花咲猫
後悔しているのは、勉強を邪魔された時怒らなければ良かったこと、おやつは欲しがるだけあげれば良かったこと、いいや、もっといっぱいある。
私は小学一年生の時、叔父さんから子猫をもらった。道端で弱っているところを保護して献身的に面倒を見ていたのだが、ひどい猫アレルギーを発症してしまった。それでも責任感の強い叔父さんは、子猫が元気になるまではと辛いアレルギーに耐えて一緒に暮らしていたのだ。
「沙都子ちゃんが新しい家族になったらこの子は幸せだよ。サクラをよろしくね」
目が充血して鼻声だったのは、家族として迎えられなかった無念さを嘆いた証なのかもしれなかった。しかし強がる叔父さんに気を遣い、私はアレルギーのせいだということにしてあげた。
ピンク色の鼻が桜の花びらに似ているから、サクラと名付けられた雌の子猫。毛は全て真っ黒で、黄色い瞳がぱっちりと開いていなければ何の生き物なのかわかりにくかった。
初めて飼う動物が嬉しくて、私は小学校にいる間も早くサクラと遊びたくてそわそわした。お気に入りのハンカチをちぎったり、ぬいぐるみをボロボロにしたりといたずらをされて喧嘩をしたこともあったが、叔父さんとの約束をちゃんと守って毎日世話をして、とても大切に可愛がった。
私達は姉妹のようにずっと仲良しだった。一人っ子の私にとってはやんちゃな妹が愛しくて愛しくてたまらなかった。
サクラとの時間はあっという間に過ぎていき、一緒に暮らしてから十年目を迎えた頃、サクラはおかしな咳をするようになった。すぐ動物病院に連れて行って検査を受けると、獣医からは肺水腫と告げられる。肺に液体が貯留し、呼吸がしづらくなり呼吸困難になって、命に関わる病気だった。
間もなく十一歳になるサクラは人間で言えば六十歳。高齢猫のため、治療をしても回復は難しいかもしれないと、獣医は暗い顔をして言った。
薬をもらって、酸素ルームをレンタルしてサクラは入院せず家で療養することになった。入院はストレスを与えてしまうから、なるべくなら住み慣れた場所にいた方が良いと獣医から言われたのもあったが、入院してしまったら二度と会えなくなるのではという恐怖が強かった。
だから、できる限り一緒に時間を・・・・・・と家族で協力してケアをすることを選択した。
「ねぇお父さん、薬を飲んでしっかり眠ったら治るよね? 私、学校休んで付きっきりで看病するよ」
「気持ちはわかるが、学校には行きなさい。家にはお母さんがいるし、サクラがひとりぼっちになることはないんだから心配ないよ。病気が治ることはもちろん願っている、でも」
「でも?」
「沙都子はまだ誰ともお別れをしたことがなかったね。もしかしたら、サクラが初めてお別れする相手になるのかもしれない。その時は・・・・・・本当に辛いだろうけどしっかりと受け止めてあげなきゃいけないよ」
お父さんは安易に治るや大丈夫という無責任な言葉を使わず、これから起こりうることを静かに話した。でも私は、いきなりそんなことを言われて返事ができなかった。サクラがいなくなった想像をするだけで胸がドカドカして、気絶しそうになった。
一概にお別れといっても、仲が良かった友達が転校したり、卒業式を終えて皆がバラバラになったりすることとはわけが違う。永訣。二度と会えないお別れが迫っている。
私は昔、泣いてばかりいる子だった。転んで膝に少し擦り傷ができただけでも泣いて、トンボが肩に止まっただけでも泣いた。泣き虫が治ったのはサクラが家族になってからだった。私が泣くたびに慌てて駆け寄り顔中を舐め回す。顔に魚の生臭いのがつくのが嫌なのから始まり、いつしか私は簡単には泣かなくなったのだ。
「ニャア」
下を向いて泣きそうになっている私を見上げて、酸素ルームの中からサクラは心配そうに鳴いた。猫の寿命は十二年から十八年くらいで、二十年以上生きる長寿猫も少なくない。
ならば、なぜサクラは生きられないのだろう。病気にならなければあと十年近く生きられるかもしれない。
なぜ、猫は人間のように長く生きられないのだろう。
なぜ、自分よりも後に生まれた命が先に消えてしまうのだろう。この子は妹なのに。
寿命を半分こできたらいいのに。
「無理だよ、サクラがいないなんて無理。生きていけない。サクラが死んだらショックで私も死ぬよ」
「でもな、人と猫とは寿命があまりに違うんだ。どんなにサクラが長生きしたって、お前より長く生きることはできないんだよ」
