もそちらを見やる。


 ───目玉だけがギョロギョロと浮いている黒い靄がそこに、あった。

 大きさは僕の顔くらいか。楕円の餅のような形に、左側からは手らしきものが一本生えている。

「あっあれ、ななななんですか」

 恐怖ですくみだした足を紛らわせるように、うわんの着流しを握り込む。

「君に憑いていたものだよ。正確に言えば、君の“左半身に”だ」

「ひ、左に?」

「心当たりはあるかい?左だけ怪我をするとか、左眼が見づらいとか」

 僕は今までした怪我の数々を思い出していた。そうだ、そういえば、怪我をするたびに見ていたあいつは──左眼にだけ現れていた。

「あります!」

「じゃあ多分これが原因だな。一旦君から離したが、こいつはまだ君の“左側”を狙っている」

「ひっ…」

「俺の手が君の首から離れてしまうと、君にまた入ってしまう」

「ど、どうするんですか」

 一層強く首あたりを押さえられる。

「俺があちらの世界に還す」

「どうやって!」

「人の君が知る必要はない。俺は君の記憶を消さなければならないから、君もこいつも逃がすわけにいかない。だから大人しくうちへ帰ってもらうんだ」

 そう言うとうわんは息を整え、左手で変わらず僕の首を押さえながら、右手で何やら二、三、変な動きをして、よくわからない言葉を呟いた。

「〜〜〜〜〜!」

 今度は一定の声量でお経のような呪文のようなことを発し、黒い靄を睨む。

 そいつはというと、なんとうわんの攻撃のようなものが効いているらしく、目を一層ぐるぐるさせて悶えているようだった。

「〜〜!」

 うわんがそう一言叫ぶと、黒い靄は「ぎゃあ」だの「ぴぃ」だの苦しそうな声を上げ霧散していった。

 あっけに取られている僕をよそに、「平気かい?」などと言いながら僕の首から手を離す。

「す、すごい…本当に倒しちゃったんですか」

「倒してはない。もうこの世にはいないだけさ」

「それ、大丈夫なんですか」

「少なくとも向こう100年ほどは大丈夫だろう」

「あ、ありがとうございます」

 本当に大丈夫なのだろうか。いまいち、このうわんという男は掴みどころがないし、あと妖怪の規模はよくわからん。

 …しかし、これでようやく妖術を使ってもらえる。僕に取り憑いていた何かを追い払ってくれたのは感謝しかないが、うわんのあの恐ろしい姿は一刻も早く記憶から消したかった。

 そして僕は、明日からも何事もなかったかのように学校生活を楽しむのだ。

「あの…なんか、こんなの変ですけど…お世話になりました」

「こちらこそ」

「では、その、記憶の方を…」

「そうだね、その前に君に伝えなければいけないことがある」

 僕は首を傾げた。

「どうやら俺の力じゃ、君の記憶を消せないみたいだ」

 平穏な学校生活が、あと少しのところで、僕の手をすり抜けていった。

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