第5話 山駆け
「ほら、市禾! こっちこっち!」
午前七時の早朝。お狗様と市禾は、山を練り歩いていた。
狐碑に向かった昨日に引き続き、今日にかけて休みが続いたためその翌日から稽古をする羽目になってしまった。起床時間は四時半で、準備を省いてかれこれ二時間以上は山の中を歩いているだろう。
「ま、待ってよ……」
先に悠々と歩いていくお狗様を、目で追いかけるも足は進まない。そう、今日の稽古内容は『山駆け』で、昨日帰宅する直前に言ったお狗様の発言は冗談じゃなかったらしい。体力のあまりない市禾を見兼ね、早速体力作りをするための山駆けをする事になったのだ。
「先に行っちゃうわよー」
「待ってってば!」
ずんずんと前に進むお狗様に対し、一向に距離が縮まない市禾。相手はいくら人に近しい姿をしているとはいえ、やはり本質は狼なのに変わりはないようで、特に苦もなく傾斜の多い、且つ湿っていて大変滑りやすい獣道を難なく歩いている。追いつくのに精一杯だ。
今の市禾の服装は、修行の身らしい
今日の天気はどんよりとした曇りで、最近暖かくなってきたものの所詮は春の気温に、高所特有の気圧の低さによって大変肌寒いものとなっている。
それでも大量に汗をかいている辺り、ただ山の中を歩いているだけのはずなのだが、やはり険しい道のりで体温が上昇して発汗してしまっているのだろう。「お風呂に入りたい」など、修行中に考えるべきでない思考も出てくる。
「お狗様……見えなくなっちゃった。追いかけないと……」
だが、今はお狗様に追いつくのが精一杯で、そんな雑念に囚われていてもすぐに脳内から消えた。別に見失ったとて一本道ゆえに迷うことは無いのだが、「追いつかなきゃいけない」という謎の使命感に駆られ、既に疲れきってしまった足を動かし、歩を進めていく。
――――
「もう、遅いんだから」
「そんな……ぜえ、はあ……そんな事、言われても……!」
暫く頑張って歩いた後、山頂についたのかいつの間にかお狗様と鉢合わせる。市禾を待っていたようで、辿り着くとその場から立ち上がり、反面に市禾は自身の膝に手を当てて、息切れを起こして疲れてしまっている。
「ここでへばってちゃ下山も出来ないわよ」
「分かってる……けど……!!」
ただでさえ動きにくい格好だというのに、本格的な山登りは幼い頃の稽古で数回やった程度だ。他には登下校や町に出るための参道を通るぐらいで、きちんと険しい道を進んだのは久しぶりだ。むしろここまで着いてこれた事を褒めてほしいものである。
「丁度いいし、暫く休憩にするわ。ほら、ここから下を眺められるわよ」
息切れを起こし、汗だくになっている市禾を見兼ねたのか、休憩にしようと提案される。お狗様は歩を進めて少し先に行くと、手招きして誘導する。それを見た市禾は後を着いて近くに寄る。
「わぁ……」
漏れ出る感嘆の声。
案内されたのは木々が開けて、地上を一望できる場であった。暗がりであった空もいつの間にか晴れていたようで、雲の間から優しげな日差しをその身に浴びる。暖まっていた体は吹き抜ける風によって涼しく感じてきた。
地上は田舎ながらの風景で、街中より田んぼや近くの山の方が目に入る。幼い頃に見た時と、代わり映えしていない美しい風景だった。
「絶景でしょ?」
「……うん、懐かしい」
「呆れた、本当にサボってたのね」
「お狗様も人の事言えないでしょ」
そんな会話を交わしながら、視線を逸らして横を見る。
そこにあった物は、神社のある山頂ならではの祭殿、奥宮だ。
神道の山駆けというのは単に山を駆けるだけでなく、奥宮へと辿り着くためのもので、当然市禾たちも奥宮が目的地であった。
「お父さん、定期的に清掃してるの?」
「その様ね」