「どうしてサクラは猫なの! 人に生まれてきてくれたら、これから何十年も一緒にいられたはずなのに!」
私はついに泣き出してお父さんを叩いた。お父さんが悪くないことはわかっている。お別れに備えて心の準備が必要なんだと言ってくれているだけなのに、現実を受け入れたくないから八つ当たりをしてしまう。こうでもしなければ、心臓が潰れそうなほどの苦しみを誤魔化せなかった。
「ニャアニャア」
それまで眠っていたサクラは起きて、酸素ルームの中から出てきてしまった。息が苦しいはずなのに、私の泣き声に驚いていてもたってもいられなくなったのだ。
「ほら、サクラが心配してるから泣かないで」
お母さんに宥められてようやく落ち着きを取り戻す。
私は、自分の足元まで来たサクラをそっと抱き上げる。綿みたいで風が吹けばふわっとどこかへ飛んでいきそうなほど軽い体。手放したくなくて、両腕で優しく包み込み、丸い頭に自分の額を押し当てた。
ゴロゴロと喉を鳴らしている。今こうして嘆いているのは、心のどこかで助からないと諦めているからだ。絶対に治ってまた元気になると信じよう、私はそう自分に言い聞かせる。
否定的な考えを一切断ち切ろうと努力するも、ふいに冷たくなった体を想像したり、どこにもいなくなった悪夢を見たり、精神的に疲弊していった。
やはり弱虫で泣き虫で、強がることすらできない駄目な人間なのだ。そう自分を卑下した私は、いつしか死と別れを想起させるサクラを恐れるようになってしまった。
怖くて震える両手で毎日の世話をする。少し目を離している間に息が止まっていたらと思うと、ひどい動悸がした。サクラは眠る時間が増えて、目が閉じているために真っ黒い塊にしか見えない。
もし、このまま目が覚めなかったら。
飲み水を交換しようとした時、手の力が抜けて容器を床に落としてしまう。音に驚いてサクラの黄色い目がぱっちりと開いたが、すぐにまた閉じた。
物音を聞いてやって来たお母さんは、床に座り込んで嗚咽する私の背中をさすってくれた。
「あとはお母さんがやるから。少し休んで」
愛猫と同時に娘まで弱っていくのを両親は目も当てられないようだった。明るかった家庭が一変して暗くなり、笑顔が消えた。
真夜中まで千秋と通話をして、失恋の話を聞いては慰める。その間、自分の悩みを忘れられたので気が楽だった。何かに意識を逸らしていないと、悲しみの渦に溺れてしまいそうだった。
そんな日々が数日続いた後、ひどい失恋の記憶を不思議な店に預けたことで千秋の悩みが消えたと聞いた。
ならば私も、これから訪れる耐え難い別れから逃れるためにその場所を見つけ出したい、・・・・・・それが本心だった。
しかし、どんなに辛い別れでもサクラのことを一分一秒でも覚えているべきではないのか、それが生き物を飼う責任ではないのかと思っている。せっかくここに辿り着いて、別れの記憶を預けられるとわかったのに、いざとなるとどうすることが正しいのかわからなくなった。
身の上話をしていないうちに、雨無さんは何もかもお見通しというように私の色を当てた。まるで話して良いんだと誘導してくれたみたいだった。だから、サクラのことを頑張って話した。
「なるほど、あなたはこれから迎える別れが怖いんですねぇ」
千秋にしたように、私にもクッキーと紅茶をもてなしてくれた。カウンターの傍にあった木の椅子に腰掛けて、乾いた口の中に紅茶を注ぎ込む。
初対面なのに自分の気持ちをたくさん話してしまったが、何だか少しだけすっきりした。
「最低ですよねぇ? ずっと可愛がっていた猫なのに、いざ別れの時が近づいているからって逃げようとしているんだから。日に日にサクラが恐ろしくなります。見ているだけで心臓が痛くなって、苦しいんです。家に帰る度、サクラが死んじゃってたらどうしようと考えると、怖くて帰りたくなくなるんです」
現にこうして逃げるための方法を探している。今もサクラは家で懸命に生きているのに。叔父さんとの約束もこれでは守ったとは言えない。
「愛するものが恐ろしく見えたとしても、距離を置いてしまったとしても自分を責めることはないです。これから訪れる別れから逃げても、誰もあなたを責めやしません」
自分が壊れてしまいそうなくらいサクラのことが大好きなんだねぇ。と、雨無さんは優しく笑った。
この人は私が一番ほしい言葉をくれる。私の選択を否定せず、意見することもない。
サクラが病気になって以来、安らかな気持ちになれたのは久しぶりだった。
