君の音に恋をしよう
凪生
Ⅰ
「俺らにお前は必要ない。」
なぜ
「お前よりこいつの方がバンドのためになる。」
一緒に世界を渡ろうと約束したのは君たちなのに。
だからついていったのに。
「俺はもうお前を愛していないんだ。」
嘘つき
激しい嘔吐感に見舞われてハッと目を覚ます。
ヒュッヒュッと息もままならない状態のままトイレに駆け込んだ。
ゲホゲホとうずくまり、大して中身も入っていない胃の中身を吐き出す。
しばらくその状態のままボーッとしていると、背後に人の気配がした。
気だるげに首を後ろに回し、人物を確認する。
そこには心配そうな顔をした兄が立っていた。
だ、い、じょ、う、ぶ、か。
一音一音はっきりと口を動かし、背中をさすってくる兄の優しさにまた吐き気。
大丈夫、と口を動かすけれど果たしてきちんと発音できているのか。
兄に支えられながら立ち上がり、ソファにゆっくりと腰を下す。
差し出された水を飲み干し、ほっと息をついた。
久しぶりにあの夢を見た。
こっちに来てから生活が充実し始めて、なんとか楽しい日々を送れていたのに。
はぁ、とため息を再びつくと兄がそっと抱きしめてくれた。
ありがとう、兄さんがいてくれてよかった、と伝えたいのにそれを伝えることさえ今はできない。
耳が聞こえなくなって早5年。
ストレス性難聴と診断され、治療にどれだけ励んでも未だに聞こえることのない両耳。
心因性のものだから、その原因を取り除かないと治らないのだろう。
ぎゅっと私も兄の背中を抱きしめ返し、もう大丈夫というように笑みを浮かべた。
そうか、とまだ心配そうな顔をしながら兄が離れる。
「俺は明日日本に戻るが大丈夫か?」
スマホに入力された言葉に大丈夫、笑みを浮かべる。
耳が聞こえないという事実を認めたくなくて私は手話を覚えようとは思えなかった。
「
少し悩んだ末に見せてきた文字に目を見開く。
急になぜ、という表情を浮かべると、兄は少し笑みを浮かべた。
「会わせたい奴らがいる。」
「きっとお前も気に入る。」
「お前は世界に出るべき人間だ。」
「あいつらならお前を世界に導いてくれる。」
次々と打ち込まれる内容にめまいがした。
兄は日本で芸能プロダクションを経営する社長であり、カリスマに溢れているせいか、兄がプロデュースした人たちは皆活躍している。
そんな兄が会わせたいという人物。
正直言って興味しかわかなかったが、日本に行くという勇気がわかなかった。
それに私は歌うことに今は自信がない。
どれだけ歌おうがその歌を自分で聞くことができない。
自分の喉を撫で、目を伏せる。
「お前の歌声は健全だ。心配するな。」
「耳が聞こえなくなっててもお前リハビリに歌を歌ってるだろ。」
「その時の声を教授に頼んで撮ってもらって送ってもらったことがある。」
そんなこといつの間に。
「大丈夫だ、相変わらず美しかった。声の大きさの問題はあるが大して重要じゃない。」
「試しにやってみるか。」
え、という顔で兄を見つめると、柔らかく微笑まれた。
目を伏せ、口を開ける。
頭の中でだけ流れる音楽に合わせて口を動かす。
音が出ているのかなんてわからない。
歌えているのかもわからない。
ただ自分の喉に当てた手が、喉の動きに合わせて動いているのが唯一わかるもの。
一通り歌い終えた時、兄に強く抱きしめられた。
なにか口を動かしているが角度的に見えない。
眉根を寄せていると、申し訳なさそうにスマホを打ち始めた。
「やっぱりお前は最高だ。」
「もう、次の一歩を踏み出してみないか。」
「仁、俺と世界を見よう。」
世界を、見る。
私が音楽に出会ってからずっと夢見てきたこと。
人生の大半を音楽にだけ捧げ、音楽にために生きていたあの頃を。
捨てようとしても、捨てられなかったこの気持ちを。
兄の言葉にどうしようもなく涙があふれた。
それは私がこの5年間どんなに求めていたことか。
スマホを持っている兄の手に自分の手を重ね、気付いたらゆっくりと首を横に振っていた。
怖かった。
自分の声をまた捨てられてしまうのではないかと。
自分が足を引っ張ってしまうと。
「仁」
聞こえないはずなのに、不思議と兄の声が頭に響いた。
「Du tust, was du tun willst.」
やりたいことをやれ。
兄は補聴器を私の耳にはめ込んだ。
少しだけ音が聞こえるようになる。
「聞いてみるだけでいいんだ。お前が決めろ。」
聞かなくても答えなんて出ていた。
首を横に振り補聴器を外す。
私は知っている、私が持っている音楽への愛を。
私は知っている、私の兄がどれだけ私を愛しているかを。
このままじゃいけないなんてとっくにわかっていた。
「Lass mich nachdenken.」
久しぶりに歌うこと以外で言葉を出した。
ちゃんと言えているかはわからないけど 、兄の反応を見る限りきちんと言えているのだろう。
私はもう諦めたのだ。
音楽から逃げることを。
この冷めない気持ちを捨てることを。
過去にしがみつくことを。
兄の嬉しそうな顔に思わず笑みをこぼす。
いくらでも待つさ、という兄にありがとう、と口を動かす。
「日本で待ってる。」
この5年間ほぼ見ることのなかった日本語の口の動きに強く頷いた。
私の一家は私をこう言った。
音楽を愛し、
音楽に愛されたが、
神には愛されなかった、と。
当時の私はこう言ったそうだ。
「Ich brauche die Liebe Gottes nicht.」
神の愛なんていらない、と。
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