1話

外から玄関に入る度、ドアノブにかける手が震えた。でも今日は大丈夫。心臓も緩やかに脈を打っている。


遠目からリビングに設置された酸素ルームを見る。中にはサクラが横たわり、お腹を上下に動かしていた。


良かった、息をしている。


こうして恐る恐る確かめてからじゃないと近づけない。毎日毎日、怯えながらサクラを見てきた。


できる限り一緒にいた方がいいって、古森さんに言われた。そうしないと自分みたいにやさぐれると。


酸素ルームに手を入れて、ピンク色の鼻先に近づける。昔はもっと鮮やかな色をしていたけど、歳をとったせいで褪せてしまった。


サクラはわずかに顔を上げて、私の指を嗅いで舐めた。微かにゴロゴロと喉が鳴っている。頭や顎を撫でていないのに、傍にいるだけで喜んでいる。こんなに可愛くて健気な子は、世界でたった一匹だけ。


危なかった、私は取り返しのつかない大きな後悔を作るところだったのだ。


「サクラ、ごめんね。私はもう現実から逃げない」


就寝前、私は部屋から寝具を一式持ち出してリビングに運んだ。ダイニングテーブルを隅へ避けて空間を作る。


「沙都子、何してるの?」


お風呂上がりのお母さんがびっくりした顔でやって来た。


「見てのとおり、ここで寝るの」


「サクラの近くで? でもあなた・・・・・・」


また体調を悪くしてしまうのではと心配の眼差しを向けられる。


「大丈夫、平気だから」


布団の上で仰向けになる。私はできる限りサクラの傍にいると決めたのだ。


お母さんは止めることなくリビングからいなくなった。と思ったら今度は自分も寝具を持ってきた。


「お母さんも一緒に寝よっと」


有無を言わさず私の隣に布団を敷き始める。


「私だけで大丈夫だよ。風邪引いても知らないよ」


「だったら一緒に引けばいいじゃない」


お母さんは頑として譲らなかった。私の頑固なところはお母さんからの遺伝なのかもしれない。


部屋からお母さんが寝具を持って出て行ったことに驚いて、お父さんがリビングにやって来た。仲間外れは寂しいと駄々を捏ねて、結局家族三人が川の字になって寝ることになった。


「三人で一緒に寝るなんて、沙都子が小学生ぶりじゃないか」


雑魚寝状態のお父さんは修学旅行かキャンプに来たみたいにはしゃいでいる。


「そうよ、お父さんのいびきがうるさくて沙都子は自分の部屋で寝るようになったんだから。耳栓なしじゃとても同じ部屋で眠れないわ」


「いいさ、サクラだけは俺のいびきをうるさがらないから。なぁサクラ」


不貞腐れたお父さんは猫なで声でサクラに話しかける。リビングにはテーブルランプの小さな電球の明かりだけがある。


お父さんは私が小学生でまだ三人で一緒に寝ていた頃の話を始めた。


私はサクラがやって来てからは真夜中に一人でトイレに行けるようになって、お姉ちゃんだからと苦手な野菜も残さず食べられるようになったそうだ。


「小さい頃は買えないものをねだるからまいったよ。空飛ぶ箒とか魔法の杖とか。でも子猫が欲しいって願いは叶ったな。沙都子もサクラもこんなに大きくなって、どっちがお姉ちゃんだかわからない」


そう言ってお父さんは笑った。サクラの耳は忙しなく動いていて、こっちの会話を全部聞いているようだった。


「夜中に何回もサクラを見に来ていたけど、早くこうしていれば良かったな」


「お父さんも眠れなかったの?」


「そりゃあね。病気になる前も度々起きてたよ。サクラが家の中にいるか心配になってね。この猫は脱走の名人だから」


「あー、沙都子が学校に行く時、後ろを着いて玄関から飛び出したことがあったわね。何時間もかけて探し回ったっけ・・・・・・。たぶん、今も外に出たいと思ってる。だって常に玄関の方を見ているからね」


明日、抱っこして少しだけ外に連れて行ってみようとお母さんは楽しそうにしている。サクラの未来を楽しみにするって、とても素敵なことだと思った。明後日は、その次の日は何ができるだろうと考えれば考えるほど空白だった未来が切り開かれて、負の感情が薄れていく。


しばらく話し込んでいると、お父さんはすやすやと寝息を立てた。私は横向きでサクラのことを見ていた。少しでも長く、生きている姿を目に焼き付けておきたかった。


家中を元気に走り回って、同じ布団で眠ることができた日々は、当たり前のことじゃなかったんだ。この子にやってあげたいことが山ほどある。過去に戻れたらもっと、もっと幸せに・・・・・・。


「沙都子」


背後からお母さんが小声で名前を呼んだ。まだ起きていたらしい。


「何? お母さん」


顔を見ずに返事する。


すると、お母さんは私の頭を撫でた。


「サクラに対してああしておけば良かったって時間の使い方を悔やむことがたくさんあるだろうけど、この子はきっと自分の生き方に悔やむことは何一つないんじゃないかしら。食べて、寝て、遊んで、寝て、寝て、寝て・・・・・・」


「はは、寝てばっかりだったねぇ」


「だって猫だもん。一生の三分の二くらい寝ていても、勿体ないとは全然思っていない。日向でお腹を上にして気持ち良さそうに眠っていたあの顔を思い出してごらん。自由がそのまま生き物になったような子じゃない。だからね、沙都子。自分を責めないでね。あなたがいるからサクラは幸せなのよ」


頭に乗せられたお母さんの手の温かさ。穏やかな呼吸をして眠るサクラ。そのうち、ポロポロと涙が出てきて視界がぼやけた。


「ありがとう、お母さん」


一晩中、サクラが息をしているか見守る覚悟でいたけど、両親が同じ部屋で寝ている安心さもあって気づかないうちに眠っていた。その夜はなんの夢も見ず、朝まで一度も目が覚めることはなかった。









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