「私みたいに、記憶を預けるかどうか迷っている人が来たことはありますか?」
「そうですねぇ、十人十色です。記憶を預けることに何時間も悩む人、説明を受けた後にすぐ預ける人。僕はどれも正解だと思っています。皆、自分の心を守るために必死なんです。重荷を預けるのと同じですよ」
家に帰る勇気が出るまでここにいて良いと言われ、私はぼんやりと店内を眺めることにした。
壁掛け時計の針は一定のリズムで音を立てる。何かに夢中になっているとすぐ時間が過ぎていくけど、じっと秒針を数えているととてもゆっくりに感じる。
時間の許す限り、サクラとの思い出を甦らせる。
舌を出しっぱなしで眠る姿は少し間の抜けていて可愛かった。
今はやせ細ってしまって面影はないけど、ふっくらしたお腹に顔を埋めて匂いを嗅ぐのが好きだった。
頭が重たくて、両手を顔の下においた状態でうつ伏せに寝ることが多かった。謝っているみたいで面白かった。
元気だった頃のサクラが懐かしい。最近は病気で弱っている姿しかないから、なかなか昔を思い出すこともできなかった。
まるで別の猫になったみたいで、すごく遠い存在に感じる。別れが近いということは、こうして徐々に距離が開いていくのだ。
だけど急にいなくなってしまうよりかは、まだまし。心の整理をする時間があるっていうのはひょっとしたらありがたいことなのかもしれない。
先客の二人はとうに店を出て、客は私だけとなった。雨無さんは店内を歩き回り検品作業をしている。帰る勇気が出るまでいていいと言ってくれたが、いつまでもここにいては仕事の妨げになってしまう。
帰ったら、サクラが冷たくなっていたらどうしよう。家にいるお母さんからメールや電話が来ないか心配で、心臓がドカドカして、もらった紅茶を一気に飲み干して深く息を吐く。
大丈夫、サクラは生きてる。そう信じて椅子から腰を浮かせた瞬間、カランカランとベルが鳴った。店に入ってきたのは背が高くて体格の良いおじさんだった。強面で鋭い目をしていて、私は浮かせた腰をストンと降ろし、少し縮こまった。
まるで熊みたいな人だ。彼は慣れた足取りで店内を歩き、きょろきょろと何かを探しているようだ。
「いらっしゃいませ」
雑貨に埋もれている雨無さんが挨拶をする。その声に反応して、熊みたいなおじさんはずんずんと雨無さんのところへ行く。
自分の身長の二倍くらいあるおじさんに、怖い顔で見下ろされても雨無さんはビクともしなかった。おじさんは腰を曲げて雨無さんに顔を近づけて同じ目線になる。取って食われるんじゃないかとハラハラしながら様子を見守っていると、おじさんは一言こう言った。
「よっ、大将。俺の記憶返してもらいに来た」
それまで険しい表情だったおじさんは、ぱっと大きな口を広げて笑った。
「やあ
「うるせえな、俺の記憶なんだから俺の自由だろ」
どうやら二人は顔見知りらしい。緊迫した空気が一変し、和やかな雰囲気になる。
古森と呼ばれるおじさんは雨無さんに記憶を預けているようだ。それにしても、『また』ってどういうことだろう。
雨無さんと古森さんは私がいるカウンターまで歩いてきた。古森さんはこちらを一瞥してから、少し距離を置いて用意された椅子にドスンと腰掛ける。何だか場違いな気がして、邪魔にならないよう早々に帰らねばと思った時だった。
「古森さん、良ければこの子に見学してもらいたいんですけど、どうでしょう?」
突然、雨無さんはおかしなことを頼んだ。呼び止められたみたいで私は固まってその場に留まるしかなかった。
「見学ぅ? 何で?」
古森さんは野太い声で尋ねた。
「この子も別れの記憶を預けるか悩んでいるんですよ。だから先輩客として一つ頼みたいんです」
古森さんはちらちらと困惑したように私を見る。露骨に嫌がられている。そう、まるで腫れ物扱いされている感じがする。気づかないうちに何か気に障ることをしてしまったのだろうか。
絶対に断るに決まっていると思いきや、古森さんはため息をついてしぶしぶ承諾する。
「・・・・・・仕方ねえ。まあ、そうだな、若いし社会勉強になるだろ」
私が頼んだわけではないが、自分のためを思ってくれているようなのでとりあえず一度だけ頭を下げた。
雨無さんは収納ボックスから橙色の陶箱を出した。橙色は確か『期待』。つまり、古森さんは期待のある別れをここに封じ込めたということだ。
なぜ、前向きな気持ちを忘れたかったのか。ここで静かに傍観していれば彼の過去が垣間見えるかもしれない。
