第6話 アーテア大森林



 アーテア大森林。


 聖域と呼ばれる大森林。精霊が住む森であり、安易に踏み入ってはならない領域。多種多様な生に溢れ、豊かな実りは新たな命を育む糧となり、生命の循環を繰り返す大自然だ。


 奥へ進めば進むほど森は深くなり、軽く五〇メートルを超える大木が存在する。外部の手など到底及ばず、一部では大森林を神域と人族の間では呼ぶ者もそう多くはない。


 そんな森には、エルフと呼ばれる種族が住んでいる。


 人間に近しくも異なり、老いることのない美しき肉体と尖った耳が特徴の種族。端整たんせいな顔立ちと引き締まった体躯たいく、美しさからも劣らないたくましさと力強さは世の者らを圧倒する。この世界では森の妖精、肉体を得た神の化身と、称されることもしばしば。

 大森林の数ヵ所にはエルフの村が存在し、人族と変わらない生活を送っている。


 だが、その深い森の中を逃げる二人がいた。


 入り組んだ低木の茂みを走り、木々の隙間を縫い、枝で擦り傷がつこうとも必死になって息も絶え絶えになりながらも走り続けていた。


「ララエ。もう少しの辛抱」

「もう、もう限界だよっ……ティンお姉ちゃんっ!」


 ティンと呼ばれる獣人の女性に手を引かれ、ララエと呼ばれるエルフの少女は後方から轟く獣の声に怯えながら必死に走っていた。


 瞬間、黒い影が二人に向かって飛び込んできた。


「――っ! 掴まって!」

「おわっ!?」


 ティンはララエを抱えて、魔物に向けて地を強く蹴る。茂みから現れた黒い影から伸びる手を蹴り飛ばし、影を足蹴に跳び越え、密集する木々のわずかな隙間を潜り抜ける。


 彼女は獣人だ。常人を超えた身体能力と動体視力、猫特有の耳はわずかな音にも敏感に反応でき、嗅覚も優れている。猫のように俊敏に、しなやかに影の奇襲を回避する。


「キリがない」


 ティンは短剣を抜刀し、迫りくる手を斬り飛ばず。彼女は顔色を変えず、ララエを抱えながら淡々と掴みかかろうとする手に対応する。

 だが、影は彼女以上の反応速度を見せ、ティンの片足を掴んで大木に叩きつけた。


「――ッ!」


 ティンは咄嗟にララエを庇うが、堅い幹に打ちつけられた彼女は力なく地面に落ちる。危うく手放しかけた意識を必死に掴んでララエの安否を確認する。


「良かった。怪我はなさそう」


 気絶していたが、安堵の息をついたティンは地面に突っ伏して茂みを睨んだ。


 ガサガサ、と草木を掻き分け、二人を追うモノが目の前に現れる。

 それは、豚にしては通常の三倍ほどの大きさ。細く長いまるで髪のような灰色のたてがみ。人間と豚の中間的な顔面と人間のような歯。肉割れから深紅の血を滲ませ、二十数頭の数が血色の悪い肌をぐにぐにと動かしながら二人を囲う。


 異形の豚は口元を歪ませて、


「ミツ ケ タぁ……」


 言葉を放った。


「――っ!」


 初めて見る異形の豚が喋ったことにティンは目を見開いた。

 村の外には狩りや見回りに出ることがあったティンでも言葉を発する魔物とは遭遇したことがなかった。村の外へ遊びにいったララエを追いかけてきただけなのに、前触れもなく村にとっても脅威となりうる存在が目の前にいる。異常事態だ。


 ララエを守りながら、村にこのことを伝えなければいけない。離れかけていく意識の中、ティンは気絶したララエを抱え、うまく力が入らない体を無理矢理にでも動かす。

「ダイジ ョウブ……、ダイ 、ジョウブ」


 異形は怯える子供に寄り添うかのように距離を詰めてくる。知性的にも思えるが、奴らは言葉を放つだけで会話は成り立っていない。まるで異形が発する言葉は獲物を誘き寄せるためだけの鳴き声、狩りの手段、習性のよう。


 狩りをするティンからして、目の前の狩人の行動はまさにそう見えた。


『クル シクナイ ヨ、助ケテ アゲルカラ    ……ネ』

「……必要、ない!」


 異形の豚が心にもない言葉に、ティンが奥歯を嚙み締めて立ち上がろうとする。

 その時、森に霧がかかった。


「……え?」


 とつぜん訪れた異変にティンは声を漏らした。


 七つの日を跨いだ森に雨は降らず、早朝でも夕刻時でもない真昼に、なんの前触れもなく霧が森を覆った。異形たちも異変に気づいたらしく、鳴き声がやんだ。


「なに……」


 ティンは見える範囲で周囲を見渡した。


 刹那、バァン、と鼓膜が張り裂けるような爆音が森中に鳴り響く。

 聞いたことのない爆発音にティンは思わず目をつむった。再びまぶたを開いたときには、先頭にいた豚の頭部は下顎を残して消し飛んでいた。


 音がした先には、濃霧をなにかが通ったような円形状の風穴があった。濃霧がその風穴を塞ぎかけた瞬間、人影らしき物体が霧を払い除けて飛び込んできた。


 その人影は尋常ではない速度で、頭部を失ってなお動く魔物を斬り捨てて魔物の群れからティンたちを守るようにして立ち塞がった。


 ティンが目にしたのは、直刀と銀色の武器らしき物を持つ兜を被る者。森の外、王都で名を馳せる騎士のような、だけど黒を基調とする暗殺者のような。


「なんとか間に合ったか」

「……だれ」


 ティンは力を振り絞って問いかけると、男は静かに振り返った。


「狩人だ」

「かり、うど……――――」


 短く、そう答えた男。限界に達したティンは意識を手放した。

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