最寄りの桜詰
藍原
1 最寄りの着流し男 前
今日は帰りが遅くなってしまった。
一ヶ月ほど前からこの鯵田市(あじたし)桜詰(さくらづめ)に引っ越してきた僕は、桜詰南高校に通い、平和な日々を過ごしていた。
僕は不運な人間だ。
これまでに交通事故8回、捻挫19回、骨折を5回経験している。
ここまでくると逆に死んでないのだから幸運な人間なのかもしれない。
そして、怪我をする時に限って変なものを見る。
これが幽霊なのかどうかわからないが、嫌な予感を覚えると必ずそういった異形の姿が見え隠れするのだ。それも、左眼にだけそれが確認できる。一度眼科へ行ったこともあるが、原因は全くわからなかった。
言ったところで信じてくれないので、周りにはひた隠しにしてきた。隠した方が人間関係がうまくいく。小学生の頃はヘラヘラとこの話をしたせいで随分いじめられたものだ。
なので今回、この転校した際にも普通の高校生として振る舞おうと決めていた。
最初は転校生ということで馴染めるか心配していたが、同級生たちは都会から来た僕を珍しがったのかよく話しかけてくれ、一週間ほどで放課後の遊びに誘われるようになった。
今日帰る時間が遅くなったのは、僕の所属している部活動、文芸部が原因にある。
文芸部といっても、まともな活動をしているのは一部の真面目な部員のみだ。
この学校には帰宅部がない。しかし全員どこかしらの部活に所属していなければならないということで、不真面目な生徒や、部活に時間を取られたくないという生徒はこの文芸部に入り、即幽霊部員化するという。
文芸部は半帰宅部として存在していた。
そして僕も、真面目に詩や小説を書くこともなく過ごしていたのだが、今日のホームルーム後部室に立ち寄った際に忘れ物をしてしまったのだ。
思い出して帰り道を引き返すも部室はとうに閉まっていて、鍵を持った先生を見つけるのにかなり時間がかかってしまった。
「ちょっと…怖いな…」
とっぷりと日が落ちてしまった暗い道は、少し先の角も見えず全く知らない道のようだ。
通学路は住宅地を縫っていくので、街灯もそれほど多くない。
何もいないはずの後ろから視線を感じる。あるいは上から見ているかもしれない。下から手が生えてくるかも。
僕は先天性のビビリ症候群が発症していた。
なんだか嫌な予感がする。
手のひらに滲む汗をシャツで拭い、肩掛けカバンの紐を胸元で握りしめる。
そして、お金持ちの坂山くんの大きな家に差し掛かった瞬間、僕は見てしまった。
「…あ」
「え?」
3mほどの、大きな赤い目と黒い歯の異形を。
頭は禿げあがり、手の先に生えた三本の指は真っ黒な爪がギラリと伸びて、光っている。今にもこちらに振り下ろしそうなそれを見て、僕は喉を情けなくヒュッと鳴らしながら息を吸った。
悲鳴をあげたかすんでで我慢したのか、目の前が真っ暗になり、僕は素直に意識を手放した。
───
「おい君、だいじょうぶか」
無駄にいい声で何か喋っている者が目の前に、いる。
視界の斜め下にはピカピカ光る街灯。目の前の男の顔はその逆光のせいでよく見えないが、恐らく黒い髪に端正な顔立ち、声からして20代くらいの男だろう。
そしてその人は──着流しを着ていた。
靄がかかった思考に、先ほどの異形の光景が飛び込んでくる。
そうだ、あいつは──今さっき見たのは、
「よう、かい…みたいな…」
「なんだって?」
訝しげにこちらを覗き込む男。
その時、全て思い出した。僕は確かに、化け物を見た。坂山くんの家の塀にくっついて、何かを待っているような姿でこちらに背を向けていた。
上半身は何も身につけておらず、腰から下は塀から出てきたみたいににょろりと続いていた。
そしてそいつを見ている僕は気づかれた。目が合った。
僕は起き上がり、体に異常がないか腕を回して全身を確認する。
特に怪我や大きく変わったところはないようだった。
男はいきなり起きた僕を支えてくれた。
「君、道端で倒れていたけど、大丈夫なのかい?何かあったのか?」
「あ、いや。別に何も…」
「本当に?」
「え?」
僕はしつこく聞いてくるこの男に違和感を覚えた。
大事なことが、気づかなきゃいけないことが、ずっと引っかかっている。
「何かあったんじゃなくて、“何か見た”とか」
その男は、赤い目をしていた。
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