「じゃあ、証明書の提示を」
「ん」
古森さんは首から下げたお守り袋から証明書を出した。それはしわくちゃで、何度も折りたたんだり広げたりした形跡があった。
雨無さんは陶箱の蓋を開けて、受け取った証明書を静かに読み上げた。
「令和元年4月2日、
すると、陶箱の中から蛍に似た光が一つ、ふわりと飛んできて古森さんの額の辺りで止まる。それからすっと吸い込まれるように消えて、古森さんは目を閉じて項垂れた。
心配になって覗き込むと、彼は眉間に皺を寄せてどこか苦しそうな表情をしている。
「・・・・・・優羽」
唇の隙間から空気が漏れ出すような声でその名前を呟いた。雨無さんの方を見ると、鼻の前で人差し指を立てている。静かに見守っていろという意味だろう。
人差し指と親指で目頭を押さえる古森さんは、泣くのを堪えているかのように見えた。
しばらくそうした後、ぱっと顔をあげて充血した目を瞬かせながら「もういいや」と雨無さんへそう言った。
「もう預けるんですか? 相変わらず早いなぁ」
「やかましい。こんな辛い記憶、ずっと持っていたらおかしくなる。・・・・・・何度思い出しても慣れないもんだ。簡単に慣れるわけないか、大事な子を人にやるんだから」
『嫁した時の記憶』と、『大事な子を人にやる』というキーワードから推測するに、古森さんは娘がお嫁に行った時の別れの記憶を預けていたのだろう。前にお酒に酔ったお父さんが、私がお嫁に行ったら寂しくて毎晩泣くだろうなぁとこぼしていたことがあった。
全国の父親はみんなこういう風に裏側で寂しさと戦っているのか。
嫁ぎ先に行けばいつでも会えるはずなのに、ちょっと大袈裟ではないかと思う。
でも、話はそんな単純なものではなかった。
「病気を隠したまま死にやがって。どこまでも頑固な奴だった」
この発言で私の推測は間違っていたことに気づく。彼の娘はどこへ行っても会うことができなくなっていたのだ。推測だけで浅はかな考えをしていたことに恥ずかしくなり、俯いてしまう。雨無さんが見学を促した意味がわかった。古森さんは、近い将来訪れる私の姿だ。
「おめぇさんは、何の別れがあったんだ?」
古森さんの方を見ると、彼はカウンターの向こう側を眺めたままコーヒーカップに口をつけている。私に話しかけたんだろうか、素っ気ないせいでわかりにくい。
「あ、えっと、私はまだこれからで・・・・・・飼い猫が、弱ってしまって、それで」
上手く自分のことが言えない。訥弁が不快に感じたのではと心配したが、古森さんは咎めることなく真剣に相槌を打つ。
「そうか、これからか。じゃあ間に合うな。できる限り一緒にいた方がいいぞ。でないと俺みたいにやさぐれちまうよ」
予期せぬ優しい助言に胸がぐっと締め付けられた。たった数秒しか目が合っていないけど、あれはお父さんと同じ眼差しだった。
私のことを直視しようとしないのは、ひょっとしたら亡くなった娘と重なっているからなのかもしれない。
サクラが死んでしまったら、きっと私も他の猫を見ることが辛くなる。
さっきまで感じていた壁が一気になくなり、この人のことをもっと知りたいという気持ちが生まれた。
「あの、また受け取りにって言われているのが聞こえたんですけど、預けたり返してもらったりをしているんですか?」
古森さんは口先を尖らせて雨無さんを睨みながら気まずそうに答える。
「まぁな、期待を込めて嫁に送り出した子が、知らない間に病にかかって呆気なく死んじまったんだ。俺にとってあいつとの別れは、家を出て行った日なんだよ。もっと話をしておけば良かったって後悔してる。死ぬほどな。あの時の光景が何度も何度も夢に出てきて魘される。だから、今はまだこうして時々しか思い出してやれないんだ。本当はあいつの思い出は一秒でも覚えていたいけど、・・・・・・恥ずかしながらこれは俺の心の弱さのせいよ。全部を忘れたいわけじゃないから、あいつも許してくれるだろ。だから、その、おめぇさんも無理すんな」
死ぬほどの後悔。ここに記憶を預けるのは、自分の心を守るため、生きていくために必要なこと。
古森さんの表情は、店に来た時と今では違う。別れの記憶を取り戻したことでとても辛そうだ。
「見学、ためになったか?」
「は、はい。ありがとうございました」
「よし、贖罪の儀式終わり。さっさと預かってくれや」
古森さんは手をパチンと叩いて雨無さんに額を近づけた。
「いちいち近寄らなくても結構です。まったく、嵐のような人だ」