奥宮は石造りの祠で、両脇に灯篭と阿吽の代わりに赤い前掛けのついた狼像が置いてある。当然ながら、奥宮は神社の一部のため神職が定期的に見てやらねばならない。しかし市禾は手伝いすることあれど、今回のように山頂へ赴く機会もないため、やはり正文が手入れを施しているようだ。苔ひとつ無い。
「ほら、ちゃっちゃと休憩しときなさい」
「はぁい」
先程の絶景や対話で疲れを忘れてしまったが、催促されたので岩場に腰をかける。ずっと持ち歩いていた風呂敷の中から経木の小包を取り出すと、中には海苔の貼ったおにぎりが二つあった。一つ持っては口に頬張る。どちらも中身はかつおだ。
何気にこれが市禾の朝食であり、早朝は早起きしすぎたため腹がそこまで減っていなく、正文もまだ起きてはいなかったので自分で簡易的に弁当を作ったのだ。しかし、山駆けによる体力の消費といつもの朝食を食べていた時間が過ぎてしまったことで、とても腹を空かせてしまい、食べておけばよかったと後悔はしている。
「……休憩、終わったよ」
そんな訳で、あっという間に平らげてしまった。腹は満たされず、悶々とした気持ちでお狗様に声をかける。
「あれ、早いわね」
「まあね」
「じゃ、さっさと行きましょう」
「えと……終わったら次は何するの?」
「禊」
「いっ……!?」
お狗様の発言を聞き、震撼してしまう。禊といえば、冷水で身体を清くする事であるが、靭夜だと川に入らなければならない。しかし前述の通り、春先と気圧によって現在の気温は暖かくはないし、川の水は冷たいのだ。強いて言える利点は汗を流せる事ぐらいで、嬉しい訳もなく、休憩する直前まで帰りたかった気持ちが一気に消え失せてしまった。
「何してるの、また置いてっちゃうわよ」
「は、ひゃい……」
そんな市禾を余所に、歩を進めてしまうお狗様。立ち止まって動こうとしない様子を見て疑問に思いながら、催促の声を掛けてくる。
市禾は、一気に重くなってしまった足を、引きずるようにして下山していった。
――――
午前九時。無事に動物に会うことも無く、下山が出来た。
一度その泥に塗れた格好から着替えるため神社に戻ろうと提案され、そのまま境内に向かって歩いていく。
「あれ、藤田さん?」
遠くで人影を見かけた。そちらに注視すると、正文と常連である藤田がいた。何やら藤田が切羽詰まっている様子で、正文は話を聞いてあげているようだ。
「何やら揉め事みたいね。私は離れてるから、行ってきなさい」
「え? でも」
「私が近づくと獲物が逃げちゃうもの」
お狗様はそういうと、ふっとその場から消えてしまった。市禾は困惑してしまうも、確かに気になってはいたので、言われた通り二人の元に駆け寄り近づいていく。
「わ、儂の孫が……
「落ち着いてください」
近づくにつれ、段々と話の内容が鮮明になってくる。どうも藤田は錯乱している様子。正文の袖を強く握り、皺になっているのが窺えられる。
「お父さん。藤田さん、どうされたんですか?」
「市禾。丁度いい、例の狐憑きの相談だ」
「あ……」
そういえば、昨日そういった類の相談をされたと言っていた。それが改まって来たということは、何となく予想がつく。それとなく藤田の方に視線をやると、頬や腕に引っ掻き傷のようなものがあった。
「ひとまず、お孫さんの所に案内してください」
「あ、あぁ、こっちだ」
「市禾も着いてきなさい」
藤田が方向を指差し、先導すると正文と市禾はその後に着いてく。暫く歩き、同時に犬の吠える声が鮮明になってきた。恐らく藤田の飼い犬の土筆だろう。
やがて一の鳥居まで来てしまった。思いっきり境外に居るようで、鳥居の外にまで出てその正体を確認する。
そこには、市禾とそう変わらないくらいの少女が、土筆に吠えられながら頭を抱えて蹲っていた。
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