Ⅱ
兄が日本に戻った翌日、私は病院に向かっていた。
耳の定期検診である。
「いらっしゃい。」
こんにちは、ミヒャエル先生。
手に持っていたホワイトボードにそう書いた。
耳が聞こえなくなって色々不便なことが多く、自前のミニホワイトボードを外出時には持ち歩くようにしている。
ミヒャエル先生は私の担当をしてくれているお医者さんだ。
「耳の調子はどうだい。」
分かりやすくジャスチャーも交えながら、聞いてきたミヒャエル先生に笑みを浮かべて、OKと手で丸を作る。
いつも通り、と続けてホワイトボードにも書く。
そうか、と頷いたミヒャエル先生はパソコンに視線を移し、キーボードを叩く。
私はホワイトボードを膝の上に置いて、あの、と声を出した。
ミヒャエル先生は驚いたように私の顔を見た。
病院に通い始めて私が喋ったことは3回にも満たないからだ。
「日本に、戻ろうかと思う。」
戻る、という表現は少しおかしい気もしたがまぁいいかと気にしないことにする。
兄に言われたこと、もう一度夢を追いかけてみたいということ、それら全てを口に出した。
ミヒャエル先生は考え込むような表情をした後、頷いた。
「いいと思うよ。」
えっ、と俯きがちになっていた顔を上げた。
てっきり止められるかと思ったのだ。
「正直、もう私ができることはジンの耳の調子を聞くことしかない。この5年間様子を見てきたけど、君の耳は聞こえてもいいはずなんだ。」
次々と打ち込まれていくパソコンの文字を目でたどる。
「原因は君のその過去にある。これを機に向き合ってくるのもいいんじゃないか。」
向き合う、か。
たしかにその方がいいのかもしれない。
未だ夢に出てくる彼ら。
日本に行って、全部終わったら耳が治るかもしれない。
はい、と頷く。
「出発はいつだい?」
なるべく早く、と書く。
ミヒャエル先生は頷いて、じゃぁ出発前に一応もう1回検査しとこう、具体的な日にち決まったら連絡してくれ、と言われ頷く。
引越しの準備と大学の手続きとで出発にはまだまだ時間がかかりそうである。
諸々のいつもの検査を終え、病院をあとにする。
大学にそのまま足を向けた。
兄にはまだ行くと断言はしていないが、もう私の心は決まっているのだからまぁいいだろう。
「ジン」
トントン、と肩を叩かれ振り返る。
「お前今日休みだろ?」
「Hallo, Hans.」
ホワイトボードに流れるように書き、微笑むとハンスはため息をついてこんにちは、と返してくれた。
「なんでいるんだ?」
「教授に話したいことがあって。」
教授に?と訝しげな顔を浮かべたハンスに苦笑いをする。
足を進めながら事情を話した。
ハンスとは3年ほどの付き合いで、彼が組んでいるバンドに私が勝手に出入りしている状態でもある。
「なんで日本に行くんだ?」
そういえばハンスには私の事について何も話していなかったなと思い出す。
知っていることは耳が聞こえないことぐらいだろう。
ハンスのことは好きだし、バンドの人たちも好きだから1回歌ってみたいとは思っていた。
「今日はバンドの練習ある?」
「あるが…」
ハンスたちはデビューしているバンドだから練習の頻度も多い。
「行ってもいい?」
「あぁ。」
不思議そうな顔をしながらもハンスはうなずいてくれた。
「14時ぐらいから始めるからいつもの場所な。」
「ありがとう。」
じゃぁね、と手を振って分かれ、教授の研究室に足を運ぶ。
たしか、この時間帯だったら授業もないし、研究室で仕事をしているはず。
一応、事務所に顔を出しておくか。
「こんにちは。音楽学コース大学課程2年のジン・メレンティエヴァです。レロン・リー・グレンヴィル教授と面会したいのですが。」
ホワイトボードに文字を並べ、学生証を提示すると、受付の人は頷いて電話をかけ始めた。
私は父方の国籍を選択したため、名前はロシア系となっている。