しわくちゃの証明書を再び本人の手に返すと、蛍みたいな光が古森さんの額からポンと出てきて、橙色の陶箱へ戻って行った。
あの光は別れの記憶だ。証拠に、頭の中から出て行った途端、彼から苦悶の表情が消えた。
「・・・・・・終わったか」
「終わりましたよ。またいつでもおいでください」
「へっ、嫌味な奴」
コーヒーカップの中身を飲み干して、「ごちそうさん」と一言告げてから古森さんは早足で店を出た。なるほど、嵐のような人だった。
「ごめんなさい、いきなり見学を勧めて」
陶箱を片付けながら雨無さんは謝った。
「いえ、勉強になったっていうか・・・・・・何だかほっとしています」
「ほっとしてる?」
「はい。ずっと忘れているんじゃなくて、時々思い出す方法もあるんだなって。古森さんは贖罪だって言っていましたけど、娘さんはそんな風に思っていないはずです」
心の強さも弱さも人それぞれで、自分に合うやり方で色んなことを乗り越えなくちゃいけない。これからやって来る別れの瞬間に向けて、ほんの少し心の準備ができた気がした。
「『娘さん』か。古森さんもいつかそう呼べる日がくると良いんですけど」
雨無さんは意味深なことを言った。
「あの、それってどういう・・・・・・」
そういえば、古森さんは子やあいつと言って、一度も『娘』と言わなかった。
優羽という名前に、嫁という名称で勝手に娘だと思い込んでいたけど、そうじゃないのだろうか。
「彼にとっての贖罪の意味は、優羽さんとの別れの記憶を時々しか思い出してあげられないことだけじゃないんですよ」
「一体、何があったんですか?」
「数分の関わりではわからないこともたくさんあります。次に会えた時聞いてみるといいですよ。二回目に会えば今日よりもっと話せると思うから」
謎が深まるばかりですごくモヤモヤする。客のプライバシーを侵害できないのはわかるけど、答えが与えられない宿題をもらった気分だ。
「手に入ればいつか手放す時がきて、巡り逢えばいつか別れる時がきます。命あるものも、ないものも、『在った』からにはいつか終わりが来るんです。君と僕も古森さんもそう、別れは今日かもしれないし、何十年後に来るのかもしれない。今在るものをじっくり見据えて、大切にしてください」
結局、一日を店で過ごした。壁掛け時計は電池が切れたのか、針が動かなくなっていた。役割を果たさない時計は、時間が止まっていると錯覚して安堵する。叶うなら逆戻りしてほしい。でも、時間を止めたり戻したり術などあるはずもなく、ステンドガラスの窓は古森さんの記憶を閉じ込めた陶箱と同じ橙色へ染まっていく。
いい加減、本当に帰らないと両親に心配される。
椅子から立ち上がり、背伸びをして硬くなった体中の筋肉を解す。
「帰るんですか?」
雨無さんはビーズでアクセサリーを作っている。自分が制作した商品も売っているらしい。
手先が器用な彼は、一つの作品をあっという間に完成させてしまう。キラキラしたものが作られていく過程を、ぼんやり眺める時間は居心地が良かった。
「最初にドアを開けた時よりすっきりした顔をしていますね。ここに来た価値はありましたか?」
「不思議な一日でした。少しだけ悲しい気分が緩和されたみたいです。千秋に感謝しなきゃ。でも別れの記憶をどうするのかはまだ決められていません」
「それでもいいですよ。どうしていくのかは自分次第だから。ただ、心を殺してまで我慢してはいけません」
ひょっこり現れた一人の客にここまで寄り添ってくれるとは。雑貨屋の店主というよりはカウンセラー、いや、魔法使いみたいだ。
「ありがとうございます。また、来てもいいですか?」
「もちろん。いつでも待っています」
買いそびれていた民族人形と薄緑色のビーズでできた花の形のイヤリングを買って、名残惜しくも店を出た。
雨無さんは変わった人だった。年下の私には敬語を使って年上の古森さんにはタメ口を使っていた。普通は逆だと思うんだけど、常連客の他に何か理由があるのだろうか。
橙色の空、黒い山のシルエットの向こうに太陽と雲の欠片が吸い込まれていく。暗くなって獣が山から出てくる前に街へ行かなくちゃ。
サクラも、待ってる。
私は駆け足で山の麓を離れ、自宅へと急いだ。夢だったんじゃないかと時々振り返って店を確かめて、心の拠り所が間違いなく存在することにほっとした。
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