もっとも、ファーストネームはどうしても母が譲らなかったためロシア名となっても変わっていないが。
「研究室Hに来るようにと。」
「ありがとうございます。」
会釈をし、階段を上る。
研究室を探し出し、軽くノックした。
普通はドアの向こうからの返事を待つものだが、私は耳が聞こえないため開くのを待つか、自ら開けるしかない。
一応待っていると、ドアが静かに開く。
「いらっしゃい。急にどうしたんだい?」
教授の後ろについて行き、示された椅子に腰掛ける。
差し出されたココアを一口、口に含んだ。
「レポートはもう出ているし、君は質問をしに来たことはないだろう?急に来てびっくりだよ。」
「レロン叔父さん。」
遮るように私は口を開いた。
この教授は実を言うと私の父方の叔父さんである。
レロン叔父さんは少しびっくりした顔をして、なんだい、と身内に向ける顔をした。
「日本に行こうと思う。」
レロン叔父さんの目をまっすぐ見て言うと、叔父さんは嬉しそうな顔をした。
「やっと、踏み出せたか。」
「うん。」
よかったよかった、と叔父さんは喜んだ。
「ジンの歌声はここに留めておくには勿体ないからな。グレンヴィル一家の中でもお前は飛び抜けて才能がある。世界に行くべき人材だ。」
そこまで言われるとは思っていなかった。
ありがとう、とはにかむ。
「だがまぁ、ダニエーレは残念がるだろうな。こんな逸材を傍で見れなくなるんだから。」
あはは、と苦笑をもらす。
ダニエーレ・デ・ポポビッチはこの大学の声楽コースの教授である。
私が歌声を鈍らせないように、トレーニングをしたいと叔父さんにお願いしたところ、驚くことにポポビッチ教授を特別に個別でつけてくれたのである。
教授は乗り気じゃなかったが、私の歌を聞いた途端、声楽コースに来ないかと熱烈なラブコールを毎日のように寄越していた。
「大学はどうするんだ?」
それを聞きに来た、と頷くと、叔父さんは少し考えるふりを見せて口を開く。
「お前は文句なしの優秀だし、この大学と連携している日本の大学も多くある。私とダニエーレで紹介状を書けば、留学という形で行けるはずだ。もし日本でずっと活動したいとなった場合は移籍すればいいし、帰ってくるには困らないだろう。」
叔父さんはパソコンの画面に大学と連載している日本の大学を表示させた。
5校ほどあり、その中の1つは私でも知っている優秀な学校名があった。
「お前くらいなら選び放題だが…耳の事情もかねて一応全ての大学にコンタクトをとってみる。その中で1番いいと思ったところを選ぶのはどうだ?」
それで大丈夫、と頷きお礼を述べる。
「可愛い姪っ子のためだ、遠慮するな。それに優秀な歌手を支援することは私たちの喜びであり、至福だ。」
軽く頭を撫でられ、少し照れる。
「コンタクトが取れ次第、連絡はするが…出発はいつなんだ?」
「なるべく早くしたいけど、手続きとか諸々時間がかかりそうだし、日本の大学の編入が決まったら飛行機をとるよ。」
わかった、と叔父さんは頷いた。
最後にもう一度お礼を言い、研究室を出る。
すれ違った学生たちに挨拶をしながら、研究室棟を出た。
時計を見るとちょうどお昼頃になっていた。
どうしようか、と悩んだ末、親友のグレースを呼び出すことにする。
お昼を一緒に食べないか、というメッセージを送るとすぐに返事が返ってきた。
「Of course!!」
元気のいい返事に笑みを漏らす。
グレースはオーストラリア人の同期で、専攻は作曲だが、縁あって仲良くなった友人だ。
庭園にあるベンチに腰掛け、鼻歌を歌いながら彼女を待つ。
こんなに心が腫れている日はいつぶりだろうか。
「В такие дни пойте песни.」
こんな日には歌を歌おう。
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